
イラスト:石田 光和(エムプリント)
鎌倉公方と呼ばれた関東の足利氏のもとで勢力を張り、越後国守護職に任じられた上杉氏は、鎌倉山内[やまのうち]に居を定めた山内上杉氏と扇谷[おうぎがやつ]に本拠を置いた扇谷上杉氏があった。のち山内上杉を継ぐのが上杉謙信であり、扇谷上杉は小田原の北条に滅ぼされてしまう。
とまれ、いまだ足利将軍時代、とはいえ将軍の威勢はようやく衰え、各地に下克上が横行し反逆は日常茶飯事、主殺し・親殺しが相次いでいた。文明5(1473)年に扇谷上杉を継いだ人物を上杉定正[うえすぎ-さだまさ]という。この定正のもとで実力を十分に発揮して活躍したが、非業の死を遂げたのが太田道灌[おおた-どうかん]である。
『七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』と詠んだとされ、文武両道に達した武将である。実際、道灌の実力は比類ないもので、数々の合戦では武功を挙げ、江戸城を築き、学問は鎌倉五山で励み、また山内上杉との関係も良好にすべく斡旋に努めた。ところが、その才能を妬んだのが主君・定正である。実は関東での最高位である関東管領職は山内上杉のものであったから、山内上杉にも尽くす道灌を憎んだものかもしれない。
あろうことか定正は、甘言を用いて道灌を誘い殺してしまった。烈火のごとく怒ったのは、山内上杉の当主・顕定[あきさだ]である。その顕定に味方したのが、越後守護職であった父の房定[ふささだ]と弟の房能[ふさよし]である。ところが不幸にも房定は間もなく病死し、その跡は房能が継ぐ。長享2(1488)年頃である。
この越後守護・上杉の守護代を務めていたのが長尾為景[ながお-ためかげ]という人物で、その子がのちの上杉謙信である。守護代という職は、守護職に代わって政務を執るものであるから、府中(春日山城)に常住している。また、守護職・上杉の執事(家司の長官)の任にあったのが山吉氏である。その山吉は、長男の景久[かげひさ]は三条城にいて、弟の盛春[もりはる]は妻有城(十日町市)の城将であった。
ところ上杉房能と長尾為景の間で確執が惹き起きる。その理由を『鎌倉管領九代記』は、房能が侫人[ねいじん]*の讒言[ざんげん]を信じ、為景を討つべく支度していたのが発覚したのが発端という。また『編年上杉家記稿』は、上杉房能に苛政[かせい]**が多く、それを為景が諌言[かんげん]したが、房能が聞き入れず、両者の間が悪化したと記されている。両者とも信じるに足りない話である。
*侫人 …口先巧みにへつらう、心のよこしまな人
**苛政 …厳しい政治
端的にいえば、家運の傾きかけてきた守護職・房能とそれに替わって政権を握ろうとする守護代・為景の勢力争いであろう。そこで戦局を優利に展開するには、多くの土豪や国人領主を味方に付けることである。その手段の一つは、いかに自分に正統性があるかということを掲げなければならない。そのためには多くの武将が納得する人物を旗頭に据える必要がある。さてその人物は誰ぞと沈思黙考した為景は、そうだ房能の養子の定実[さだざね](越後守護上杉氏の分家、上条[じょうじょう]上杉=柏崎居住)がよいと判断した。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年11月号掲載)村上市史異聞 より