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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2026/05/15

064 越後永正の大乱と三面村の先祖(6)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

色部[いろべ]の平林要害が陥落したのが永正(1508)5年5月23日頃、竹俣[たけのまた]の岩谷[いわや]城が形勢不利となって降参したのがその年の秋であった。してまた村上の本庄時長[ほんじょう-ときなが]は翌年正月28日に病没してしまった。あっけのない最期であった。あるいは生得病弱であったのか、それゆえ覇気がなく戦わずして為景[ためかげ]に降ったのか。以後、村上城と瀬波郡は時長の嫡子・房長[ふさなが]の統轄するところとなる。

 

その前、足利幕府は上杉定実[うえすぎ-さだざね]が勝利を収めた報告を受けて、定実を越後守護に任じ、為景をその補佐役にすると伝えてきた。為景はこれで越後国主の座に手が届くところにきたのである。しかし、事はそう簡単には運ばない。鎌倉山内[やまのうち]にいた関東管領の上杉顕定[あきさだ]が、弟・房能[ふさよし]戦没の報告を受けて烈火になって怒った。

 

房能は家臣の長尾為景に殺され、分国の越後は分捕られてしまった。敵をこのままに捨て置くことは、家門のための腹臣の痼疾[こしつ]*となる。ただちに為景らを退治し房能の霊をば慰撫すべし、として一方の大将を子息の憲房[のりふさ]として、自らも大将となり、総勢8千を引き具して三国峠[みくにとうげ]を越えて越後に攻め入ろうとしたのが永正6(1509)年7月28日のことである。
*痼疾 …長い間、治らない病気

 

そのことが為景や定実に聞こえると、為景はその大軍を迎え撃つにはわが軍勢だけでは不足である。また色部や本庄、八条ら下郡衆が兵を挙げ後方をおびやかし、中郡では山吉・上条・桃井・石川らが挙兵したならば由々しきことになる。本庄らの牽制には伊達に援軍を頼むべし、と判断して手を打つ。

 

されど顕定と憲房に率いられた将兵は、燎原[りょうげん]の火のごとく、上州の沼田や白井、信濃口の城を瞬く間に陥落させてしまった。泡を食ったのは定実と為景だ。伊達の援軍はいまだ越後入りをしていない。この様子では敗戦は必定。されば一旦、能登・越後境に退くべし、となり糸魚川[いといがわ]まで退いた。

 

善戦したのは三条城の山吉能盛[やまよし-よしもり]だ。城は平城であるが、五十嵐川[いからしがわ]を前にして、一方は信濃川が流れている。舟がなくては渡ることはできない。要害堅固、堀を回したようでその深さは分からない。この城には顕定軍も攻めあぐねた。

 

そのうち伊達尚宗[だて-ひさむね]も、長井衆に命じて越後進軍の兵を整えたと伝えてくる。また、幕府は定実を援護するといってくる。これに勢いを得た為景と定実は、されば一旦佐渡へ渡航し、しかるのち本土に上陸すべし。目指すは三条城。かの城を救出することは、顕定軍を敗走、壊滅することになると判断する。

 

図らずも三条城の山吉は、鎌倉勢を引きつけておき、その後方を為景に襲撃させる役目をすることになった。これが功を奏するのだ。為景勢が佐渡を経て上陸したのは永正7(1510)年4月20日で、蒲原[かんばら]浦(新潟)である。海路を選んだわけを推測するに、陸路は信州衆の高梨や糸魚川の村山らが為景に応じたが、鎌倉勢に阻害される恐れも十分に考えられる。また、親不知[おやしらず]などの天険[てんけん]*を避けるためと思われる。
*天険 …(山地などの)非常に険しいところ

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年4月号掲載)村上市史異聞 より

 

2026/04/15

063 越後永正の大乱と三面村の先祖(5)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

上杉房能[うえすぎ-ふさよし]敗死の報は、房能を旗頭に擁していた諸将を震駭[しんがい]*させた。竹俣[たけのまた]も色部[いろべ]も本庄[ほんじょう]も、自然おのおのの城に籠もって戦うことを約したものだが、兵力は結集してこそ強力になるが、しかし、彼らは各自の城こそよりどころと思っていた。さればと為景[ためかげ]方の将・中条藤資[なかじょう-ふじすけ]や為景に応じた伊達尚宗[だて-ひさむね]は、阿賀北の盟主たる本庄時長[ときなが]をまずもって降せば、他の城の攻略はそう難しくはあるまいと判断した。
*震駭 …恐れ驚いて震えること

 

先鋒隊は築地忠基で、その後詰として伊達と芦名[あしな]が出張したのである。芦名の最前線は赤谷[あかたに]で、伊達が足がかりにするのは小国[おぐに]から下関[しもせき]である。けれど、この時どの程度の戦闘が展開されたかは判然としない。おそらくはそう大規模な戦ではなかったものであろう。本庄の記録などから推量すると、形勢不利と踏んだ時長はさっさと為景方の軍門に降り、村上城は忰[せがれ]の房長[ふさなが]に譲り、己は隠居して猿沢城に隠退してしまった。

 

盟主のごときの本庄がこのありさまだから、竹俣と色部も降伏・開城かと思ったがさにあらず、両者共にどうして「いざや見参、目に物を見せてやるべい」と言って、城門を固く閉じ、逆茂木[さかもぎ]を並べ、塀を高くして抗戦する構えを見せた。およそ籠城戦ほど攻守ともに損害を被る。守備陣は外からの救援軍がなければ勝つことは容易でないし、攻撃方は多大な犠牲を覚悟しなければならない。まず永正5(1508)年5月24日に敢行した為景方の平林城の攻撃は、険阻[けんそ]*な地形に守られた城のため、攻めきることができない。
*険阻 …道や地形が険しいこと

