むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2025/06/15

053 次太郎騒動(7)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

まさに津波が襲ったような佐々木村の庄屋・峯右衛門の屋敷であった。その屋敷を跡にした一揆衆が向ったのは大津から金屋であった。この両村の対応は慇懃[いんぎん]を極めたもので、庄屋以下の村役人どもは裃と袴を着け、酒飯は一度ならず二度も饗する。金屋が一橋領になるのは文政10(1827)年で、以来陣屋が設置され治安も維持されるが、この騒動の時は幕府領で水原代官所支配であったから他村同様である。

 

次太郎はじめすべてが図に乗り、高ぶって向うところ敵なしといったところか。その中にあって、虚勢を張っている者も多くいる。もっとも付和雷同して加担している者の集まりでもある。一人が法螺貝を吹けば、それに気を揺すられてまた一人が、また一人が吹く。その貝の音がぼうぼうと、黒雲天を覆うがごとく、地を震わすがごとくに響かせ、草鞋の音も高く、海老江村になだれ込む。すると海老江でも手回し早く、村役人がこれまた裃袴姿で出迎え、丁寧な接待をして送り出す。そこでさらに図に乗った次太郎らは、戦で陣頭指揮する侍大将になったような錯覚に捕われ、「ものども! 敵は本能寺にあり、川を渡って押し寄せよ!」どこで聞きかじったのか、まるで明智光秀が桂川をこぎ渡って、織田信長を本能寺に討ったときの情景のごとく英雄気取りであった。その下知に、これまた脳天に火の付くほど興奮している衆は舟橋を踏み鳴らし、川面に小波を立てながら対岸へ渡ろうとする。

 

荒川河口の桃崎村は、海老江村の西岸で数艘の舟をつないだ舟橋で往来している。その桃崎は村上藩領でもあったから、村上藩からの警備隊が出張していたことは既述した。当時の侍なんてものは、平和ボケしてろくに武術の習練もしていないが、たまには三面川[みおもてがわ]の河畔で種子島*や棒火矢[ぼうびや]**の稽古はしていた。隊将・岩付五郎太夫と川上重次郎以下60名ほどが槍を構え、種子島の火縄に点火して、ござんなれ、と待ち受けている。それを望んだ衆は、思わず喚声[かんせい]を上げてたじろみ、立ち止まる。次太郎は、ここで引いてはならじと蛮声を張り上げ、「やよ皆の衆、彼方の敵は侍といえど私領の侍。俺らは御領の百姓、私領の侍が御領の百姓になにするものか。恐れることはない、進めや進め」。勇気はあるが、知恵足らずの次太郎と千余の衆である。その号令に憤激し、逆上して鯨波[げいは]を上げると再び渡り始める。彼らが図に乗った一つの理由は、御領(幕府領)は私領(大名領)より格式が高く、その領民であるという意識があるのだ。
*火縄銃の俗称
**鉄製の筒に火薬を込めて発射する火矢

 

先頭になった衆は次太郎の怒号に励まされ、また後続の衆に背を押され、ついに渡り切った。けれどごく少人数で後続はない。これには村上兵が拍子抜けしたところ、多勢がどっと駈け上がったのである。隙を突かれたかたちになった岩付は、血相を変えて下知をくだす。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年5月号掲載)村上市史異聞 より

 

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