HOMEおすすめ特集 > むかしの「昔のことせ!」

むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2026/04/15

063 越後永正の大乱と三面村の先祖(5)

%e8%b6%8a%e5%be%8c%e6%b0%b8%e6%ad%a3%e3%81%ae%e5%a4%a7%e4%b9%b1%e3%81%a8%e4%b8%89%e9%9d%a2%e6%9d%91%e3%81%ae%e5%85%88%e7%a5%965
イラスト:石田 光和エムプリント

 

上杉房能[うえすぎ-ふさよし]敗死の報は、房能を旗頭に擁していた諸将を震駭[しんがい]*させた。竹俣[たけのまた]も色部[いろべ]も本庄[ほんじょう]も、自然おのおのの城に籠もって戦うことを約したものだが、兵力は結集してこそ強力になるが、しかし、彼らは各自の城こそよりどころと思っていた。さればと為景[ためかげ]方の将・中条藤資[なかじょう-ふじすけ]や為景に応じた伊達尚宗[だて-ひさむね]は、阿賀北の盟主たる本庄時長[ときなが]をまずもって降せば、他の城の攻略はそう難しくはあるまいと判断した。
*震駭 …恐れ驚いて震えること

 

先鋒隊は築地忠基で、その後詰として伊達と芦名[あしな]が出張したのである。芦名の最前線は赤谷[あかたに]で、伊達が足がかりにするのは小国[おぐに]から下関[しもせき]である。けれど、この時どの程度の戦闘が展開されたかは判然としない。おそらくはそう大規模な戦ではなかったものであろう。本庄の記録などから推量すると、形勢不利と踏んだ時長はさっさと為景方の軍門に降り、村上城は忰[せがれ]の房長[ふさなが]に譲り、己は隠居して猿沢城に隠退してしまった。

 

盟主のごときの本庄がこのありさまだから、竹俣と色部も降伏・開城かと思ったがさにあらず、両者共にどうして「いざや見参、目に物を見せてやるべい」と言って、城門を固く閉じ、逆茂木[さかもぎ]を並べ、塀を高くして抗戦する構えを見せた。およそ籠城戦ほど攻守ともに損害を被る。守備陣は外からの救援軍がなければ勝つことは容易でないし、攻撃方は多大な犠牲を覚悟しなければならない。まず永正5(1508)年5月24日に敢行した為景方の平林城の攻撃は、険阻[けんそ]*な地形に守られた城のため、攻めきることができない。
*険阻 …道や地形が険しいこと

 

麓に造られた根小屋や築塁は突破できたが、その実城は天険の山頂にあり、路は急で狭く複雑な地形である。「このような小城一つ落とせないでどうする。者共かかれやかかれ」と中条藤資が号令をかければ、猪武者は一番手柄はわれにありと競って登りはじめる。守備側にすれば、これほど格好な標的はない、瞬く間に上から雨のような矢を降り注ぐ。攻め手の毛利新左衛門と中条藤資の手勢はわけもなく射たてられ、数十人も討死してしまった。しかし、衆寡敵[しゅうかてき]せず*、色部衆はついに防御あたわず降参したのである。
*衆寡適せず …少数と多数とでは勝負にならない

 

一方、竹俣清綱[きよつな]は岩谷[いわや]城にこもると、赤谷の小田切定遠[おだぎり-さだとう]に援軍を頼む。この城もまた険阻な山にある。城攻めが始められたのは同年6月29日、為景自ら部将を引き具しての城攻めだが、この城もまた天険の山に築かれたもので、城攻めに先立ち、為景はまずもって近辺の村々に放火し、兵糧とともに足がかりになる家屋を焼き払ったが、城側は城主の竹俣八之丞が討死するほどの必死の守備であった。攻撃に耐えかねた竹俣与四郎は会津へ逃げた。

 

しかし、為景は竹俣の主君・清綱と和睦せざるを得なく、調停を結んで三条城へと引き揚げた。この戦にも妻有[つまり]の城将・山吉盛藤は、ひそと沈黙を守り続けていた。為景が竹俣と和睦したのは、鎌倉の上杉氏が為景討伐の軍勢を催しているという情報を得たからである。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年3月号掲載)村上市史異聞 より

