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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2023/10/15

033 政局に揺れる村上城下(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

徳川五代将軍・綱吉には子がいなかった。そこで将軍職を継いだのは、当時甲府宰相[こうふさいしょう]といわれた徳川綱豊[つなとよ](のちに改め家宣[いえのぶ])であった。父親の綱重[つなしげ]が三代将軍・家光の次男で、将軍としての血のつながりがもっとも近かったからだ。甲府宰相と呼ばれたゆえんは、甲府藩主であったためである。前将軍・綱吉は儒学に傾倒したとは既述したが、家宣の好学は綱吉を上回った。

 

政策に携わった学者は、新井白石を筆頭に三宅観瀾[みやけかんらん]や室鳩巣[むろきゅうそう]で、政策実行には間部越前守詮房[まなべえちぜんのかみあきふさ]があたった。ここで彼らが実行した政治の詳しくを述べるゆとりはないが、綱吉政治の最悪であった生類憐みの令の廃止、不評通貨の廃止、また武家諸法度の改訂などが挙げられる。

 

その政治は、のちに「正徳の治[しょうとくのじ]」と称えられるが、譜代大名と新参大名との対立も生じた。このころになると譜代大名のほとんどは世間知らずで政治の本末をわきまえない者ばかりであった。ゆえに綱吉の代に要職に就いていた大名をことごとく罷免し、替って有能な新参大名を側近にしたのである。

 

その代表格が間部詮房であった。詮房は家宣が甲府藩主であったときから仕えた人で、はじめは能役者で、のちに5万石の大名になった。戦国時代では武力で大名になった者は多いが、平和時で大名に出世することは、よほどの才能が必要である。性格も清廉潔白、「賄賂かって受用これなき人は間部殿一人」あるいは「決断あり温厚なる人」また「誰一人その右に出る者なし」とも絶賛された人物であった。

 

詮房が老中格側用人に就いたのは宝永6(1709)年で、ほとんど江戸城に詰めきりで政務にあたっていたという。ところが家宣は将軍就任後4年で病没し、七代将軍は4歳の家継[いえつぐ]がつぐ。その家継も4年後に病没すると、将軍継嗣問題が浮上する。すなわち家継で徳川宗家の血は絶えたのだから、尾張・紀伊・水戸の三家のうちで宗家を継がなければならない。そこで、紀伊の吉宗が家康ともっとも血が近く、資質に恵まれていたから八代将軍になった。とりまきも優れていたからともいう。しかし、事実は若干違うようだ。

 

その吉宗を推輓[すいばん]したのが間部詮房であった。理由は、尾張や水戸が継ぐことになれば、血の遠近と法を無視したことになり、禍根を残すことになる、というものであった。また、将軍継嗣は大奥の問題でもあった。家継の生母・月光院が吉宗を推薦すれば、家宣の夫人・天英院は家宣の弟・松平清武を推薦した。月光院と天英院の勢力争いである。結局は血統と法を重視した間部と月光院の勢力によって吉宗が継ぐことになった。

 

けれど間部は新将軍のもとでは生き残れない。譜代大名を重んじる吉宗によって老中格側用人を免職させられ、城地も高崎から村上へ移されたのである。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年9月号掲載)村上市史異聞 より

2023/09/15

032 政局に揺れる村上城下(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

本多忠隆[ただたか]改め忠良[ただよし]が村上城から三河国(愛知県)刈谷城に移ったのは、宝永7(1710)年5月23日である。替って村上城には松平右京大夫輝貞[まつだいらうきょうのだいぶてるさだ]が上野国(群馬県)高崎城から移ってくる。ただし、その年月日は幕府の発令である。実際は、本多氏の刈谷入城は少し遅れて8月12日で、村上城を松平氏に渡したのは同月26日である。転入城に際し、多数の侍の移動で混雑することを避けるためであった。

 

この松平輝貞という人物は、五代将軍・徳川綱吉の側用人、柳沢吉保の補佐を務めていた。柳沢は綱吉の寵[ちょう]を一身に受け、権勢並ぶ者なしといわれた人物である。ゆえに輝貞の立身は、はじめ5千石であった知行が7万2千石までになったのである。その立身の背景には、綱吉将軍の儒学傾倒と輝貞の儒学への深い造詣があった。なにしろ将軍を自邸に招き、その前で論語を講ずるほどであったから、その学識たるやなまなかのものではない。

 

いうまでもなく将軍は綱吉であるが、執政は柳沢であり、その補佐が松平であった。かれらが行った政治は「賞罰厳明」、わけて不正に厳しく、無能・怠慢の代官には斬罪・切腹・流罪などを命じ、行政に長けた役人を重用した。

 

