むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2022/05/15

016 村上城の築城(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

完成した村上城の外観を述べると、山麓下の居城はコの字形をした6間幅の内堀に囲まれ、土塁上には三層櫓1棟、二層櫓2棟、平櫓1棟を建てた。二の丸の堀は6間幅で4棟の門があった。三の丸の堀も6間幅であったが、大堀(広見とも)は城下最大の31間幅であった。

 

追手門(大手門)は西面の中央に、その南には飯野門を設け正面の防護施設にした。それに対して搦手[からめて](裏手)の堀は8間幅で、堀片や新町の堀は5間幅で4棟の門を備えていた。

 

総堀[そうぼり](外構[そとがまえ])は堀片の最東端から片町、庄内町を経て塩町に達し、一方、牛沢口から飯野を経て肴町に達する。総延長は直線距離にして東西2.3km、南北1.4kmに達する越後最大の規模であった。

 

ちなみに高田城は約1.4km×1.1kmであった。

 

山上の櫓は最高所に三層の天守櫓を建て、各曲輪(郭)[くるわ]にはそれぞれ櫓を設け、多聞[たもん]と呼ぶ廊下状の櫓や塀で連結する。山城の定番が寝泊まりする建物は、七曲がりを登りきった所から少し上の東面、つまり季節風の当たらない場所で、城郭の中央部に置かれた。

 

屋根は板葺であろう。当時、瓦師は畿内にはいたが、関東以北、わけて越後から東北地方には皆無であったから、運搬費などを含めると割り高となるので、多くの城は板葺にせざるを得なかった。

 

現存する新発田城は瓦葺であるが、江戸後期のものである。とまれ村上城は越後国内では最大の規模と防御力を誇るもので、嘉永7(1854)年、剣術修業のため村上藩を訪れた佐賀藩の牟田文之助は、堀丹後守の築いた城ゆえに、堅固の城であると感嘆している。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年4月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/04/15

015 村上城の築城(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

元和6(1620)年2月の書状は、土木工事が始まったことを報せていた。それが同年3月28日の書状では、手ぬかりのないようにといい、山辺里口の惣堀(加賀町から庄内町裏にかけての堀)が完成したならば、海府から船で石を運び、瀬波に集めておくように。本丸(山頂)の天守や多門櫓の造作は念を入れて行うように、また、城の壁はすべて板でおおうがよろしい。したがって、多くの板が必要になるので、木挽に精を出させて作業させよと土木工事が終盤となり、大工工事が開始されようとしている様子だ。それが4月16日の書状では、本丸の工事は油断のないようにせよと、大工奉行に命ずること。天守櫓の立柱式は、そのうち帰国するから、それまで待てと述べる。

 

江戸での直竒は多忙で、ようやく帰国できたのは4月下旬のようである。そして城普請の様子を確かめ、立柱式を行い、その年の秋には再び江戸へ登った。

 

翌7年2月の書状には、城普請の留意点を指示するから、その通りに行うようにと命じている。それが同年4月17日では、よほど工事も進み、残り工事は足軽共に任せてもよろしい。役人は領内の水路や河川の堤防普請をぬかりなく監督せよと命じている。

 

こうした様子からうかがうと、築城開始してからおよそ3年間で完成したことになる。おそるべき短期間であるが、軍事的施設ゆえ、緩緩[ゆるゆる]した工事は許されなかったためだ。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年3月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/03/15

014 村上城の築城(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

慶長3(1598)年に村上城主になった村上頼勝は、城を改築したというが、どの程度のものか確[しか]としたことは分からない。史料になり得るのは、元和4(1618)年に村上城主になった堀丹後守直竒[ほりたんごのかみなおより]の手紙と城絵図である。

 

直竒は大坂夏の陣(元和元年 豊臣氏滅亡)で、敗走する真田信繁[のぶしげ]勢を追って、大坂城への2番乗りを果し、徳川家康から激賞されて将軍の脇備[わきぞなえ]となり、越後長岡8万石を賜り、同4年には村上10万石の城主となった。

 

なお、真田信繁とは幸村のことであるが、幸村という名は存在しない。

 

直竒は同五年から城下町建設や城造り、あるいは産業開発などを国家老の堀主膳[しゅぜん]の指揮下にして、自分は江戸へ上る。その直竒が主膳に宛てた手紙が72通ほど残っている。

 

築城に関するはじめは、同5年12月2日の書状で、それには材木を伐採するときは、普請奉行と大工奉行も山へ同行させよといっている。現場は岩ヶ崎山から下渡山と考えられる(村上頼勝藩有林による)。

 

ついで翌6年2月の書状には、本丸の地形図を引くことを忘れた、と述べていることからすると、城郭の設計は直竒が行っていたといえる。

 

工事は坪割普請(一定間隔を何等分かに割り、定人数に分担させる)にする。崩した土を西の麓[ふもと]へ下ろせば、喜兵太という人の屋敷の木が枯れるから羽黒口の方へ下ろすべし。

 

あるいは石垣用の石は、東の腰郭[こしくるわ]の広見(庄内町南裏)へ片付けておくべし、などと見え、城山の土木工事が開始された様子がうかがえる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年2月号掲載)村上市史異聞 より

 

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