HOMEおすすめ特集 > むかしの「昔のことせ!」

むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

contents5103_bnr

  

 

現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

2022/01/15

012 城と道(3)

%e5%9f%8e%e3%81%a8%e9%81%933
イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

慶長2(1597)年に成立した『瀬波郡絵図』には、北から府屋の藤懸館(ふじかかりのやかた)、中央部に村上城(村上要害とも)、南に平林城が描かれるが、鮎川氏の大葉澤城やその他の支城はまったく描かれていない。

 

平林城の背後にあった山城は、加護山(かごやま)古城と文字のみが記入されているし、下渡山に存在した城も下渡(げど)嶋古城の名称のみを止め、笹平の庄厳峯(しょうごんみね)に築かれた山城は、将軍嶺(みね)と記入され、かつて砦があったことをうかがわせている。

 

徳川幕府が成立すると、幕府は諸大名の軍事力を削減するため、居城(きょじょう)以外の城を破却せよと命ずる。大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡した元和元(1615)年の閏6月13日、幕府年寄衆は奉書をもって諸大名に通達した。

 

したがって、この年まで藤懸館も平林城も存在していたと考えてもよかろう。前者は旧大川氏、後者は旧色部(いろべ)氏の城館であった。こうした現象は上・中越とも同じであったろう。

 

そこで越後国に残った城は、糸魚川、高田、村松、長岡、三条、新発田、村上となる。この後は三条が廃城になる。

 

元和元年7月に発令した幕府法度は、居城以外に新しく城を築くことを厳重に禁止し、居城といえども無断で修築を加えることを禁じた。したがって修築の場合には、幕府にその場所を明記した絵図を提出して、許可を得なければならなかった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年12月号掲載)村上市史異聞 より

 

2021/12/15

011 城と道(2)

%e5%9f%8e%e3%81%a8%e9%81%932
イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

越後国での最重拠点は高田の春日山城下(現上越市)で、西からは加賀街道、南からは飯山街道と北国街道が達している。そして京都に近いため、古くは国府が置かれていた。

 

その次に重要性のあった場所が村上城下であった。ゆえに天下を統一した豊臣秀吉や徳川家康は、高田城に越後国守を置き、村上城には9万石の村上氏から10万石の堀氏を入れて、山形の最上氏や米沢の上杉氏を牽制させたのである。新発田(しばた)や長岡はその次に位置する。

 

戦国期の城は一領国に一城ではなく、主城とのつなぎの城がいくつもあった。またいくさともなれば敵の城を攻めるため、その城の近くに築く「付け城」と呼ぶ施設があった。もちろん、それらの城も交通の要衝地に設けられた。

 

村上の場合は、いうまでもなく村上が主城で、支城を猿沢城として、下渡嶋城や関口城、それに板屋越城などがつなぎの城となる。いずれの地も出羽道沿いにあり、その道から里道が派生する。

 

色部氏の拠点であった平林城は荒川の渡河点を監視し、米沢往還道の喉元を握っていた。その支城は対岸の花立に存在した。また、鮎川氏の大葉沢城が本庄氏に攻められ陥落すると、鮎川氏は笹平の庄厳峯に新城を築き、大葉沢城の奪還を企てる。

 

こうした小城を破却して、平林と村上と府屋の3城に限定するのは文禄(1592)年間以降になる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年11月号掲載)村上市史異聞 より

 

2021/11/15

010 城と道(1)

%e5%9f%8e%e3%81%a8%e9%81%931
イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

城と道は密接な関係にある。越後国の阿賀北(あがきた)といえば、下越(かえつ)地方であることはいうまでもない。戦国時代、その阿賀北に存在した城といえば夥(おびただ)しいほどの数にのぼるが、江戸時代まで残り、城下町を形成したところは村松(むらまつ)・新発田(しばた)・村上で、いずれも道路が東西あるいは南北に通じている要衝地である。

 

まず村松城下を見ると、村松街道が南北に走り、北は安田から五泉(ごせん)を経て三国往還道に至る道がある。南は加茂や見附(みつけ)と栃尾(とちお)に至る道がある。

 

新発田城下の場合は、北の米沢往還道の支線が延び、南は大室を経て三国往還道につなぐ。あるいは五十公野(いじみの)から赤谷(あかだに)を経て、津川から会津街道に至る道がある。

 

村上城下は、北の大宝寺城下(現鶴岡市)に達する出羽道と、西から東へ向う米沢往還道の基点であった。さらには柳生戸を経て小国へ達する大峠越の間道もあった。

 

こうして見ると、村上の場合はいずれの道路も直接他国とつながっていることがわかる。村松の主要路はいずれも間接的地方道であるし、新発田は会津街道のみが直接他国との通路である。

 

戦国時代の道路は、物資も運ぶが他国他領を侵略するための軍用に使われた。ゆえに他国との接点に存在する地域、しかも人が居住するに適した場所にこそ城を築き、防衛しなければならなかった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年10月号掲載)村上市史異聞 より

 

先頭に戻る