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村上城跡(お城山)

城下町村上町屋エリア
歴史・文化
自然

下渡山の麓から見たお城山

下渡山の山頂から見たお城山

お城山東側、七曲がりの登り口

冠木門跡

お城山の山頂から、村上の市街地と日本海

135mの頂上から見る絶景

村上城は、標高135mの独立峰・臥牛山[がぎゅうさん]に築かれた城で、築城年代は不明ですが、16世紀前期には城が存在していたものと考えられます。戦国時代には本庄氏の本拠地として、永禄11(1568)年の上杉謙信との篭城戦など、幾度も戦いが繰り広げられました。江戸時代に入ると、村上氏・堀氏・松平氏らの城主によって城の改造と城下町の建設が行われ、村上城は北越後の中心拠点として整備されました。
山頂までの道は整備され、約20分ほどで登ることができます。村上のシンボルとして近隣住民はもちろん、観光客もたくさん訪れる名所です。

≫ご注意ください
・ゴミ箱は設置されていません。出たゴミは必ずお持ち帰りください
・山頂(天守跡)に自動販売機やトイレはありません。自動販売機は登城口に、トイレはお城山児童公園をご利用ください
・音の出るもの(熊鈴・ラジオ等)を携行し、複数人で行動するなど、クマとの遭遇を避ける対策を行ってください
住所 村上市二之町
電話番号 0254-52-2003(村上城跡保存育英会) 0254-52-2003(村上城跡保存育英会)
アクセス(車) 日本海東北自動車道「村上瀬波温泉IC」から車で約6分
アクセス(電車・バス) JR羽越本線「村上駅」から村上市コミュニティバスあべっ車『まちなか循環[大回り]』または『縄文の里朝日線』に乗車、バス停「二之町」下車(バス停から徒歩で約5分)。または「村上駅」から徒歩で約30分
駐車場(台数) 有(村上城跡駐車場をご利用ください)※大型車は通行不可
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関連スポット

漆山神社

旧朝日村の蒲萄[ぶどう]峠に鎮座する漆山神社は、『延喜式』所載の「漆山神社」のことです。地元では矢葺[やぶき]明神と呼ばれています。鎮座地は、国道7号の蒲萄トンネルを抜け、蒲萄集落の手前から旧道を2.5キロメートルほど入ったところにあります。羊腸の悪路に終始悩まされますが、この小径はかつては越後と出羽を結ぶ要路であり、松尾芭蕉もここを一日で越えて村上に入りました。

まいづる公園

まいづる公園は、皇太子殿下・雅子妃殿下の御成婚を記念した公園であり、南東方向に村上城跡(別名:舞鶴城)を臨み、公園内には雅子妃殿下ゆかりの旧嵩岡家住宅のほか、旧岩間家を移築復原することにより、市民の祝意を永く顕すとともに村上藩士の生活文化を展する重要な歴史文化施設としても意義深い公園です。

小俣宿

かつて日本の主要道であった出羽街道の宿場町として、出羽三山への参拝者など多くの人々が訪れました。明治維新では戊辰戦争の戦場となり、集落のほとんどが焼き払われましたが、その跡に再建された家々が現在も残っており、この貴重な小俣集落のまち並みをつくっています。心のふるさとを感じさせてくれる趣があります。

三の丸記念館

三の丸記念館は、明治40(1907)年に村上銀行本店として建築されたものです。村上銀行は、明治11(1878)年に国立銀行として誕生した「村上第71国立銀行」の業務を引き継いだことから、鬼瓦には図案化された「七十一」の文字が刻まれています。昭和57(1982)年まで現在の第四銀行村上支店の位置で店舗として活用されていましたが、銀行の改築に伴い、明治末期の貴重な建築物の保存のため、現在の位置に曳家により移転・保存されています。現在は、集会場や作品展の展示会場として活用されています。

村上歴史文化館

外観は、村上市堀片にあった明治時代後期の擬洋風病院建築物を参考として設計されています。内部展示場には、文部省唱歌「汽車」の作曲者・大和田愛羅ゆかりのピアノ「キャロル・オットー」や旧磐舟文華博物館所蔵の民俗資料などの展示を行っています。

万年山 長楽寺

創立は天文9(1540)年、開基は本庄越前守繁長(ほんじょう えちぜんのかみ しげなが)、開山は 耕雲寺11世 三心宗尹(さんしんそうい)禅師。 はじめは里本庄にあり、本庄氏に従うかたちで村上に移った。本庄氏が村上を去るのは天正18(1590)年末、福島城主になるのが慶長5(1600)年。その時、同寺は福島へも建立された。福島長楽寺の開山は、宗尹の師の大沖元甫(だいちゅうげんぽ)である。 江戸時代中期には、城主・榊原氏や本多氏などの家中寺として遇されたか、両家の重臣らが菩提寺にしている。参道入口には九品仏の上品下生仏、境内には三十三番観音を祭る。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

