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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2026/01/15

060 越後永正の大乱と三面村の先祖(2)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

長尾為景[ながお-ためかげ]は、戦を有利に展開するために、上条[じょうじょう]上杉定実[うえすぎ-さだざね]を旗頭にまつり上げた。その定実は、為景と対立を深める上杉房能[ふさよし]の養子である。このことは既述した。

 

為景の狙いとするところは、上杉家一門を分裂させ、勢力の衰退を謀り、やがては傀儡[かいらい]の国主にすることである。また、上杉一門が互いに反目し合えば、各地に盤踞[ばんきょ]*する国人領主も互いの利害得失から対立する者や去就に迷う者も現れ、房能が国主とはいえ、その旗の下に参じようとする者を躊躇[ちゅうちょ]させる。
*盤踞 …根を張って動かないこと

 

足利尊氏が興した室町幕府が続いて連綿160余年、ようやくその衰亡の色を表しはじめてきた。為景の謀略は、そのような世情に乗ったものといってもよい。為景に反逆の機を与えることになった房能には、国主としての能力が欠けていたのかもしれない。ともあれここで越後国内は一気に焦げ臭くなり、緊張感が高まった。

 

越後各地の国人衆の元には両陣営からの誘いの使者が駆け回る。中でも注視されていたのが、阿賀北の中条藤資[なかじょう-ふじすけ]や本庄時長[ほんじょう-ときなが]・色部昌長[いろべ-まさなが]である。彼らの城には、定実からの早馬が到着したと思えば、房能からの早馬が入る。それもひっきりなしに参陣の催促だ。

 

まず、定実・為景陣営の旗色を鮮明にしたのは、中条の中条藤資・古志[こし]の長尾景長[かげなが]・赤田[あかた]の斎藤三郎左衛門尉・安田[やすだ]の毛利新左衛門・刈羽[かりた]の宇佐美房忠[うさみ-ふさただ]らであった。中条の庶家[しょけ]*で領地が隣接する黒川は、地境問題で中条との争いが絶えなかったから、必ずしも歩調は同じでなかった。また、色部や本庄にすれば勢力の拮抗する中条とは常に対立関係にある。当然、房能の勧誘を受けることになる。
*庶家 …宗家(本家)から分かれた一族

 

上条と隣接する八条の城主・八条修理亮[しゅりのすけ]は、上条の影響を強く受けていたから上条方となり、色部と同一歩調をとった。こうして越後国内は真二つに割れ、その影響が隣国に現れ、米沢の伊達はの誘いに応じた。また、庄内の武藤[むとう]と会津の芦名[あしな]も定実=為景陣営に参じた。八条と歩調を合わせた桃井は西蒲原[にしかんばら]の黒滝城にこもった。

 

片や山内上杉房能、片や長尾為景が擁するのは上条上杉定実で、この二派に分裂して争いは苛烈を極めようとする。房能は中条藤資に所領を安堵したり、門前の耕雲寺に土地を寄進したりして国人衆や寺院の歓心を買い、支配に乗り出す。その一方では、京都の足利将軍にもタカやウマを賜り、誼[よしみ]を通じ勢力の伸長を図る。

 

そうして着々と基盤を固めつつあったものを為景は、これを看過すれば「おのれの政権奪取の機会が失われる恐れが十分にある。よし、されば房能の軍事力はいまだ不十分、大いなる隙がある。その隙につけ入り、攻め滅ぼしてしまえ」と反逆の決意を固め、麾下[きか]*の将兵にげきを飛ばした。房能は房能で、為景打討の機をうかがっていたし、幕府も房能の越後国主を認めていたから、房能の鼻息は荒い。

 

越後国に暗雲が漂いつつある時に、越中と能登に一揆が蜂起したという情報がもたらされる。その数30万というから極めて大規模な一揆である。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年12月号掲載)村上市史異聞 より

 

2025/12/20

059 越後永正の大乱と三面村の先祖(1)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

鎌倉公方と呼ばれた関東の足利氏のもとで勢力を張り、越後国守護職に任じられた上杉氏は、鎌倉山内[やまのうち]に居を定めた山内上杉氏と扇谷[おうぎがやつ]に本拠を置いた扇谷上杉氏があった。のち山内上杉を継ぐのが上杉謙信であり、扇谷上杉は小田原の北条に滅ぼされてしまう。

 

とまれ、いまだ足利将軍時代、とはいえ将軍の威勢はようやく衰え、各地に下克上が横行し反逆は日常茶飯事、主殺し・親殺しが相次いでいた。文明5(1473)年に扇谷上杉を継いだ人物を上杉定正[うえすぎ-さだまさ]という。この定正のもとで実力を十分に発揮して活躍したが、非業の死を遂げたのが太田道灌[おおた-どうかん]である。

 

『七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』と詠んだとされ、文武両道に達した武将である。実際、道灌の実力は比類ないもので、数々の合戦では武功を挙げ、江戸城を築き、学問は鎌倉五山で励み、また山内上杉との関係も良好にすべく斡旋に努めた。ところが、その才能を妬んだのが主君・定正である。実は関東での最高位である関東管領職は山内上杉のものであったから、山内上杉にも尽くす道灌を憎んだものかもしれない。

 

