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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

2021/09/15

008 七夕(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

ねぶたは青森や秋田で有名だが、もとは「ねむり流し」あるいは「ねぶり流し」といい、西日本や関東などでも広く行われていた行事である。

 

睡魔を流すために川に入るのだ。それが七夕の禊(みそぎ)と結びついた。『村上町年行事日記』にねぶり流しの記事が見られるのは江戸中後期(1740~)からで、子ども中心の行事であった。

 

太鼓を打ち鳴らしながら川原に出、穢(けがれ)のついた笹を川に流すというものである。獅子舞を舞うようになるのは1700年代の後半からのようだ。これを子ども大々神楽(だいだいかぐら)と呼んでいた。広めたのは伊勢内宮御師(おし)と考えられる。

 

しかし、その七夕信仰はわが国古来の祖霊を迎え、延命を祈願することから離れ、中国からもたれされた乞巧奠(きっこうでん)=星祭りである。短冊に願いごとを書いて星神に祈る。あるいは諸芸の上達を祈願する行事である。

 

そこで欠かすことができなかった食物はそうめんであった。大名の七夕の祝儀物にも使われるほどだ。また、和歌を7枚の梶の葉に書き、7筋のそうめんで束ねる、とは松平大和守が記している。

 

獅子舞の囃し言葉に「小野小町の花の色」という文句がある。これは簓摺(ささらすり)の衣装と相まって、七夕の日に京都などで行われていた華やかな衣装の小町踊りの影響であろう。「花の色も移りて小町踊」の文言が残っている。それを風流踊と呼んでいた。「ふうりゅう」とは呼ばない、「ふりゅう」である。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年8月号掲載)村上市史異聞 より

 

2021/08/15

007 七夕(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

盆、正しくは盂蘭盆(うらぼん)、精霊会(しょうりょうえ)ともいう。7月13日が入りで初日であるが、実は7日が初まりであった。その日の夕方、やがて訪れる先祖霊に献ずるため、あらかじめ水辺にかけて置いた棚の上の機(はた)で布を織る。それが7月7日の夕方に行われることから七夕と書いて「たなばた」というようになった。

 

それから精進潔斎すること7日間、いよいよ祖霊が常世波(とこよなみ)に乗って訪れると、本格的な盆行事に入ることになる。これが日本の七夕信仰であったが、中国から牽牛(けんぎゅう)と織姫神話が移入されると、七夕は星祭りの要素が強くなる。

 

さらに、ねぶり流し(睡魔を祓い流し、無病息災を祈願する俗信)の行事がつく。

 

あるいはまた、伊勢信仰が流行する江戸後期になると伊勢神楽が重なり、二重三重の層をなし、本来のたなばた信仰がまったく失われてしまった。

 

たなばたがわが国古来の神道、仏教に結びつく証拠の一つは供物でもわかる。すなわち、その日には鯖(サバ)を供える習慣であった。あの魚の鯖だ。なぜ鯖なのかであるが、元は豊受大神(とようけのおおかみ/稲荷大明神)へ供える神饌(しんせん)を産飯(さば)と言ったことに起因する。それがやがて寺院の食物になると、盆には鯖を蓮の葉に包み、盆鯖と称して菩提寺などに届けるようになる。

 

岩船では、葬家の家の前に小さな棚を設け、その上に餓鬼に施す握り飯をあげる風習があり、それを「サバ」と呼んでいた。すなわち施餓鬼供養(せがきくよう)の供物である。

 

そういえば岩船の七夕丸の行事は、舟で彼岸(ひがん)と此岸(しがん)を渡海するもので、日本の原初の信仰形態を伝えていて貴重なものだ。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年7月号掲載)村上市史異聞 より

 

2021/07/15

006 羽黒神社の祭日

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

村上羽黒神社の祭礼は、暦のころは6月7日であった。明治になり太陽暦になると7月7日になったが、季節的には変わりがない。では、なにゆえ雨期のさかりに祭りをするのか。羽黒神社の社殿が建立され、遷宮祭が行われたことに端を発する。確かにそれはそうだ。けれど、そんな単純な理由だけではあるまい。

 

祭神の月読命(つきよみのみこと)は「青海原の潮流を治め」る霊威を持つ、とは『日本書紀』の記すところだ。されば潮の干満を制御する月の運行に関るということになり、月の宇宙神と水霊を崇める信仰ということになる。

 

そのように考えると、梅雨のさなかに神を招き祭りを行うことは、月神=水神の霊力によって、水の過不足を調節して水害を防止し、豊作を祈願するためであったといえよう。

 

同社が農耕神であるもう一つの証拠は、合祀する倉稲命(うがのみたまのみこと/稲荷大神)と奈津比売命(なつひめのみこと/正しくは夏高津日命 なつたかつひめのみこと)であることだ。稲荷さまは説明するまでもなく、稲なりの神だ。

 

夏高津日の父神は羽山戸神(はやまどのかみ)で、山形県長井市白兎に葉山神社があり、大きな信仰圏を持っている。白兎は月を擬したもので、羽山=葉山は山神である。山神は春に里に降りると農耕神に変ずる。江戸時代初期の村上藩主・堀直竒(なおより)によって祀られた羽黒神社の祭礼は、水害の発生しやすい時季でなければならなかったし、作物の成長が一段と進む前でなければならなかった。

 

梅雨を乗りきり夏を越し、豊かな秋を迎えることを願ったのだ。いったい祭礼には人々のもっとも切実な願いがかけられる。災害・疫病・凶作などの忌み避けるべきこと、豊穣などへの期待すべきことで、それは過去も現在も変わらない。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年6月号掲載)村上市史異聞 より

 

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