儒教は古代中国で孔子によって説かれた教学である。わが国の近世では、一段と儒教による影響が高まる。将軍や大名などの為政者の教養として、広く重んじられるようになったからである。はじめの儒教は宗教性の強いものであったが、江戸時代になると忠・孝・誠など礼教性が強くなり、宗教性が見えなくなる。綱吉の政治はまさに、その礼教性に基づいたものであった。

 

綱吉政治は後期になると、生類憐みの令[しょうるいあわれみのれい]などという、まさにくだらない法令が発せられる。10万匹もの犬を保護し、江戸城内では鳥・貝・エビの調理が禁止された。その違反者は斬罪になったり、八丈島へ島流しにされた例もある。ただし、その法令は人間の弱者や捨て子、旅の病人などにも及んだ。儒教で説くところの仁政の実現であろう。

 

綱吉は利口だか馬鹿だか分からない人である。そして母親・桂昌院の言うことならなんでも聞き入れる。今でいうマザコンか。しかし、本人はそれを孝の実現といっていたのかもしれない。

 

その桂昌院が深く信仰したのが、大奥の祈祷僧・隆光[りゅうこう]と亮賢[りょうけん]だった。生類憐みの令は、隆光らが綱吉が前世で犯した殺生が祟[た]たっているのだから、動物を愛護し、わけて綱吉が戌年生れのことから犬を大切にすれば子が授かると桂昌院に吹き込んだことによるという。

 

その将軍を輝貞は自邸に招くこと二、三度というから莫大な散財であった。また将軍が周易[しゅうえき=八卦学]を講じたときは黄金50両と屏風二双および酒肴を贈った。名誉と地位を得るために儒教も利用し、精いっぱいゴマをスっていた輝貞であったが、綱吉が没すると柳沢も輝貞も政権の座を失う。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年8月号掲載)村上市史異聞 より

2023/08/15

031 政局に揺れる村上城下(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

宝永元(1704)年、榊原家に替って村上城主になった本多吉十郎忠孝[ただたか]の転封理由は、松平・榊原とまったく同じである。吉十郎の通称を用いているのは、幼少ゆえ官職名の名乗りが認められていなかったからである。

 

その忠孝、村上城主たること僅か6年、12歳で病没した。むろん嗣子[しし]はない。本来であれば、ここで本多家は断絶になるはずであった。しかし、幕府は家の存続を認めた。継嗣[けいし]は分家の本多忠隆である。同家の祖・本多平八郎忠勝の徳川家康に尽した功績が多大であったからだ。ただし10万石を減じられ5万石になった。これまでの家臣はとうてい召し抱えていられない。

 

ではどうするか、余計な人数を解雇するしかない。家老の中根隼人[はいと]は、総侍[そうざむらい]に履歴書の提出を命じた。そこで判明したことは、新規雇用の侍が130人、切符徒士[きっぷかち=契約雇用侍]が86人、村上で召し抱えた足軽が214人、合計430。この軽き身分の侍がまず解雇されることになる。この中に何人かは江戸勤番もいたが、多くは村上国元詰めであったから、城下は浪人であふれた。この末端をクビにするリストラ事情は今も昔もまったく変っていない。

 

退職金は100石侍に15両で、それ以下の侍にもいくらかずつ支払われた。けれど微々たる金額だ。たちまち生活が行き詰まるから再仕官の途を探さねばならない。ところが歳の瀬の12月28日、積雪もある。そこで藩は、解雇した侍に3、4月まで滞留することを許可し、生活費を与えた。

 

村上の大名で江戸初期には村上家が幕府の外様大名潰しに遭い、堀氏は無嗣[むし]によって断絶し、多くの浪人を出した。しかし、そのころは各大名家とも軍事要員が必要であったから、割合再仕官も容易だった。

 

ところが本多家の時代となると、平和続きの世であるから有事に備える要員はほとんど必要としなくなっていた。また大名家は戦[いくさ]に備えるよりも、財政の困窮からいかに逃れるかを苦慮しなければならなくなっていた。

 

浪人を召し抱える経済的な余裕なぞ、どこの大名にもありはしない。かくて町には浪人がやたら目につき、治安が悪化する。当時の世間は、かれらを軽き浪人と呼んで敬遠した。もともとの身分が軽いゆえの蔑称である。浪人は身分的にも中途半端なもので、所属する社会がなく、町奉行の監察下になる。町人や農民が町役場や村役場の統轄のもとに生活していたことは、まったく別な扱いを受けていたのである。

 

大量の浪人を出したことは侍地の荒廃にもつながる。かつて松平家と榊原家が造成して増築した駒込町や、久保多町茅場、肴町から鍛冶町の北裏にあった足軽長屋はがら空きとなる。飯野や与力町にも空屋が多くなる。

 

消費者人口の激減によって、城下は不況のどん底になる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年7月号掲載)村上市史異聞 より

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