むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2026/03/15

062 越後永正の大乱と三面村の先祖(4)

%e8%b6%8a%e5%be%8c%e6%b0%b8%e6%ad%a3%e3%81%ae%e5%a4%a7%e4%b9%b1%e3%81%a8%e4%b8%89%e9%9d%a2%e6%9d%91%e3%81%ae%e5%85%88%e7%a5%964
イラスト:石田 光和エムプリント

 

戦国の世において、正月を祝うようなゆとりはない。月次[つきなみ]の例日には、先祖霊が大潮に乗って彼岸から此岸[しがん]を訪れ、現世の人々に延命をもたらすのだから、全ての戸口を閉じて俗界を遮断しなければならない、などと悠長なことをいっていたならば、弓矢でミノムシのようになってしまう。

 

長尾為景[ながお-ためかげ]が手勢を引き具して、越中は滑川を攻めたのは正月17日のこととは既述した。そして、その年8月には上杉定実[うえすぎ-さだざね]を旗頭に据えて、いよいよ上杉房能[ふさよし]を攻めるべく攻撃態勢を整えた。

 

もとはといえば長尾為景は上杉房能の家老職であるから、房能の臣下である。つまり、為景の行為は誰がみても反逆、下克上であるが、乱世は勝った者が正義を唱えるのだ。


血の気を失って拳を震わし、眥[まなじり]を決し憤怒の形相でののしっても、哀れ房能の手勢は数えるほどしかいない。大熊備前守父子、山本寺定種[さんぽんじ-さだたね]、平子[たいらこ]らわずかに5~60騎であった。ひとまず越中国へ退き態勢を整えねばならぬとなり、その途次、彼ら主従は妻有庄[つまりのしょう]天水[あまみず]を経ようとしていた。その付近には妻有城があって、城将は山吉盛春の弟・盛藤(源助のち大炊助[おおいのすけ])が務めていた。

 

盛春は三条城将の景久の弟で、いずれも房能の重鎮であったことは既述した。房能は、この兄弟の武力を頼ったのかもしれない。しかし、為景方の追撃は急を極めた。房能らが天水で兵を構えたことを知った為景方は、十重二十重に包囲し、攻めに攻めたてた。妻有城の山吉は全く手も足も出せず、房能ら主従は滅亡の渕に向かうよりほかに道はない。鎧を脱ぎ、割腹の支度をする房能を前に、残余の家来共は虚空に散華するべく黒い鉄壁のような敵陣目指して突入していった。長尾為景は下克上に成功。越後国主・上杉民部大輔房能は無残、天水の露と消えたのは永正4(1507)年8月7日未刻(午後2時)であった。焼け焦げる兜の下に汗が流れて目がかすみ、妙な静寂の中に薄[すすき]が気だるそうに穂を垂れ、秋虫が重苦しげに鳴いていた。

 

旗頭と仰ぐ国主の非業の最後は、たちどころに越後一国に伝わり広まる。勢いを得たのは、いうまでもなく上条定実を擁した長尾為景派である。旗色が明らかになると、それまで去就を鮮明にしてこなかった会津の芦名盛隆[あしな-もりたか]や米沢の伊達尚宗[だて-ひさむね]は、公然と定実に誼[ぎ]を通じてくる。

 

存亡の秋が訪れたのは本庄時長[ほんじょう-ときなが]、色部昌長[いろべ-まさなが]、竹俣清綱[たけのまた-きよつな]である。勢いに乗じた長尾為景は、彼らが籠もる城を一気に踏み潰してしまえと築地忠基や中条藤資[なかじょう-ふじすけ]に命じた。彼らに加勢するのは伊達や芦名で、第一の攻略目標は本庄城である。そのため、伊達と芦名は国境まで軍勢を移動させていた。

 

またこの以前、三条の山吉能盛[やまよし-よしもり]は為景に寝返りしていた。しかし、親子兄弟が敵味方に分かれるということは、義理や血系の存続や互いの利害などを考えてのことで、よくみられたことである。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年2月号掲載)村上市史異聞 より

 

先頭に戻る