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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2023/05/15

028 村上城下町の発展(6)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

一般庶民の目から見れば、大名の生活は雲の上の出来事である。まして松平直矩[なおのり]は徳川将軍の親戚、その生活は華美にして風雅、和歌に蹴鞠に書に絵画は教養として身につけねばならない。

 

また、住居は江戸と村上の両方に持たねばならない。しかも江戸の方は上屋敷、中屋敷、下屋敷の3カ所で、その規模たるや途方もなく広い。例えば、直矩の父・直基の正室が住んでいた鳥越の中屋敷では4千坪強の広さである。それが公的な上屋敷になると7千坪ほどもあった。

 

そうした屋敷には江戸詰めの侍やその家族、大名の正室や側室、その身辺の世話をする女中衆などが数百名もいたから、経費のかかることおびただしい。そうした経費の出所は、いうまでもなく年貢(租税)である。

 

一般的に、大名が領民から徴収する年貢は収穫高の4割であるが、松平家の場合は5割を納めさせた。この高率では民衆の生活は苦しい。わけて山村など狭くやせた耕地しか持たないところでは、天候不順で不作になればたちまち年貢不納に陥ってしまう。そうした百姓のとる道は、死ぬのがいやであれば先祖伝来の土地を捨てて他国へ逃亡するしかない。それを欠落[かけおち]という。

 

松平家が入封して新しく検地をし直した承応3(1654)年から8年間に、笹川・板貝・脇川・碁石[ごいし]・雷[いかづち]・大毎[おおごと]・大谷沢・小俣・中継[なかつぎ]・大代・遠矢崎[とおやさき]・中津原・中根・蒲萄[ぶどう]の各村で214人もの老若男女が庄内領に欠落している。

 

欠落は領主に対する一種の抵抗だ。彼らが土地を捨てどこかへ逃げ去ると、当然のことだが年貢未納となる。困るのは領主側である。そこで強制連行し元の村に住まわせるがまたもや逃げる。中にはその途中、餓死する者、気違い扱いにされて牢に入れられ、あげくは殺された者もいた。

 

一方、こうした潰れ百姓が職を求めて集まるのが城下町である。手っ取り早い職業が武家や商家への奉公だが、それにしても職に就ける数はしれている。城下には多くの浮浪者が横行しだす。

 

藩の執政らがその対策に困ったことは想像に難くない。そして、考えたあげく採った方策が公共事業で、それも村上城の大改修工事であったと推察されるのである。幕府に村上城修築許可申請を提出したのが、欠落者が出た年から数えて8年目のことである。そして、幕府の許可を得て工事にかかり、三重の天守閣が完成するのが翌3年11月6日のことであった。

 

その天守閣は唐破風と千鳥破風を組み合わせた屋根で、いかにも貴公子大名直矩好みの優雅な天守であった。工事はそれのみならず、他の郭にもおよんだ。新たな縄張[なわばり=設計]で、石垣を築き直し、櫓や門などが建て替えられた。

 

山上の普請が完成すると、二の丸と三の丸の各門の石垣を築き直す。この工事にも、また多くの貧困農民が集まったものと思われる。日当や延べ人数の記録は残っていないが経済効果は大きかったに違いない。これ以降、領民の集団欠落事件は見えない。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年4月号掲載)村上市史異聞 より

2023/04/15

027 村上城下町の発展(5)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

松平大和守直矩[なおのり]の家系についてもう少し詳しく述べると、その家祖は徳川家康の第二子・於義丸[おぎまる]である。生母は側室・於万[おまん]の方。天正12(1584)年、徳川家康と羽柴秀吉が争った小牧長久手の戦の講和に際し、家康が秀吉に人質(名目は養子)として出し、秀吉から羽柴姓と秀の字を与えられ、家康の康の字と合わせて羽柴三河守秀康[はしばみかわのかみひでやす]と名乗った。

 

所領は河内国(大阪)2万石、初陣は天正15(1587)年の豊臣秀吉による九州征伐。結城晴朝[ゆうきはるとも]の養子となり、下総国結城(茨城)11万1千石を領し、結城三河守を名乗ったのが18年8月。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いでは、家康の会津征討に従軍、会津の上杉景勝の西上を防いだ。

 

戦後、その論功行賞により越前国(福井)68万石のほか若狭(福井)・信濃(長野)の内を合わせて75万に封じられて越前北庄城主となった。秀康の子は長男・忠直[ただなお]、二男・忠昌[ただまさ]、三男・直政[なおまさ]、四男・直基[なおもと]、五男・直良[なおよし]で、直矩の父は直基である。

 

秀康は結城姓を直基に譲り、自分は松平姓を名乗った。ところが直基は3万石で越前勝山城主となると松平姓を名乗る。同家を結城松平と呼ぶゆえんだ。以後、2万石加えられ越前大野、さらに5万石を加えられ出羽山形、さらに5万石を加えられ播磨国姫路城に移った。直矩が生誕したのは寛永19(1642)年。直基が病没したのは慶安元(1648)年だから直矩が7歳のときである。

 

幕府の畿内・西国統治は、公家や皇室の監察として京都所司代を置き、大名の統治と監視として大阪城代を置いていたが、その役務を分担していたのが姫路城である。その西国要衝の地を幼少の城主が務まるわけがない。

 

