
イラスト:石田 光和(エムプリント)
古舘村の常光寺へ逃げ込んだ次太郎であったが、その後ろ姿は数人の追手に発見されていた。寺といっても、そうばかでかい寺ではない。それに住職もいるが、次太郎は溺れる者は藁をもつかむ思いであった。さればと追手は寺を取り巻き、じりじりと包囲網を縮めてゆく。
そして口々に、「抜かるなよ。縁の下は? 位牌壇の下は見たか? 須弥壇の下も見ろよ」と言って、片っ端から物陰を見て回ったが、「いない、……いない。さては逃げ去ったか」。一瞬、追手一同の上に狼狽[ろうばい]が走ったが、いずれにしても、そう遠くは行けまい。近くに潜んでいるに違いないとして、探索の手を外方に向けたところ、ほどなく裏手の方がなにやら騒がしい。古い墓地を隔てて蕗[ふき]畑が広がるところだ。次太郎は、その蕗畑に背を丸めて潜んでいたところを発見された。
南無三宝[なむさんぼう]、絶体絶命、もう逃れるすべはない。次太郎の上に電撃が走り、青い閃光が放電する。恐怖で背が硬直する。数を頼んだ追手は、四方八方からわっと次太郎に折り重なり、たちまちのうちに縛り上げてしまった。そこへ大塚万右衛門が駆けつけると、次太郎の顔を見知った者が「大将、この者が次太郎! 首謀者の次太郎ではや」、「む、でかした」と大きくうなずいた大塚は、中条へ連行するように命じ、そのかたわら残党の探索を命ずる。けれど命ずるまでもなく、次々と各方面から犯人捕縛の注進が入る。煩雑ゆえにその名をいちいち挙げることは避け、各役所の牢に入れられた人数を記す。
水原役所は7人、柏崎役所は12人、黒川役場は11人、松平小豊治知行所(現荒川)は20人、村上役場へは庄内町の大工・佐太郎が護送されていった。ほか大小合わせて140人である。
もとよりこの一揆の原因は、不作から生じた生活困窮であるが、菅田村庄屋兼帯[けんたい]の中村浜庄屋の佐藤三郎右衛門が困窮村民の土地を高利で質に取り、しかもその土地を質流れにしたことに強く反発したことからでもあった。とまれ暴徒の多くは、扇動されて付和雷同した者である。また首魁[しゅかい]の次太郎らの計画もかなり杜撰[ずさん]なものであったがために、一端がほころびるとたちまち壊滅したのである。けれど、逃亡して行方不明になった者が4人いた。そのなかの一人で上鍛治屋村の与吉は、虚空蔵山へ逃げたという情報であったが、その後は杳[よう]として不明である。もっぱらの噂は「与吉が信仰する虚空蔵様が隠したのだわ」だ。
吟味の主たる目的は、首謀者の洗い出し、落とし札を書いた者、扇動して歩いた者、暴行者などを明らかにすることである。白状すれば許されたが、口の堅い者には石抱きや海老責めがあった。次太郎には九貫目*の石を2枚抱かせ、遠島を命じたところ獄死した。なぜこれだけの拷問を行ったかというと、一揆は国に対する反逆と見なしていたからである。(木ノ瀬祐助氏所蔵史料)
*約34kg
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年10月号掲載)村上市史異聞 より