 

2026/03/15

062 越後永正の大乱と三面村の先祖(4)

%e8%b6%8a%e5%be%8c%e6%b0%b8%e6%ad%a3%e3%81%ae%e5%a4%a7%e4%b9%b1%e3%81%a8%e4%b8%89%e9%9d%a2%e6%9d%91%e3%81%ae%e5%85%88%e7%a5%964
イラスト:石田 光和エムプリント

 

戦国の世において、正月を祝うようなゆとりはない。月次[つきなみ]の例日には、先祖霊が大潮に乗って彼岸から此岸[しがん]を訪れ、現世の人々に延命をもたらすのだから、全ての戸口を閉じて俗界を遮断しなければならない、などと悠長なことをいっていたならば、弓矢でミノムシのようになってしまう。

 

長尾為景[ながお-ためかげ]が手勢を引き具して、越中は滑川を攻めたのは正月17日のこととは既述した。そして、その年8月には上杉定実[うえすぎ-さだざね]を旗頭に据えて、いよいよ上杉房能[ふさよし]を攻めるべく攻撃態勢を整えた。

 

もとはといえば長尾為景は上杉房能の家老職であるから、房能の臣下である。つまり、為景の行為は誰がみても反逆、下克上であるが、乱世は勝った者が正義を唱えるのだ。


血の気を失って拳を震わし、眥[まなじり]を決し憤怒の形相でののしっても、哀れ房能の手勢は数えるほどしかいない。大熊備前守父子、山本寺定種[さんぽんじ-さだたね]、平子[たいらこ]らわずかに5~60騎であった。ひとまず越中国へ退き態勢を整えねばならぬとなり、その途次、彼ら主従は妻有庄[つまりのしょう]天水[あまみず]を経ようとしていた。その付近には妻有城があって、城将は山吉盛春の弟・盛藤(源助のち大炊助[おおいのすけ])が務めていた。

 

盛春は三条城将の景久の弟で、いずれも房能の重鎮であったことは既述した。房能は、この兄弟の武力を頼ったのかもしれない。しかし、為景方の追撃は急を極めた。房能らが天水で兵を構えたことを知った為景方は、十重二十重に包囲し、攻めに攻めたてた。妻有城の山吉は全く手も足も出せず、房能ら主従は滅亡の渕に向かうよりほかに道はない。鎧を脱ぎ、割腹の支度をする房能を前に、残余の家来共は虚空に散華するべく黒い鉄壁のような敵陣目指して突入していった。長尾為景は下克上に成功。越後国主・上杉民部大輔房能は無残、天水の露と消えたのは永正4(1507)年8月7日未刻(午後2時)であった。焼け焦げる兜の下に汗が流れて目がかすみ、妙な静寂の中に薄[すすき]が気だるそうに穂を垂れ、秋虫が重苦しげに鳴いていた。

 

旗頭と仰ぐ国主の非業の最後は、たちどころに越後一国に伝わり広まる。勢いを得たのは、いうまでもなく上条定実を擁した長尾為景派である。旗色が明らかになると、それまで去就を鮮明にしてこなかった会津の芦名盛隆[あしな-もりたか]や米沢の伊達尚宗[だて-ひさむね]は、公然と定実に誼[ぎ]を通じてくる。

 

存亡の秋が訪れたのは本庄時長[ほんじょう-ときなが]、色部昌長[いろべ-まさなが]、竹俣清綱[たけのまた-きよつな]である。勢いに乗じた長尾為景は、彼らが籠もる城を一気に踏み潰してしまえと築地忠基や中条藤資[なかじょう-ふじすけ]に命じた。彼らに加勢するのは伊達や芦名で、第一の攻略目標は本庄城である。そのため、伊達と芦名は国境まで軍勢を移動させていた。

 

またこの以前、三条の山吉能盛[やまよし-よしもり]は為景に寝返りしていた。しかし、親子兄弟が敵味方に分かれるということは、義理や血系の存続や互いの利害などを考えてのことで、よくみられたことである。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年2月号掲載)村上市史異聞 より

 

2026/02/15

061 越後永正の大乱と三面村の先祖(3)

