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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2026/07/15

066 越後永正の大乱と三面村の先祖(8)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

椎谷城は標高42メートルの丘陵にあるもので、そう堅固とも思えない。けれど守備する高梨政盛[たかなし-まさもり]勢は死を賭し、上杉顕定[うえすぎ-あきさだ]勢の波状攻撃に耐えた。麓で湧き上がる喚声*と喊声*、怒号、嘶[いなな]き、馬蹄の音、粉塵、具足の金属音が重苦しく城を包みかすませた。
*喚声 …興奮した叫び声
*喊声 …大勢が同時にどっと上げる声

 

思いのほか城兵は強く、城は堅固だ。顕定は新手に在地の兵を募るけれども、先の刑罰を深く恨んでいた在地領主は誰も加勢しなかった。顕定は自ら墓穴を掘ったようなものだった。永正7(1510)年6月12日、顕定は自ら陣頭に立って城下に迫った。手ぐすね引いて待ち構えていた政盛は、200余の将兵に「十分に引き寄せてから撃ってでよ。よいか、ひるむでないぞ!」。弓弦が鳴る、虚空を驟雨[しゅうう]*のように矢が走る。驟雨が止むと木戸が開かれ、どっと城兵が吐き出され、顕定勢に喚[おめ]きかかる。顕定は馬上につっ立ち、声を励まし、むちも折れよと疾駆させる。戦闘は一進一退、攻守どちらに分があるか分からなかった。
*驟雨 …突然降り出して、すぐにやむ雨

 

しかし、兵力は信濃衆の小笠原・市川・島津らが加勢している高梨方がおよそ1,200騎、顕定方が800余騎と『鎌倉管領九代記』はいう。籠城方が圧倒的に有利であることが分かる。籠城戦での兵力は、絶対的に攻め手が多くなければならない。場合にもよるが、攻め手が守り手の倍の兵力でも落とすことは容易でないという。それほど籠城戦は、攻め手にとって厳しく、兵力を浪費するものだが、無理を承知の上で顕定が城攻めを敢行したことは、関東方面の情勢に気を取られていたか、それとも戦知らずの公方育ちであったか、いやその両方であろう。高梨系図にこんな話が書かれている。

 

高梨政盛が出陣するとき、若宮八幡宮へ戦勝を祈願して社頭[しゃとう]*に額[ぬか]ずいた。するとその時、首のない雀[すずめ]が落ちた。これを家来どもは不吉として忌み嫌った。逆に政盛は、「誠に瑞相。首のない雀が落ちるとは、敵兵を多く討ち取るというご神託、祝着[しゅうちゃく]の至りじゃ」と喜んだという。おそらく政盛が家臣の某[なにがし]に命じた作為であろうが、それも敵の寡兵[かへい]を知った上での芝居であろう。少数兵力が多数の籠城勢を攻める作戦とはこれいかに、よほどの謀略を用いない限り落とすことのできないのは自明の理である。
*社頭 …神社の社殿付近。または社殿そのもの

 

そこで政盛は自信満々、凛とした声で、「兵力の差からしてもわが方に利がある。ゆめ負けることはない、勝利は眼前である。よし、兵を増やし一気に勝負をつける」と断固下知をくだす。もとより大きな山城ではなく、狭隘な尾根や山腹に細い径[みち]が麓へと連なっていて、大軍の軍事行動には極めて不自由である。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年6月号掲載)村上市史異聞 より

 

2026/06/20

065 越後永正の大乱と三面村の先祖(7)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

それにしても、上杉顕定[うえすぎ-あきさだ]は三条から糸魚川[いといがわ]までと兵站[へいたん]*線を伸ばしすぎた。さらに自軍、つまり本隊は長尾為景[ながお-ためかげ]勢を追討するため、最前線の越後・能登境まで進出したのである。一方、これを逆襲し鉄槌を下すため、為景は北信濃の高梨摂津守政盛[たかなし-せっつのかみ-まさもり]や糸魚川の村山越中守盛義[むらやま-えっちゅうのかみ-もりよし]とその子・直義[なおよし]を味方につけた。その傍ら、東の伊達陸奥守尚宗[だて-むつのかみ-ひさむね]へは再三再四の援軍を要請し、また足利[あしかが]十代将軍・義稙[よしたね]も伊達の参戦と上杉定実[うえすぎ-さだざね]への加勢を要請してくる。
*兵站 …戦場の後方にあって食料や軍需品を補給したり、連絡にあたったりする機関

 

いよいよ戦機は熟し、ついに戦端が開かれたのは永正7(1510)年5月20日。村山直義軍が今井や黒岩に陣取る顕定勢に攻撃をかけ、一方的な勝利を得た。一方の高梨政盛も越後入りをして板山に布陣したところ、これがまた顕定勢に蹴散らされてしまった。勢いを得た顕定勢は、蔵王堂の長尾為景勢に攻撃をかけて勝利を得た。景気風は上杉顕定に向かって吹いていたようで、その風に乗って阿賀野川[あがのがわ]以南の武将は、三条と護摩堂を除いたほかは顕定に味方したのであった。

 

ところが、そうそうことは単純ではない。上杉定実も長尾為景も顕定に負ければ元も子もない。築き上げた地位が微塵になって吹っ飛ぶのだ、なんとしても形勢を逆転させねばならぬ。それには上条[じょうじょう]城主の上条定憲[さだのり]を味方につけ、さらに上州の長尾景春[かげはる]に援護を頼むことだ。