 

麓に造られた根小屋や築塁は突破できたが、その実城は天険の山頂にあり、路は急で狭く複雑な地形である。「このような小城一つ落とせないでどうする。者共かかれやかかれ」と中条藤資が号令をかければ、猪武者は一番手柄はわれにありと競って登りはじめる。守備側にすれば、これほど格好な標的はない、瞬く間に上から雨のような矢を降り注ぐ。攻め手の毛利新左衛門と中条藤資の手勢はわけもなく射たてられ、数十人も討死してしまった。しかし、衆寡敵[しゅうかてき]せず*、色部衆はついに防御あたわず降参したのである。
*衆寡適せず …少数と多数とでは勝負にならない

 

一方、竹俣清綱[きよつな]は岩谷[いわや]城にこもると、赤谷の小田切定遠[おだぎり-さだとう]に援軍を頼む。この城もまた険阻な山にある。城攻めが始められたのは同年6月29日、為景自ら部将を引き具しての城攻めだが、この城もまた天険の山に築かれたもので、城攻めに先立ち、為景はまずもって近辺の村々に放火し、兵糧とともに足がかりになる家屋を焼き払ったが、城側は城主の竹俣八之丞が討死するほどの必死の守備であった。攻撃に耐えかねた竹俣与四郎は会津へ逃げた。

 

しかし、為景は竹俣の主君・清綱と和睦せざるを得なく、調停を結んで三条城へと引き揚げた。この戦にも妻有[つまり]の城将・山吉盛藤は、ひそと沈黙を守り続けていた。為景が竹俣と和睦したのは、鎌倉の上杉氏が為景討伐の軍勢を催しているという情報を得たからである。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年3月号掲載)村上市史異聞 より

 

2026/03/15

062 越後永正の大乱と三面村の先祖(4)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

戦国の世において、正月を祝うようなゆとりはない。月次[つきなみ]の例日には、先祖霊が大潮に乗って彼岸から此岸[しがん]を訪れ、現世の人々に延命をもたらすのだから、全ての戸口を閉じて俗界を遮断しなければならない、などと悠長なことをいっていたならば、弓矢でミノムシのようになってしまう。

 

長尾為景[ながお-ためかげ]が手勢を引き具して、越中は滑川を攻めたのは正月17日のこととは既述した。そして、その年8月には上杉定実[うえすぎ-さだざね]を旗頭に据えて、いよいよ上杉房能[ふさよし]を攻めるべく攻撃態勢を整えた。

 

もとはといえば長尾為景は上杉房能の家老職であるから、房能の臣下である。つまり、為景の行為は誰がみても反逆、下克上であるが、乱世は勝った者が正義を唱えるのだ。


血の気を失って拳を震わし、眥[まなじり]を決し憤怒の形相でののしっても、哀れ房能の手勢は数えるほどしかいない。大熊備前守父子、山本寺定種[さんぽんじ-さだたね]、平子[たいらこ]らわずかに5~60騎であった。ひとまず越中国へ退き態勢を整えねばならぬとなり、その途次、彼ら主従は妻有庄[つまりのしょう]天水[あまみず]を経ようとしていた。その付近には妻有城があって、城将は山吉盛春の弟・盛藤(源助のち大炊助[おおいのすけ])が務めていた。

 

盛春は三条城将の景久の弟で、いずれも房能の重鎮であったことは既述した。房能は、この兄弟の武力を頼ったのかもしれない。しかし、為景方の追撃は急を極めた。房能らが天水で兵を構えたことを知った為景方は、十重二十重に包囲し、攻めに攻めたてた。妻有城の山吉は全く手も足も出せず、房能ら主従は滅亡の渕に向かうよりほかに道はない。鎧を脱ぎ、割腹の支度をする房能を前に、残余の家来共は虚空に散華するべく黒い鉄壁のような敵陣目指して突入していった。長尾為景は下克上に成功。越後国主・上杉民部大輔房能は無残、天水の露と消えたのは永正4(1507)年8月7日未刻(午後2時)であった。焼け焦げる兜の下に汗が流れて目がかすみ、妙な静寂の中に薄[すすき]が気だるそうに穂を垂れ、秋虫が重苦しげに鳴いていた。

 

旗頭と仰ぐ国主の非業の最後は、たちどころに越後一国に伝わり広まる。勢いを得たのは、いうまでもなく上条定実を擁した長尾為景派である。旗色が明らかになると、それまで去就を鮮明にしてこなかった会津の芦名盛隆[あしな-もりたか]や米沢の伊達尚宗[だて-ひさむね]は、公然と定実に誼[ぎ]を通じてくる。

 

存亡の秋が訪れたのは本庄時長[ほんじょう-ときなが]、色部昌長[いろべ-まさなが]、竹俣清綱[たけのまた-きよつな]である。勢いに乗じた長尾為景は、彼らが籠もる城を一気に踏み潰してしまえと築地忠基や中条藤資[なかじょう-ふじすけ]に命じた。彼らに加勢するのは伊達や芦名で、第一の攻略目標は本庄城である。そのため、伊達と芦名は国境まで軍勢を移動させていた。

 

またこの以前、三条の山吉能盛[やまよし-よしもり]は為景に寝返りしていた。しかし、親子兄弟が敵味方に分かれるということは、義理や血系の存続や互いの利害などを考えてのことで、よくみられたことである。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年2月号掲載)村上市史異聞 より

 

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