
イラスト:石田 光和(エムプリント)
『賀越鬪諍記』[かえつとうそうき]によれば、「国中ノ一揆、越中・能登ノ一統蜂起して川北より打ち入り在々所々に放火シ兵庫・長崎村の里々ニ陣ヲ取ル。ソノ数三十万ト聞ク、洪波壑[こうはたに]ニ振ウ」。
その数は30万というから、まさに洪水が渓間に溢れるようなありさまであろうが、いささか誇大な形容ではある。しかし、相当大規模な一揆であったことは間違いなかろう。こうなると越中・能登に隣接する越後にもその影響が出ることも予想される。越後で主導権争いをしていた長尾為景[ながお-ためかげ]と上杉房能[うえすぎ-ふさよし]にとって、わけていまだ勢力基盤の薄い為景にとっては脅威である。
一揆勢の主力は加賀の一向宗徒で、武家政権を嫌い、独自の権力基盤を確立しようとして、地侍を扇動し、武力鬪争に及んだものだ。加賀の国侍・遊佐[ゆさ]や神保[しんぼ]、土肥[どひ]や椎名[しいな]らは打ち負け、長尾能景[よしかげ](為景の父)に助けを求めてきた。また、国主・畠山義隆[はたけやま-よしたか]は、近江国から越前国まで逃げて流浪するというありさまだ。
いまや一揆勢に敵はなく、その勢いは燎原[りょうげん]の火*のごとくであった。越後から長尾能景が手勢を引き具して鎮圧に来るという情報が伝えられると、「ござんなれ、目にものを見せてやるほどに」と言い交わし、重厚な布陣で待ち構えた。能景が何ほどの軍勢で出陣したかは知れないが、なにしろ30万と豪語する一揆勢が迎撃するのである。雨あられのごとき矢と白い襖を並べたような槍の穂に行く手を遮られ、哀れ能景自ら野辺の露となって消えた。あっけない最期であった。その地は、越中国蓮沼[はすぬま](礪波郡埴生村[となみぐん-はにうむら])という。
*燎原の火 …勢いが盛んで止めることができないこと
それが永正3(1506)年9月19日のことである。やがてその影響が越後に飛び火したか、その年の冬、南蒲[なんかん]の五十嵐や石田、大須賀らが暴動を起こした。当然、妻有[つまり]の山吉や三条の山吉らも、その騒動の影響を受けたと思われるが、その詳細は明らかではない。
しかし、その騒動は間もなく為景に鎮圧された。その勝利の祝いには、為景方も反為景方の諸将も28名ほどが金覆輪[きんぷくりん]の太刀*や糸巻の太刀**を献上している。本庄時長[ほんじょう-ときなが]、中条[なかじょう]・色部[いろべ]などは金覆輪の太刀である。金覆輪より下の糸巻の太刀を献上している領主は、おおむね小領主か庶家衆に多い。いずれにせよ、これら太刀献上の人々は、為景に臣服したことを示すものではなく、あくまでも儀礼的なものである。
*金覆輪の太刀 …覆輪(鍔の外周)を金(または金色の金属)で覆ったもの
**糸巻の太刀 …柄[つか]と渡[わたり]を打紐で巻いた装飾的な太刀
翌年正月早々になると、為景は越中の滑川に進出し牛尾砦を奪取した。春日山の房能を攻めるため、後方の安全を確保しておくことと、阿賀北の諸将を封ずるためである。これでその主将たる本庄や色部は首枷[くびかせ]をはめられたようになったし、房能は確実に首根っこを押さえられた。房能の執事であった三条の山吉ら兄弟は、亀のように甲羅を固めているしかない。春日山ではとうてい抗戦できない。城中には驚愕[きょうがく]が走り、落雷のように鳴動した。救援のない籠城なぞで対抗できるものでない。負け戦と分かった時から城兵の逃亡が始まった。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年1月号掲載)村上市史異聞 より