%e8%b6%8a%e5%be%8c%e6%b0%b8%e6%ad%a3%e3%81%ae%e5%a4%a7%e4%b9%b1%e3%81%a8%e4%b8%89%e9%9d%a2%e6%9d%91%e3%81%ae%e5%85%88%e7%a5%963
イラスト:石田 光和エムプリント

 

『賀越鬪諍記』[かえつとうそうき]によれば、「国中ノ一揆、越中・能登ノ一統蜂起して川北より打ち入り在々所々に放火シ兵庫・長崎村の里々ニ陣ヲ取ル。ソノ数三十万ト聞ク、洪波壑[こうはたに]ニ振ウ」。

 

その数は30万というから、まさに洪水が渓間に溢れるようなありさまであろうが、いささか誇大な形容ではある。しかし、相当大規模な一揆であったことは間違いなかろう。こうなると越中・能登に隣接する越後にもその影響が出ることも予想される。越後で主導権争いをしていた長尾為景[ながお-ためかげ]と上杉房能[うえすぎ-ふさよし]にとって、わけていまだ勢力基盤の薄い為景にとっては脅威である。

 

一揆勢の主力は加賀の一向宗徒で、武家政権を嫌い、独自の権力基盤を確立しようとして、地侍を扇動し、武力鬪争に及んだものだ。加賀の国侍・遊佐[ゆさ]や神保[しんぼ]、土肥[どひ]や椎名[しいな]らは打ち負け、長尾能景[よしかげ](為景の父)に助けを求めてきた。また、国主・畠山義隆[はたけやま-よしたか]は、近江国から越前国まで逃げて流浪するというありさまだ。

 

いまや一揆勢に敵はなく、その勢いは燎原[りょうげん]の火*のごとくであった。越後から長尾能景が手勢を引き具して鎮圧に来るという情報が伝えられると、「ござんなれ、目にものを見せてやるほどに」と言い交わし、重厚な布陣で待ち構えた。能景が何ほどの軍勢で出陣したかは知れないが、なにしろ30万と豪語する一揆勢が迎撃するのである。雨あられのごとき矢と白い襖を並べたような槍の穂に行く手を遮られ、哀れ能景自ら野辺の露となって消えた。あっけない最期であった。その地は、越中国蓮沼[はすぬま](礪波郡埴生村[となみぐん-はにうむら])という。
*燎原の火 …勢いが盛んで止めることができないこと

 

それが永正3(1506)年9月19日のことである。やがてその影響が越後に飛び火したか、その年の冬、南蒲[なんかん]の五十嵐や石田、大須賀らが暴動を起こした。当然、妻有[つまり]の山吉や三条の山吉らも、その騒動の影響を受けたと思われるが、その詳細は明らかではない。

 

しかし、その騒動は間もなく為景に鎮圧された。その勝利の祝いには、為景方も反為景方の諸将も28名ほどが金覆輪[きんぷくりん]の太刀*や糸巻の太刀**を献上している。本庄時長[ほんじょう-ときなが]、中条[なかじょう]・色部[いろべ]などは金覆輪の太刀である。金覆輪より下の糸巻の太刀を献上している領主は、おおむね小領主か庶家衆に多い。いずれにせよ、これら太刀献上の人々は、為景に臣服したことを示すものではなく、あくまでも儀礼的なものである。
*金覆輪の太刀 …覆輪(鍔の外周)を金(または金色の金属)で覆ったもの
**糸巻の太刀 …柄[つか]と渡[わたり]を打紐で巻いた装飾的な太刀

 

翌年正月早々になると、為景は越中の滑川に進出し牛尾砦を奪取した。春日山の房能を攻めるため、後方の安全を確保しておくことと、阿賀北の諸将を封ずるためである。これでその主将たる本庄や色部は首枷[くびかせ]をはめられたようになったし、房能は確実に首根っこを押さえられた。房能の執事であった三条の山吉ら兄弟は、亀のように甲羅を固めているしかない。春日山ではとうてい抗戦できない。城中には驚愕[きょうがく]が走り、落雷のように鳴動した。救援のない籠城なぞで対抗できるものでない。負け戦と分かった時から城兵の逃亡が始まった。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年1月号掲載)村上市史異聞 より

 

先頭に戻る