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観光スポット

耕雲寺

山の恵み・生業エリア
歴史・文化

山門

山門から本堂を望む

本堂の左奥 開山堂

本堂から山門を望む

杉木立から山門を望む

登り口の熊野神社

曹洞宗寺院の名刹

耕雲寺は、応永元(1394)年に傑堂能勝禅師が開かれた寺で、傑堂の師・梅山聞本禅師を開祖としています。能勝は楠正成の孫に当たるといい、正平10(1355)年に楠正儀の次男に生まれ、名は正能と伝えられています。能勝は応永34(1427)年8月7日に73歳で耕雲寺で亡くなりましたが、その間に寺を離れたことがなく、宗門の学問に打ちこまれ、立派な弟子を育てました。
耕雲寺は末寺が80、孫寺以下を合わせると800にも及ぶという曹洞宗寺院の名刹です。
住所 村上市門前143
電話番号 0254-53-0279 0254-53-0279
アクセス(車) 日本海東北自動車道「村上瀬波温泉IC」から車で約24分
アクセス(電車・バス) JR羽越本線「村上駅」から車で約25分
駐車場(台数)
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関連スポット

筥堅八幡宮社叢[はこがたはちまんぐうしゃそう]

筥堅八幡宮は、延喜21(921)年に福岡筥崎宮の八霊を筥堅山に迎えて建設されました。社殿は、日本海の荒波を望む海抜約60mの北側と西側に絶壁のある岩山(筥堅山)の山頂に鎮座しています。筥堅山は、文字通り筥(箱)を積み重ねたように海岸に突き出た山容をしており、山全体が神を祭る巨大な磐境[いわさか]になっています。神の山として社叢内を保護したため、原始林相が保たれました。カヤ・アサダの大樹は県内一といわれています。

旧マルマス醬油蔵(旧野澤豊五郎醸造醬油蔵)

明治初期からしょうゆの醸造を手掛けていましたが、平成15(2003)年に廃業。百数十年の歴史に幕を降ろしました。 現在は、蔵の大空間を利用した多目的ステージやカフェスペースとして利用されており、イベント時などに開放しています。また、平成27(2015)年7月には、映画『殿、利息でござる!』の撮影が行われました。 平成28(2016)年8月1日、塩谷集落内の野澤食品工業店舗兼主屋・野澤三次郎住宅・瀬賀惣一郎商店兼主屋と倉庫とともに国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。

早撰堂

江戸時代から続く、国の登録有形文化財に指定された大正ロマンあふれる和菓子店。建物は明治26(1893)年建築、平成16(2004)年に町屋再生プロジェクト第1号として外観を大正時代風に改装しました。箱階段に組み込まれた金庫の重厚さが目を引きます。

村上市指定文化財 旧藤井家住宅

現存する直屋の武家住宅としては最も大きく、解体調査時に嘉永3(1850)年の棟札が発見されました。城下絵図では重野兵馬の屋敷とあり、明治30年代に藤井氏が取得したものです。 ▶藤井家住宅の履歴 旧藤井家住宅が建てられたのは、建物に使用されていた梁の仕口に記されていた墨書から、江戸時代後期の嘉永3(1850)年と推定される。 元、この住宅は内藤家家臣 重野氏の屋敷で、代々250石を給され、者頭役や普請奉行などを務めた、内藤藩では中級上位の武士であった。明治維新後、重野氏は村上を離れることになるが、その後この住宅は、明治35~36(1902~03)年頃に藤井氏の所有となる。 ▶藤井政紀(医師) 慶応2(1866)年、村上町の医師・藤井唐民の第6子として出生。明治19(1886)年、県立新潟医学校を卒業して、東京順天堂医院の佐藤進に学び、東京顕微鏡院での研修の後、浜田産婦人科で浜田玄達について産婦人科を学ぶ。帰郷して村上本町堀片で産婦人科の医院を開業。明治37(1904)年、独力で自宅内に私立村上産婆学校を創立し、岩船郡下の助産婦の養成を開始する。しかし、病弱のため大正10(1921)年これを廃止する。大正14(1925)年没。享年60歳。(村上市史より抜粋) この時、藤井氏は武家住宅であったものに大幅な増改築を行っている。特に診療所や病室、2階の産婆学校の教室等がこれである。また、この増築に併せて、診療室や病室と主屋の接続部分、台所・浴室等の水廻り部分、座敷・居室など住宅全体にわたって改造されたことが判明している。 (中略) 政紀氏は大正14年に静養先の東京池袋で没するが、その後病院は、藤井卯門氏によって継続されていたようで、昭和8(1933)年に病院を改築した際に、東京の藤井班象氏から村上の卯門氏へ、修繕費の内金の受領書が、改築前図面と共に残されていた。 そして、この昭和8年に改築された姿が、ほぼ解体調査前の姿に引き継がれてきたものと考えられる。 そして平成7(1995)年に、この住宅は東京都在住の藤井氏から村上市に寄付され、土地については村上市が取得し、解体調査と保存工事が行われ、平成10(1998)年に現在の姿に復原され公開されている。 武家住宅としては、重野氏の屋敷跡であるが、この住宅が村上市に寄付されたときの所有者である藤井氏の意思を尊重して、住宅の名称も「旧藤井家住宅」とした。 (村上市郷土資料館)

