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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2026/09/10

068 越後永正の大乱と三面村の先祖(10・終)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

妻有[つまり]城の山吉盛藤(盛春)といえば、三条城の山吉能盛[やまよし-よしもり]の弟で、盛藤は上杉顕定[うえすぎ-あきさだ]の部将となり、能盛は長尾為景[ながお-ためかげ]方の部将となっていたことは既述した。

 

その妻有の山吉盛藤の元に、「味方敗軍、あまつさえ御大将討死」「味方崩れたち、妻有城に向って敗走中」頻頻[ひんぴん]として敗報が伝えられてくると、城将・山吉盛藤は、「関東衆とは、かくも脆い兵であったか。いや、まさかそうではあるまい」などと心の中で反問したり、半信半疑であったりであったが、やがて敗残の兵がつれづれになって逃げ落ちてくると、顕定の敗死はまぎれもない事実ということを信じないわけにはゆかなくなった。

 

そこへ、うらなり瓢箪[ひょうたん]に兜をかぶせたような上杉憲房[のりふさ]が、数名のこれまた蹌踉[そうろう]*とした兵を伴って逃げてくると、落胆を隠しきれず肩を落し、大きな嘆息をつくと、呟くようにぼそぼそと、「ひとまず城中に潜み、時機を見計って関東へ帰り、捲土重来[けんどじゅうらい]*を期すことをお望みいたします」と言ったものの、憲房には顕定の仇を晴らすことなどできはしまいと思ったし、また、己は権力抗争の続く越後にいることも耐えられない思いで、沈痛にくもった眉を伏せて、「越後守護職の上杉房能[ふさよし]様が殺され、房能様の兄・顕定様が怒って、為景を討つため鎌倉からやってきたが、これまた逆に殺された。おらが山吉は家の存続のため、兄は上杉定実[さだざね]を担いだ長尾為景にくみし、弟の俺は主従の筋を通すべく房能様にお味方した。
*蹌踉 …よろめいて足取りがおぼつかなくなる様子
*捲土重来 …(戦いに)一度敗れた人が、また勢いを盛り返してくること

しかし、為景殿も房能様・顕景様も、苛斂誅求[かれんちゅうきゅう]*、万人のための政[まつりごと]なぞ、これっぽっちも思いやしない。おらが主家の上杉房能・顕定家は滅亡してしまったからには、俺らは寄る辺のない身となった。兄・能盛を頼って降人[こうにん]*となるか。ならばなにゆえ兄弟分れしてまで戦した。降人なんど筋が通らぬ。よし、いっそ武門[ぶもん]*を捨てよう。一族を安泰にするためには、武門を捨てて争いのない所で暮す、これしか道はあるまい。
*苛斂誅求 …人民の側の事情などを無視して、一方的に無理矢理税金を取り立てること
*降人 …敵に降参した人
*武門 …武士の家筋。武家

出羽・越後境に三面[みおもて]という桃源境のような所があると聞く。そうだ、一族をそこへ引っ越しさせよう」と決心し、一族の者にも言い含めた。そこで盛藤がたどった道は、荒川か三面川かのどちらかを遡行するかだが、荒川は伊達領の小国[おぐに]を経なければならない。だが三面川の下流域は本庄[ほんじょう]領である。かつて本庄時長[ときなが]は反長尾為景だったことから、ひとまず本庄を頼って、三面川を遡行していったものか。この山吉盛藤が小池大炊介[こいけ-おおいのすけ]と名を改め、「村上領山入、出羽国米沢領入山、境界三表[みおもて]の小池大炊介の則ち先祖なり」とは『上杉氏大系図』の記すところである。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年8月号掲載)村上市史異聞 より

 

2026/08/15

067 越後永正の大乱と三面村の先祖(9)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

狭く小さな山地ゆえ、作戦を展開する上で寡兵の上杉顕定[うえすぎ-あきさだ]勢には有利だった。片や加勢衆が入り混じった高梨方は、指揮命令系統が一本でないため混乱し歩調が一致せず、しかもはやる心で一気に勝負をつけようとした高梨政盛[たかなし-まさもり]の判断が甘かった。ものの数刻もぜずして高梨兵は敗れた。これに気をよくした顕定は、関東衆が得意とする野合せ(野戦)で勝負を決しようとした。

 

後方の長森原[ながもりはら]に布陣する500余の長尾為景[ながお-ためかげ]兵に攻撃の鉾先を向けたのである。緒戦で高梨勢に勝ち、為景勢を弱兵とみた顕定の判断であった。事実、高梨勢を敗走させた顕定勢の戦意はすこぶる高く、迅雷[じんらい]*のように為景兵に襲いかかった。為景兵は何がなんで、かくも脆いのかと思うほど弱い。
*迅雷 …激しい雷鳴

 

一方の上杉顕定という人物は、打物*にも膂力[りょりょく]*も人に勝れていたが、武将というには資質が欠けていた。やはり公家あがりの武士であった。為景の弱兵に勝ち、悠揚迫らず得意然としていたところに、態勢を立て直した高梨政盛が不意に逆襲をかけたのである。このとき高梨の手勢は700、野合せでは兵力の差が戦を左右する。数にものを言わせて新手新手を投入する。
*打物 …刀剣等の打ち合って戦う武器
*膂力 …筋肉の力。腕力

 

