むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2022/11/15

022 村上城下(5)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

桝形[ますがた]は、それぞれの城門には必ず付属する設備で、門の外側に付く桝形を外桝形、内側に付くそれを内桝形と呼ぶ。そのほか、城下町の出入り口や防御上の重要地点にも設けられる。形式は高い石垣や土塁で方形に囲み、入り口を喰い違いにする。そして外側には堀を巡らす。

 

久保多町と庄内町の境にあった桝形の規模は、一辺が約52.2mのほぼ方形であった。高さは約3.6mと推察される。これに次いで大きい桝形は肴町の西端にあったが、その寸法は残念ながら分からない。ただし、遺構として堀の一部が現存する。

 

水をたたえない空堀であるが、深い薬研堀[やげんぼり](V字形)で、いかにも城下の入り口を堅固にするために設けられたことがうかがえる。

 

このほか、羽黒町の牛沢口、羽黒町と長井町の境、片町の庚申堂に設けられていた。機能としては、侵入する敵をその中に誘い込み、門櫓の上や土塁上などから弓や鉄砲で狙い撃ちにするというものである。

 

そして、この内部の一隅には地鎭のために寺社を祀る。肴町の桝形前には河内神社を祀り、片町の桝形内には宝性寺が置かれた。のち寛文7(1667)年、城主 榊原式部大輔政倫(さかきばらしきぶのたゆうまさとも)のときに庚申堂が安良町から移されて祀られた。城の鬼門鎮め[きもんしずめ]のためと言い伝えられているが、実は同所は城の鬼門には当たらない。

 

そこから方位を見ると、ちょうど安良町と上町大町の境であった札の辻[ふだのつじ](城下の中央で掟書を掲げる場所で、米沢道や出羽道の出発点)の北東(表鬼門)にあたる。ということは、同所の宗教的施設はあくまでも村上城下町の鬼門鎮めが目的である。

 

これら桝形は、町人の労力奉仕によって完成されたものだから、城主 堀直竒はその労苦に報いるため、地子[じし](地税)を免除した。とはいえ、税の免除は人口増が目的であろう。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年10月号掲載)村上市史異聞 より

2022/10/15

021 村上城下(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

大名 堀直竒の石高は10万石であったが、将軍家の脇備[わきぞなえ]ゆえ大きな軍備で侍数380、足軽(兵卒)1000、内高[ないだか]は21万石余に上った。幕府内での堀は無役であったが談伴衆の一人であった。その役目は、将軍に天下の情勢や軍事、経済、学問の話を聞かせることを目的としたもので、武功者や学者などが選ばれた。

 

堀が村上に転封した理由は、米沢の上杉を牽制するためである。城下を拡張して城を堅固にしたことは、防衛都市にすることはもちろん行政・経済の中心地にすることであった。

 

その防衛地域内に町人地を包含した一つの理由は、民衆を敵の略奪・暴行・拉致から守るためでもあった。道路は容易に城に近付くことができぬよう、また槍などを振り回すことができぬよう、狭いところでは約1.5m、広い所でも約5.4mでしかない。また敵の視界を遮[さえぎ]るため交叉点を多くし、四つ角は喰い違いにする。

 

城下の出入口には防御用の桝形を造り、城主や重臣の下屋敷(別邸)を置いた。また、鉄砲足軽の長屋を置き防備させた。羽黒町の東端南側に城主の屋敷、その向かいには家老 野瀬右近の下屋敷を設け、片町には10人の鉄砲衆と長柄衆(槍足軽)を配置した。

 

この当時、片町は堀片にあり(堀の片側にあった町ゆえ片町の名が付いた)、城下の東を防備していた。

 

また、鍛冶町と小国町の境には大門を設け、小国町には十人組頭と鉄砲衆を配置している。十人組頭は、初め京都に設けられた警察権を持った職務であるから、小国町は肴町の桝形と相まって警備の任を負わされていたものと推察される。

 

桝形の機能や位置については次に述べる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年9月号掲載)村上市史異聞 より

2022/09/15

020 村上城下(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

村上頼勝の家臣団を記した『分限帳』[ぶんげんちょう]には、城の定番は9名、二の丸(二之町)47名、三の丸(三之町)85名、飯野92名、新丸25名、どの地域にも属していない者32名がある。このうち新丸とあるのが新町を指すと考えられる。

 

これらの侍は、最高位が家老の1万2千石で最低100石までである。その下に位置する与力や同心、足軽、中間、あるいは自分抱えの若党は員数外である。

 

城郭は坂上門(下渡門)から南とし、城内に8棟の櫓を建て、表裏新町と追手筋(大町裏)に堀を掘ったと江戸時代後期にまとめられた『村上城主歴代譜』に記されている。

 

形成された城下町は、前記の武家地のほか大町を中心にして、その北に小町、南に上町、それに続いて長井町と尻引村(現羽黒町あたり)、上町の西には細工町であったろうが、長井町は侍地であったというから、おそらく長柄[ながえ]衆(2間柄[え]の槍を持つ足軽衆)の長屋があった町で、のち長柄の「柄」が「井」の字に変化したと推察される。

 

細工町は、本悟寺と共に加賀国小松から移ってきた町である。本悟寺の本家寺は本蓮寺といい、小松市細工町に現存する。『本蓮寺由緒書』によれば、永禄9(1566)年に津波倉[つばくら]から小松へ移ったとある。

 

その村上細工町にいたのが六軒鍛冶と呼ばれ、のち鍛冶町に移転する鍛冶であった。本蓮寺が建てられると細工町に改められたと同寺の檀徒であった長谷川三吉家の系図は述べる。当時の人口や職業分布などはまったく不明である。本蓮寺が本悟寺に改めたのは寛永年間(1624~43)という。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年8月号掲載)村上市史異聞 より

 

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