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庚申堂

城下町村上町屋エリア
歴史・文化

仁王門の仁王像

仁王門の仁王像

村上城下の鬼門封じ

創建は天文9(1540)年。行海上人が摂津国(大阪)から勧請し、安良町に祭ったといわれています。寛文7(1667)年に現地へ移りますが、それは現地が村上城下の中心「札の辻」(大町・上町・安良町の接点)からみて表鬼門に当たるため、城下の鬼門封じのためだったといわれています。
おすすめ! 庚申堂付近には枡形(街道を二度直角に曲げ、外敵が侵入しにくいようにしたもの)の遺構もみられます
住所 村上市片町4
アクセス(車) 日本海東北自動車道「村上瀬波温泉IC」から車で約10分
アクセス(電車・バス) JR羽越本線「村上駅」から徒歩で約30分
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関連スポット

西奈彌神社(せなみじんじゃ)

千年以上も前に書かれた『延喜式神名帳』にある磐船郡8座の中にあり、長い歴史があります。福井県敦賀市にある氣比(けひ)神宮と深く関わりがあるといわれ、明治の初めまでは「氣比大明神(けひだいみょうじん)」「氣比大神宮(けひだいじんぐう)」と呼ばれていましたが、その後「西奈彌神社」と呼ばれるようになりました。現在でも、福井県の氣比神宮と同じ9月4日が祭礼です。江戸時代からの社殿は、明治18(1885)年10月の大火で焼失しました。本殿は、平成3(1991)年に再建されています。 『瀬波っていいね』(活気ある町瀬波まちづくり推進協議会)より

おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)

村上大祭で引き回される「おしゃぎり」と呼ばれる山車を常時4台(うち1台は展示用)展示していることから「おしゃぎり会館」と呼ばれています。2階展示場には、村上藩歴代城主の資料や刀剣・甲冑などの歴史資料の展示を行っています。毎年3月には「城下町村上に伝わるひな人形展」を開催しています。

観音寺

真言宗のお寺で、開基は権大僧都宗快上人であると伝えられています。わが国最後といわれる仏海上人の即身仏(明治36年入寂)の御姿が奉安されています。 【仏海上人】 文政11(1828)年5月9日、村上市安良町の近藤家の長男として生まれ、18歳で湯殿山 注連寺に入門し、本明寺でも修行。その間、15年にわたって仙人沢で荒行を重ね、伊豆・天城山や酒田の海向寺でも修行を行いました。35歳の時、五穀絶ちの木食行をはじめ、慶応3(1867)年に37歳で本明寺の住職となり、明治7(1874)年に村上の観音寺に戻ります。明治21(1888)年5月、注連寺が全焼したため、注連寺の住職となって寺を復興。再び故郷へ戻り、明治36(1903)年に76歳で入定しました。41年にわたる苦行を成し得た、日本最後の即身仏です。

村上市指定文化財 旧岩間家住宅

東西方向に棟を持つ直屋・寄棟造りの茅葺き住宅で、平成7(1995)年に現在地に移築復原されました。建設当初は連棟式の長屋形式の住宅であったものを、安政5(1858)年に一戸建の武家住宅に大改造しました。茅葺き屋根の梁間が二間と小さく、背面の増築した下屋根が大きいことでも伺い知ることができます。 【旧岩間家住宅の旧所在地】 旧岩間家住宅は、現在の新潟県村上市飯野2丁目にあったものを現在地に移築復原したものです。旧所在地は、江戸時代に五軒町と呼ばれていたところで、町人町(細工町)と接していました。明治初年の城下絵図によると、この岩間家の位置に「須貝勝太郎」と記されていることから、もとはこの村上藩士・須貝勝太郎の屋敷であったと推測されます。 なお、岩間氏の先祖は山形県の旧新庄藩の武士であったと伝えられており、この屋敷については昭和23年に取得し現在に至っていますが、住宅部分については村上市へ寄付されました。 また、この岩間家住宅は平成4年9月21日に村上市の有形文化財として指定されましたが、茅葺屋根等の破損と老朽化が激しく、一時的な補修では建物の維持が図れないということから、同年12月に、移築復原を前提とした解体と部材の保存格納が行われました。(村上市郷土資料館) 【復原調査と安政5(1858)年の大改造】 この住宅の構造形式は「直屋(すごや)・寄棟造・茅葺・一戸建」であり、典型的な村上の武家住宅の形式であるといえますが、この住宅の特徴は、この建物が建設された当初の形態と安政5年に行われた大改造後の形態がまったく異なるものになったことです。 武家住宅というのは基本的には藩の官舎であり、身分や格式によって厳しい建築規制がありました。つまり、その武士の身分や格式によって住まいする住宅の規模や形式が決まっていたため、長屋形式の住宅に住まうのは下級武士であり、それに対して一戸建形式の住宅に住まうのは中級以上の武士でした。このことからも、こうした建物の形式そのものを変えるような改造は、よほどのことがない限り行われなかったのではないかと考えられます。 この改造が行われた時期については、改造によって取り払われた部材の痕跡を隠すために使用した「カブセ」という小部材の裏に、当時の大工が書いた「墨書(ぼくしょ)」が発見されたことによります。そこには「安政五戌年午歳五月吉日 大工 羽黒町清八造之」と記されていました。こうした職人による墨書や落書きによって建築年代や改造年代が判明することは珍しいことではありませんが、この場合の大工清八の墨書は、建設当初からのものではなく改造時のものであり、当初の建物が建設されたのは、おそらくもう50~60年前にさかのぼると思われます。 では、建設当初はどのような形態であったかというと、本来は2棟続きの《長屋形式》の住宅でした。そして、何か特別な事情が背景にあったのか、その2棟続きの長屋住宅の一方の材料を活用しながら、安政5年に《一戸建形式》に改造したものといえます。(村上市郷土資料館)