あろうことか定正は、甘言を用いて道灌を誘い殺してしまった。烈火のごとく怒ったのは、山内上杉の当主・顕定[あきさだ]である。その顕定に味方したのが、越後守護職であった父の房定[ふささだ]と弟の房能[ふさよし]である。ところが不幸にも房定は間もなく病死し、その跡は房能が継ぐ。長享2(1488)年頃である。

 

この越後守護・上杉の守護代を務めていたのが長尾為景[ながお-ためかげ]という人物で、その子がのちの上杉謙信である。守護代という職は、守護職に代わって政務を執るものであるから、府中(春日山城)に常住している。また、守護職・上杉の執事(家司の長官)の任にあったのが山吉氏である。その山吉は、長男の景久[かげひさ]は三条城にいて、弟の盛春[もりはる]は妻有城(十日町市)の城将であった。

 

ところ上杉房能と長尾為景の間で確執が惹き起きる。その理由を『鎌倉管領九代記』は、房能が侫人[ねいじん]*の讒言[ざんげん]を信じ、為景を討つべく支度していたのが発覚したのが発端という。また『編年上杉家記稿』は、上杉房能に苛政[かせい]**が多く、それを為景が諌言[かんげん]したが、房能が聞き入れず、両者の間が悪化したと記されている。両者とも信じるに足りない話である。
*侫人 …口先巧みにへつらう、心のよこしまな人
**苛政 …厳しい政治

 

端的にいえば、家運の傾きかけてきた守護職・房能とそれに替わって政権を握ろうとする守護代・為景の勢力争いであろう。そこで戦局を優利に展開するには、多くの土豪や国人領主を味方に付けることである。その手段の一つは、いかに自分に正統性があるかということを掲げなければならない。そのためには多くの武将が納得する人物を旗頭に据える必要がある。さてその人物は誰ぞと沈思黙考した為景は、そうだ房能の養子の定実[さだざね](越後守護上杉氏の分家、上条[じょうじょう]上杉=柏崎居住)がよいと判断した。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年11月号掲載)村上市史異聞 より

 

2025/11/15

058 次太郎騒動(12・終)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

古舘村の常光寺へ逃げ込んだ次太郎であったが、その後ろ姿は数人の追手に発見されていた。寺といっても、そうばかでかい寺ではない。それに住職もいるが、次太郎は溺れる者は藁をもつかむ思いであった。さればと追手は寺を取り巻き、じりじりと包囲網を縮めてゆく。

そして口々に、「抜かるなよ。縁の下は? 位牌壇の下は見たか? 須弥壇の下も見ろよ」と言って、片っ端から物陰を見て回ったが、「いない、……いない。さては逃げ去ったか」。一瞬、追手一同の上に狼狽[ろうばい]が走ったが、いずれにしても、そう遠くは行けまい。近くに潜んでいるに違いないとして、探索の手を外方に向けたところ、ほどなく裏手の方がなにやら騒がしい。古い墓地を隔てて蕗[ふき]畑が広がるところだ。次太郎は、その蕗畑に背を丸めて潜んでいたところを発見された。

 

南無三宝[なむさんぼう]、絶体絶命、もう逃れるすべはない。次太郎の上に電撃が走り、青い閃光が放電する。恐怖で背が硬直する。数を頼んだ追手は、四方八方からわっと次太郎に折り重なり、たちまちのうちに縛り上げてしまった。そこへ大塚万右衛門が駆けつけると、次太郎の顔を見知った者が「大将、この者が次太郎! 首謀者の次太郎ではや」、「む、でかした」と大きくうなずいた大塚は、中条へ連行するように命じ、そのかたわら残党の探索を命ずる。けれど命ずるまでもなく、次々と各方面から犯人捕縛の注進が入る。煩雑ゆえにその名をいちいち挙げることは避け、各役所の牢に入れられた人数を記す。

水原役所は7人、柏崎役所は12人、黒川役場は11人、松平小豊治知行所(現荒川)は20人、村上役場へは庄内町の大工・佐太郎が護送されていった。ほか大小合わせて140人である。

 

もとよりこの一揆の原因は、不作から生じた生活困窮であるが、菅田村庄屋兼帯[けんたい]の中村浜庄屋の佐藤三郎右衛門が困窮村民の土地を高利で質に取り、しかもその土地を質流れにしたことに強く反発したことからでもあった。とまれ暴徒の多くは、扇動されて付和雷同した者である。また首魁[しゅかい]の次太郎らの計画もかなり杜撰[ずさん]なものであったがために、一端がほころびるとたちまち壊滅したのである。けれど、逃亡して行方不明になった者が4人いた。そのなかの一人で上鍛治屋村の与吉は、虚空蔵山へ逃げたという情報であったが、その後は杳[よう]として不明である。もっぱらの噂は「与吉が信仰する虚空蔵様が隠したのだわ」だ。

 

吟味の主たる目的は、首謀者の洗い出し、落とし札を書いた者、扇動して歩いた者、暴行者などを明らかにすることである。白状すれば許されたが、口の堅い者には石抱きや海老責めがあった。次太郎には九貫目*の石を2枚抱かせ、遠島を命じたところ獄死した。なぜこれだけの拷問を行ったかというと、一揆は国に対する反逆と見なしていたからである。(木ノ瀬祐助氏所蔵史料)
*約34kg

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年10月号掲載)村上市史異聞 より

 

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