むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2022/10/15

021 村上城下(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

大名 堀直竒の石高は10万石であったが、将軍家の脇備[わきぞなえ]ゆえ大きな軍備で侍数380、足軽(兵卒)1000、内高[ないだか]は21万石余に上った。幕府内での堀は無役であったが談伴衆の一人であった。その役目は、将軍に天下の情勢や軍事、経済、学問の話を聞かせることを目的としたもので、武功者や学者などが選ばれた。

 

堀が村上に転封した理由は、米沢の上杉を牽制するためである。城下を拡張して城を堅固にしたことは、防衛都市にすることはもちろん行政・経済の中心地にすることであった。

 

その防衛地域内に町人地を包含した一つの理由は、民衆を敵の略奪・暴行・拉致から守るためでもあった。道路は容易に城に近付くことができぬよう、また槍などを振り回すことができぬよう、狭いところでは約1.5m、広い所でも約5.4mでしかない。また敵の視界を遮[さえぎ]るため交叉点を多くし、四つ角は喰い違いにする。

 

城下の出入口には防御用の桝形を造り、城主や重臣の下屋敷(別邸)を置いた。また、鉄砲足軽の長屋を置き防備させた。羽黒町の東端南側に城主の屋敷、その向かいには家老 野瀬右近の下屋敷を設け、片町には10人の鉄砲衆と長柄衆(槍足軽)を配置した。

 

この当時、片町は堀片にあり(堀の片側にあった町ゆえ片町の名が付いた)、城下の東を防備していた。

 

また、鍛冶町と小国町の境には大門を設け、小国町には十人組頭と鉄砲衆を配置している。十人組頭は、初め京都に設けられた警察権を持った職務であるから、小国町は肴町の桝形と相まって警備の任を負わされていたものと推察される。

 

桝形の機能や位置については次に述べる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年9月号掲載)村上市史異聞 より

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