昔のことせ! ~村上むかし語り~
村上の「昔」の出来事など語ります。
2017年1月16日

094-本庄の挙兵を推論

既述もしたが『上杉年譜』は、本庄が長尾藤景に対して宿恚=(前々からの恨み)があって討ち果たした。そして春日山城から村上へ帰り、武田信玄へ内通したところ、信玄はこれさいわいと悦んだ。

また出羽庄内の武藤義興、会津の葦名盛氏、米沢の伊達輝宗はかねての好誼により本庄に味方する由と聞こえてきた。とあるが、前々からの恨みとは何か、それが謎である。が、それが両者の確執の基であることは確かである。

とまれ春日山城下には、上杉の有力家臣の屋敷があり、その中に長尾や本庄の屋敷もあった。繁長に宿恚があったというが、上杉は繁長に藤景を誅殺せよと命じ、藤景には繁長を誅殺せよと命じた。その上意を伝えたのは柿崎景家であった。

そこで長尾藤景は弟の右衛門督(えもんのかみ)と七〇余の家来を伴って、本庄屋敷を訪れた。名目は関東での高名手柄話という。待ち受けていた本庄邸では、長尾兄弟とその家臣渋谷某を二階の座敷に案内した。繁長は近習の中津川喜三に太刀を持たせて面会すると、中津川は長尾藤景に切りかかる、藤景の弟右衛門督は中津川に刃を向ける。その刃によって中津川は高股を切り裂かれる。長尾方は藤景兄弟と渋谷が切り倒され、七〇余名の家臣等が乱入する。

それを本庄の家臣が討ち果たしてしまった。繁長はその顛末の報告に、長尾兄弟の首級を携えて輝虎を訪ねたところ、高麗橋のあたりで出合ったので、ことのいきさつを報告したところ、輝虎は返答をしない。

そこで思慮を回すに、輝虎は本庄と長尾の二家を同時に潰すつもりで、かく謀略を企んだのだろう。「川中嶋以来、方々の合戦に忠義を尽し候とも徒(いたず)になり、口惜く涙を流し恨み……君臣は義を以て合い、何の罪あって非法に害せられんや」。

と思うにいたり「永禄十年四月廿七日春日山の在府を出でて船にて、翌廿八日瀬波の本庄に着城した」。とは『本庄氏記録』の言うところだが、虚実こもごものようだ。

長尾兄弟を討ったとき中津川の差料は、青江為次作の刀で、以後、中津川家に伝わったとは、筆者が同家のご子孫から聞いた話である。それが長尾討伐のひとつの証拠にはなる、が、本庄に長尾を討たせ、長尾に本庄を誅殺させるというくだりは、『上杉年譜』の「宿恚」により討ち果たしたということと食い違う。

いずれにせよ本庄繁長と長尾藤景は互いに敵意を抱いていて、それが殺傷沙汰となり本庄の挙兵に発展してゆく。村上城攻防戦の顛末は『永禄年中、北越村上城軍認書』に詳しい。延宝二年五月十四日写とあるが果たして真実を伝えているものか。ともあれすべてを書き連ねると、

春日山の府内町を脱出したのが四月廿七日で、翌日には舟で瀬波に着岸、その翌日に鮎川盛長の大葉沢城を攻撃すると五月一日になり逃亡者が続出して城は本庄方に乗っ取られてしまう。

大場喜代司(村上商工会議所ニュース2015年10月号掲載”村上市史異聞”より)

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