村上市指定文化財 旧嵩岡家住宅

直屋・寄棟造りの住宅で、平成8(1996)年に現在地に移築復原されました。この建物は、玄関を入るとすぐに茶の間があり、隣に主人の接客と居室を兼ねた座敷を備え、接客と居住空間の明確な区別がありません。また、上屋の梁間が二間半ということから、隣の旧岩間家住宅と比較すると茅葺き屋根が大きく見えるのが特徴です。 ▶旧嵩岡家住宅の解体格納と復原の経緯 旧嵩岡家住宅の屋敷は現在の村上市新町にありましたが、昭和62(1987)年に宅地造成のために解体されることになりました。その解体に際にして、村上市に現存する数少ない武家屋敷の一つであること、比較的保存状態が良かったことなどから、解体されることを前提としながらも、村上市教育委員会はこの旧嵩岡家住宅を市の有形文化財としての指定を行いました。 これによって建築部材の格納保存を目的とした解体調査工事と復原調査が行われ、主要な小屋組部材、軸部材及び天井部材などの内部造作材の保存格納が行われました。 平成5(1993)年、皇太子殿下と小和田雅子様の御成婚を記念しての記念公園整備事業が平成6(1994)年より計画着手されましたが、嵩岡家が小和田家と縁戚関係にあることから、この記念公園整備事業の目玉として旧嵩岡家住宅の復原が行われることとなりました。そして、この御成婚を記念した公園内には、この旧嵩岡家住宅のほか、旧岩間家住宅、さらには旧藤井家住宅の3棟の武家屋敷が復原されることとなりました。 (村上市郷土資料館) ▶嵩岡家と旧嵩岡家住宅 旧嵩岡家住宅が村上市新町にあったことはすでに述べましたが、この新町地内は、江戸時代には主に中下級武士が集住していた地区です。 嵩岡家については、天明7(1787)年の分限帳によると江戸藩邸詰めの武士の中に「平侍百石嵩岡泰蔵」とあります。また、明治初年の村上士族名寄帳によると「給人百石嵩岡小太郎」とあります。そして、明治初年に書き改められた城下絵図には、ちょうどこの場所に「嵩岡五郎左衛門」と記載されています。これらのことから嵩岡家は代々百石を給されていたと考えられ、村上藩では中級に位置する武士でした。 武家屋敷の基本的な性格として、次のことが挙げられます。 ①官舎的性格を有していること ②厳しい建築規制があること ③閉鎖的な屋敷構えであること また、拝領する屋敷の位置や建物の大きさや構造などの基準となるのは、その武士の禄高や身分格式でした。このようなことから復元された旧嵩岡家住宅の構造や間取りなどについては、この復原住宅がそのまま村上藩における百石クラスの武士住宅と即断することはできません。 それまで住んでいた屋敷が火災にあった際、藩は新しい家を調達するだけの余裕がなかったので番所を住宅に充てたという事例があります。この嵩岡家についても、例えば江戸から帰藩した際に、急遽屋敷を賜ったというような特殊な事情があったのではないかと考えられますが、残念ながらその特殊事情を裏付けるようなものは発見されていません。 (村上市郷土資料館)

狭の渡正跡[せばのわたしせいせき]

旧貝附村国道筋に建てられた石碑。「越後なる せばの渡しの 朝嵐 昨日も吹いて 今日も吹くなり」という古歌が刻まれています。碑が建てられている付近は景色が良く、古歌に詠まれた景勝地として有名です。

新潟山形県境標柱

村上市伊呉野[いぐれの]に立つ、新潟県と山形県の県境を表す標柱です。向かいには記念スタンプも設置されているので、訪れた際には押してください。

西奈彌神社[せなみ-じんじゃ]

千年以上も前に書かれた『延喜式神名帳』にある磐船郡8座の中にあり、長い歴史があります。福井県敦賀市にある氣比[けひ]神宮と深く関わりがあるといわれ、明治の初めまでは「氣比大明神[けひだいみょうじん]」「氣比大神宮[けひだいじんぐう]」と呼ばれていましたが、その後「西奈彌神社」と呼ばれるようになりました。現在でも、福井県の氣比神宮と同じ9月4日が祭礼です。江戸時代からの社殿は、明治18(1885)年10月の大火で焼失しました。本殿は、平成3(1991)年に再建されています。 『瀬波っていいね』(活気ある町瀬波まちづくり推進協議会)より

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