野澤食品工業

事前に連絡をもらいましたら、塩谷の町屋をご案内いたします。 【野澤食品工業 店舗兼主屋が国の登録有形文化財(建造物)に登録されました】 平成28(2016)年8月1日、旧マルマス醬油蔵・野澤三次郎住宅・瀬賀惣一郎商店兼主屋と倉庫とともに国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。

小俣白山神社の大杉(姥杉)

樹齢千二百年と推定される大杉で、樹種は熊杉系。根廻り13.4m・樹高39mの大きさで、県内でもまれにみる老杉です。白山姫命を祭るこの神社は、昔は小俣集落の佐藤一族の氏社でしたが、今は全集落民の氏社となっています。白山神社では、生まれた子どもが初めて氏神様と対面する時、この大杉の下で泣かせて、子の行く末を祈る風習が残っています。

万年山 長楽寺

創立は天文9(1540)年、開基は本庄越前守繁長(ほんじょう えちぜんのかみ しげなが)、開山は 耕雲寺11世 三心宗尹(さんしんそうい)禅師。 はじめは里本庄にあり、本庄氏に従うかたちで村上に移った。本庄氏が村上を去るのは天正18(1590)年末、福島城主になるのが慶長5(1600)年。その時、同寺は福島へも建立された。福島長楽寺の開山は、宗尹の師の大沖元甫(だいちゅうげんぽ)である。 江戸時代中期には、城主・榊原氏や本多氏などの家中寺として遇されたか、両家の重臣らが菩提寺にしている。参道入口には九品仏の上品下生仏、境内には三十三番観音を祭る。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

狭の渡正跡(せばのわたしせいせき)

旧貝附村国道筋に建てられた石碑。「越後なる せばの渡しの 朝嵐 昨日も吹いて 今日も吹くなり」という古歌が刻まれています。碑が建てられている付近は景色が良く、古歌に詠まれた景勝地として有名です。

イヨボヤ会館

「イヨボヤ」とは、村上地方の方言でサケ(鮭)のこと。館内では、サケをはじめ、様々な淡水魚等を観察できます。サケ漁法に使われる漁具の展示、コンピューターゲームで楽しくサケのことが学べる「こどもサケ科学館」等、サケの生態や村上の鮭文化を知ることができます。また、三面川の分流・種川の中をガラス越しに観察でき、自然の川の様子や秋には遡上するサケをご覧になれます。タイミングが合えば、産卵の瞬間に出合えることも!

筥堅八幡宮社叢

筥堅八幡宮は、延喜21(921)年に福岡筥崎宮の八霊を筥堅山に迎えて建設されました。社殿は、日本海の荒波を望む海抜約60mの北側と西側に絶壁のある岩山(筥堅山)の山頂に鎮座しています。筥堅山は、文字通り筥(箱)を積み重ねたように海岸に突き出た山容をしており、山全体が神を祭る巨大な磐境(いわさか)になっています。神の山として社叢内を保護したため、原始林相が保たれました。カヤ、アサダの大樹は県内一といわれています。

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