ということで越後村上城に転封となった。村上城が戦略的に重要視されたのは、戦国期から江戸時代初期の堀氏までで、上杉氏が勢力を減退させて米沢に封じられ、また山形城主・最上義俊[もがみよしとし]57万石が家中騒動を理由に改易にされ、以後山形は譜代大名の転封地となるにおよんで、村上城はその抑止力としての任務を終わった。

 

かわって徳川の最たる恩顧大名の一時の転封地として位置づけられた。そのような時代背景から、堀氏のあと、本多氏から松平氏が転入封し、未曾有の人口増になり、新たな居住空間が造られたことは前述した。その既述のほか、現杉原に与力(警察権を持つ侍)町を新設し、さらに鷹匠町(現武家屋敷公園あたり)が建設されている。

 

長じた直矩の趣味は能狂言に人形浄瑠璃、それに軍事演習と食糧確保を兼ねた青鹿[かもしか]狩りや鷹狩りである。そのため鷹匠やその下役で鷹に捕獲させる鳥の群生状態を確かめる「鳥見[とりみ]」、鷹の餌にする鳥を網で捕る「網刺[あみさし]」、鳥の群れを追い出す犬を使う「引犬[ひきいぬ]」と称する者らが40数名もいた。

 

大規模な鷹狩りは、数日間各地を移動しながら行うもので総勢160名ほど。その場所は七湊、岩船、平林、大津、金屋、黒川、築地など広大な地域であった。獲物はヒバリやウズラで、多く獲るときは518羽を記録している。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年3月号掲載)村上市史異聞 より

2023/03/15

026 村上城下町の発展(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

慶安2(1649)年に村上城主となった松平直矩[なおのり]は15万石を領した。高田城主23万石の松平光長[みつなが]とは従兄弟で、親同士は徳川家康の孫である。ゆえに家格が高く、威勢がよかった。直矩の家臣数は明らかでないが、多人数におよんだことは想像できる。当然、侍屋敷が不足する。

 

そこで堀片の町人を現在の片町に移して、その跡地に小姓屋敷を造った。また杉原に与力町、久保多町裏や鍛冶町の北裏に足軽長屋を増築した。桜ヶ丘高校から西宝院の南側一帯の広大な空地には、徒士[かち]侍を収容するため、駒込一番町から四番町までの町を造り、150余名を入れた。この後、寛文7(1667)年に榊原政倫[さかきばらまさとも]、宝永元(1704)年に本多忠孝[ほんだただたか]と入転封がなされるが領地高は変わらなかった。

 

榊原家での侍数は573人、足軽・中間[ちゅうげん]合わせて1,117人で、堀氏時代より300人余の増加でこれにその家族が加わる。この急増した消費者をまかなうためには、多くの商工業者が必要になったことはいうまでもない。

 

町人の人口は9,223、男4,503、女4,493、僧154、行者12、山伏40、神主10であった*。町人のうちから武家奉公にあがった者は1,000余名に達した。
*数字は資料のまま

 

職業は多い順から列挙すると大工147人と最多で、豆腐屋65軒、穀物屋63軒、木挽[こびき]60人、桶屋53軒、八百屋42軒、打綿[うちわた]屋39軒、鍛冶屋37軒、油屋34軒、紺屋31軒、米屋29軒、質屋と屋根屋が25軒ずつ、糀屋と酒造屋が21軒ずつ、味噌醤油屋17軒、旅籠屋と桧物[ひもの]屋が16軒ずつ、萱屋根葺[かややねぶき]と畳刺[たたみさし]が15軒ずつ、塩屋14軒、塗師12軒、簀編[すあみ]屋10軒、材木屋と小間物屋と仕立物屋が8軒ずつ、出店酒[でみせさか]屋と足駄[あしだ]屋が7軒ずつ、薬屋と鞘師[さやし]と石屋と鋳懸[いかけ]屋と傘張[かさより]が5軒ずつ、素麺[そうめん]屋と研[とぎ]屋と柄巻[つかまき]屋が4軒ずつ、温飩[うどん]屋と蝋燭[ろうそうく]屋と壁塗[かべぬり]が3軒ずつ、金具屋と鍋屋と表具屋と湯屋が2軒ずつ、蒸餅[じょうへい]屋と合羽屋と呉服屋と乗物[のりもの]屋と鋳物師[いものし]と扇子[せんす]屋と石切[いしきり]屋と刻煙草[きざみたばこ]屋が1軒ずつ、このほか医師本道[ほんどう=内科]15人、針医11人、目医師1人、外科1人、馬医1人がいた。伝馬[てんま=逓送用の馬]は16頭に定められた。『宝永二年村上寺社旧例記』による。

 

屋根屋は木羽葺ゆえに萱屋根葺とは別で、出店酒屋は酒の小売り、鋳懸屋は鍋釜の修理、鋳物師は鐘・鍋などの鋳造、鍋屋は鍋などの小売り、石切屋は原石の切り出しで、石屋はその加工職人。

 

湯屋は銭湯、乗物屋は駕籠屋、壁塗は今日でいう左官である。このうち侍の生活に必要欠くべからざる職業は研屋と柄巻屋・鞘師であるが、刀鍛冶や馬具師や鎧師・弓師・鉄砲張[てっぽうはり]がいないのはなぜか。その理由は、彼ら武器製造に携わる特殊技能を持った職人の多くは、侍の身分を与えられていたからであった。

 

ともあれこれら職業の中で瞠目すべき人数は大工である。その背景には、侍屋敷の増築もあったが、城郭の大修理工事もあり、各地の大工が流入したためである。その話は次回にゆずる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年2月号掲載)村上市史異聞 より

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