むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2024/02/15

037 領主の交替と四万石領騒動(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

村上藩ははじめ9万石で村上氏が入り、つぎには堀氏が10万石で入封した。両者に1万石の差があるも、検地打ち出し高によって生じたもので領域に変わりはなかった。

 

すなわち現村上市全域と関川村、北蒲原郡の一部である。この領域を村上領と呼んだ。これらの支配範囲は51年間続き、松平直矩[なおのり]が入封すると15万石となる。

 

増加した分は、従来からの蒲原郡の領地のほかに、2万8,931石2斗4合の蒲原郡と1万1,068石7斗9升6合の三島郡である。

 

この領域は、かつて幕府領で三条蔵組・寺泊蔵組・新潟蔵組の3つの蔵組からなっていたが、松平藩は法令の徹底化や年貢収納の完備を図るため、寺泊組・渡辺組・地蔵堂組・三条組・一ノ木戸組・燕組・茨曽根組・打越組・釣寄組・味方組の10組に分けた。

 

これに従来の領分の組を加えると全域で45組となり、805カ町村となった。このうち三条周辺の領地を「村上藩四万石領」という。

 

この組村を支配するため、三条に奉行所を設ける。配置される役人は、奉行とその下に代官を置き、さらに治安維持のための警察権を有する役人。検地・年貢収納・会計などを担当する役人を配置した。

 

それら藩権力の末端を担うのが、各組ごとの大庄屋、村ごとの庄屋、その下の組頭であった。ただし、村上城下の場合は町全体の代表者は大胆煎(のち大年寄)、各町に胆煎(年寄)という役職名であった。こうした人々を村役人・町役人と呼んでいた。

 

藩の行政警察機関は、村上城下の場合は町奉行によって統轄されるが、新たに加えられた四万石領の場合は、前述した三条奉行所である。

 

最高職の奉行は200石から300石程度の扶持米を受ける中級藩士で、その下の代官には計数や土地状況に詳しい者が選ばれる。また、手代にはその土地生まれの農民が取り立てられることもあった。

 

大年寄や大庄屋、年寄、庄屋らは世襲が原則であったが、大年寄の場合はしばしば交替している。身代が永続しないことと、城下町ゆえに藩との接触や民事訴訟など、執務内容が複雑であったため、有能でなければ務まらなかったからだ。

 

大体において一代限りで、三代続くのはまれであった。それに対し、大庄屋の場合は江戸時代約250年間通じての家もあった。それだけ農村地域は問題の起こる頻度や執務の繁雑さが低かったといえよう。

 

先述した村上藩領の組村数は、松平・榊原・本多と変りがなかったが、本多忠良が15万石から5万石に減知されると、岩船郡81村と村上町・瀬波町・蒲原郡合せて83町村、三島郡25村が村上領となり、ほかは幕府領となった。

 

蒲原郡では、三条・一ノ木戸・燕・釣寄・打越は村上領。茨曽根・味方・地蔵堂は村上領と幕府領に分けられた。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年11月号掲載)村上市史異聞 より

 

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