兵もまた、社頭での御神託を信じ勇気奮発、猛り狂って槍を振るう。ついに顕定勢は崩れ、腹が破れ背が食われた鯰[なまず]のようになった。顕定は朱の唇を黒い歯でかみ、青い眉を釣り上げて、馬腹を蹴りつつ叱咤する。湿気の濃いむっとする長森原の草がなぎ倒され、砂利を蹴飛ばし砂塵が舞った。

 

いつの間にか顕定の周囲から部下の将兵は離れ、見知らぬ姿が増えつつあった。その中に薙刀[なぎなた]をかい込み、手綱さばきも鮮やかな騎馬武者が駈け寄ってきた。高梨政盛だった。政盛は、顕定の武者姿を一目見ただけで敵将・上杉顕定と分かった。馬具から鎧、武具が越後の田舎武者の持つものでなく、華麗な装飾を施したもので、いかにも公方好みであったからだ。

 

政盛は馬から下りて槍[やり]をつけると、顕定も馬を下り薙刀を構えた。二人のみが乱闘の巷[ちまた]から取り残され、槍と薙刀のいつ終わるとも知れない演技に死力を尽くしてる。面倒とばかりに政盛は、からりと打物を捨て、大手を広げ、何か怒鳴った。組んで勝負をつけようと言ったのだ。喚[おめ]きが聞こえ、具足のぶつかり合う鈍い音がして共にどっと倒れ、上になり下になり激しくもみ合っていたが、やがて黒具足の武者が立ち上がり、槍で貫いた兜首を高々と掲げ、異様な大呼[たいこ]を上げた。

 

芦[あし]むらが血に戦慓[せんりつ]し、夏空が赤黒く曇り、強風が吹き抜けた。子息・憲房[のりふさ]は父敗死の悲報に接すると抗戦の不可を悟り、将兵に撤退命令を告げ渡した。ひとまず妻有[つまり]の山吉を頼り、それから上州の白井城に入り屈辱戦を挑むつもりであった。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年7月号掲載)村上市史異聞 より

 

2026/07/15

066 越後永正の大乱と三面村の先祖(8)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

椎谷城は標高42メートルの丘陵にあるもので、そう堅固とも思えない。けれど守備する高梨政盛[たかなし-まさもり]勢は死を賭し、上杉顕定[うえすぎ-あきさだ]勢の波状攻撃に耐えた。麓で湧き上がる喚声*と喊声*、怒号、嘶[いなな]き、馬蹄の音、粉塵、具足の金属音が重苦しく城を包みかすませた。
*喚声 …興奮した叫び声
*喊声 …大勢が同時にどっと上げる声

 

思いのほか城兵は強く、城は堅固だ。顕定は新手に在地の兵を募るけれども、先の刑罰を深く恨んでいた在地領主は誰も加勢しなかった。顕定は自ら墓穴を掘ったようなものだった。永正7(1510)年6月12日、顕定は自ら陣頭に立って城下に迫った。手ぐすね引いて待ち構えていた政盛は、200余の将兵に「十分に引き寄せてから撃ってでよ。よいか、ひるむでないぞ!」。弓弦が鳴る、虚空を驟雨[しゅうう]*のように矢が走る。驟雨が止むと木戸が開かれ、どっと城兵が吐き出され、顕定勢に喚[おめ]きかかる。顕定は馬上につっ立ち、声を励まし、むちも折れよと疾駆させる。戦闘は一進一退、攻守どちらに分があるか分からなかった。
*驟雨 …突然降り出して、すぐにやむ雨

 

しかし、兵力は信濃衆の小笠原・市川・島津らが加勢している高梨方がおよそ1,200騎、顕定方が800余騎と『鎌倉管領九代記』はいう。籠城方が圧倒的に有利であることが分かる。籠城戦での兵力は、絶対的に攻め手が多くなければならない。場合にもよるが、攻め手が守り手の倍の兵力でも落とすことは容易でないという。それほど籠城戦は、攻め手にとって厳しく、兵力を浪費するものだが、無理を承知の上で顕定が城攻めを敢行したことは、関東方面の情勢に気を取られていたか、それとも戦知らずの公方育ちであったか、いやその両方であろう。高梨系図にこんな話が書かれている。

 

高梨政盛が出陣するとき、若宮八幡宮へ戦勝を祈願して社頭[しゃとう]*に額[ぬか]ずいた。するとその時、首のない雀[すずめ]が落ちた。これを家来どもは不吉として忌み嫌った。逆に政盛は、「誠に瑞相。首のない雀が落ちるとは、敵兵を多く討ち取るというご神託、祝着[しゅうちゃく]の至りじゃ」と喜んだという。おそらく政盛が家臣の某[なにがし]に命じた作為であろうが、それも敵の寡兵[かへい]を知った上での芝居であろう。少数兵力が多数の籠城勢を攻める作戦とはこれいかに、よほどの謀略を用いない限り落とすことのできないのは自明の理である。
*社頭 …神社の社殿付近。または社殿そのもの

 

そこで政盛は自信満々、凛とした声で、「兵力の差からしてもわが方に利がある。ゆめ負けることはない、勝利は眼前である。よし、兵を増やし一気に勝負をつける」と断固下知をくだす。もとより大きな山城ではなく、狭隘な尾根や山腹に細い径[みち]が麓へと連なっていて、大軍の軍事行動には極めて不自由である。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年6月号掲載)村上市史異聞 より

 

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