 

ところが関東方面も火のついたような騒ぎになった。小田原城の北条早雲[ほうじょう-そううん](宗瑞)が足利義明[よしあき]に加担し、関東公方の足利政氏[まさうじ]と一触即発の状態となったのだ。そのきな臭さは一気に燃え上がり、政氏派の長尾景春は攻められて滅亡し、また父・政氏と争った足利高基[たかもと]は古河[こが]から関宿[せきやど]へ退いたという。北条早雲の画策による公方[くぼう]の主導権争いである。

 

関東が動乱となると、関東管領の任にある上杉顕定は鎮定に軍を向けねばならない。しかし、「関東帰国も急ぐが、まずもって弟の房能[ふさよし]を敗死させた憎きやつめらを打ちのめしてくれねば。よし、されば為景や政盛に味方するやつらばを探し出して、片っ端から息の根を止めよ」。その下知を受けた部下の所業がまた凄まじく、敵と目される者を発見しては首をはねる・突き殺す・破壊・没収・放火、目に余る狼籍であった。その上、顕定と子息・憲房[のりふさ]は高梨政盛がこもる椎谷城に襲いかかる。

 

しかし、城中の将兵は意気軒昴。その上、顕定父子の暴虐を恨んだ将兵が加勢しているから強い。200余の兵が堀を越え、塀を倒し、逆茂木[さかもぎ]を引き抜き攻め入った。これを阻止する高梨勢とが激しい戦闘を展開する。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年5月号掲載)村上市史異聞 より

 

2026/05/15

064 越後永正の大乱と三面村の先祖(6)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

色部[いろべ]の平林要害が陥落したのが永正(1508)5年5月23日頃、竹俣[たけのまた]の岩谷[いわや]城が形勢不利となって降参したのがその年の秋であった。してまた村上の本庄時長[ほんじょう-ときなが]は翌年正月28日に病没してしまった。あっけのない最期であった。あるいは生得病弱であったのか、それゆえ覇気がなく戦わずして為景[ためかげ]に降ったのか。以後、村上城と瀬波郡は時長の嫡子・房長[ふさなが]の統轄するところとなる。

 

その前、足利幕府は上杉定実[うえすぎ-さだざね]が勝利を収めた報告を受けて、定実を越後守護に任じ、為景をその補佐役にすると伝えてきた。為景はこれで越後国主の座に手が届くところにきたのである。しかし、事はそう簡単には運ばない。鎌倉山内[やまのうち]にいた関東管領の上杉顕定[あきさだ]が、弟・房能[ふさよし]戦没の報告を受けて烈火になって怒った。

 

房能は家臣の長尾為景に殺され、分国の越後は分捕られてしまった。敵をこのままに捨て置くことは、家門のための腹臣の痼疾[こしつ]*となる。ただちに為景らを退治し房能の霊をば慰撫すべし、として一方の大将を子息の憲房[のりふさ]として、自らも大将となり、総勢8千を引き具して三国峠[みくにとうげ]を越えて越後に攻め入ろうとしたのが永正6(1509)年7月28日のことである。
*痼疾 …長い間、治らない病気

 

そのことが為景や定実に聞こえると、為景はその大軍を迎え撃つにはわが軍勢だけでは不足である。また色部や本庄、八条ら下郡衆が兵を挙げ後方をおびやかし、中郡では山吉・上条・桃井・石川らが挙兵したならば由々しきことになる。本庄らの牽制には伊達に援軍を頼むべし、と判断して手を打つ。

 

されど顕定と憲房に率いられた将兵は、燎原[りょうげん]の火のごとく、上州の沼田や白井、信濃口の城を瞬く間に陥落させてしまった。泡を食ったのは定実と為景だ。伊達の援軍はいまだ越後入りをしていない。この様子では敗戦は必定。されば一旦、能登・越後境に退くべし、となり糸魚川[いといがわ]まで退いた。

 

善戦したのは三条城の山吉能盛[やまよし-よしもり]だ。城は平城であるが、五十嵐川[いからしがわ]を前にして、一方は信濃川が流れている。舟がなくては渡ることはできない。要害堅固、堀を回したようでその深さは分からない。この城には顕定軍も攻めあぐねた。

 

そのうち伊達尚宗[だて-ひさむね]も、長井衆に命じて越後進軍の兵を整えたと伝えてくる。また、幕府は定実を援護するといってくる。これに勢いを得た為景と定実は、されば一旦佐渡へ渡航し、しかるのち本土に上陸すべし。目指すは三条城。かの城を救出することは、顕定軍を敗走、壊滅することになると判断する。

 

図らずも三条城の山吉は、鎌倉勢を引きつけておき、その後方を為景に襲撃させる役目をすることになった。これが功を奏するのだ。為景勢が佐渡を経て上陸したのは永正7(1510)年4月20日で、蒲原[かんばら]浦(新潟)である。海路を選んだわけを推測するに、陸路は信州衆の高梨や糸魚川の村山らが為景に応じたが、鎌倉勢に阻害される恐れも十分に考えられる。また、親不知[おやしらず]などの天険[てんけん]*を避けるためと思われる。
*天険 …(山地などの)非常に険しいところ

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年4月号掲載)村上市史異聞 より

 

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