新潟山形県境標柱

村上市伊呉野[いぐれの]に立つ、新潟県と山形県の県境を表す標柱です。向かいには記念スタンプも設置されているので、訪れた際には押してください。

稲荷山(番所山)

江戸時代、塩谷は村上城下と北国街道を結ぶ重要拠点であり、村上藩はこの山に番所を置いて、人や物の出入りを監視していました。そのため、番所山[ばんしょやま]と呼ばれていましたが、明治になり、廃藩とともに番所も廃されました。その後、お稲荷さんが祭られていることから「稲荷山」と呼ばれるようになりました。 山頂には三等三角点があり、国土地理院の2万5千分の1電子地形図にも「稲荷山」として掲載されており、新潟県で一番低い(標高15.3メートル)山です。37段の階段を上った山頂の展望台からは、塩谷のまち並みや日本海に浮かぶ粟島や佐渡、南西には弥彦山、角田山が海に浮かぶ島のように見えます。

平林不動滝

国指定史跡の平林城跡のある神林地区・要害山中にある。要害山には至るところに清水が湧出しており、それらが流れ込み不動滝を形成している。滝つぼの奥には岩を削って造られた祠があり、数百年前から大日如来と不動明王の石像が童子石像とともに安置されている。 「新潟県の名水 関川村・村上市 県北名水巡りマップ」(新潟県)より抜粋 【備考】 ●不動滝登山道 駐車場(古刀比羅[金比羅]神社前)から不動滝までは徒歩で約50分です。 ●滝へと至る山道(不動滝登山道)は、ぬかるんでいたり、急な上り下りもあるので、履きなれた靴(登山靴がオススメ)でお越しください。 ●クマやヘビ、ハチといった危険動物・昆虫に十分ご注意ください。 【不動滝と目薬の由来について】 永禄の昔、色部氏第13代勝長が、上杉謙信の命により川中島合戦の出陣に際し、領内の安泰と戦勝を祈願するため、不動滝に祠を築造し、そこへ大日如来と不動明王の石像を安置されたものと推測されている。 また、天正時代、信州松本の名家・小笠原貞慶一族が、色部氏を頼って家臣となり、小笠原家伝来の軍法・兵法・馬術、さらに目薬の製法に至るまで色部氏に伝授した。 これにより、色部氏は領民のため、不動滝の真水(まみず)を用い、目薬の開発に努めたという。以来、不動滝の水滴が眼病に効能ありとして、無病息災・家内安全等のご利益を求めて、また村人たちの心の拠り所として、多くの参拝者が訪れたと伝えられている。 【お不動様の起源およびご利益】 一、家運隆盛 一、心願成就 一、徐災招福 一、身体健護 当不動堂の創建は不明であるが、江戸時代後期1813年、権三郎が再建したという文献上の記録がある。以来、村人たちは唯一信仰の場として崇拝してきた。しかし、昭和42年の羽越水害により不動堂および林道山沿い線(参道)は壊滅的被害を受けた。昔から幾多の破壊と補修の試練を乗り越え、この度ようやく参道の改修工事が完了し、不動堂の新築再建に併せ新刻された不動明王立像を奉迎安置したところである。 一方、平安時代初期806年、弘法大師空海が中国より帰朝し、日本に真言宗を開宗した。その後、大日如来を真言密教の根本尊と定めた不動明王は、大日如来の化身であり共に表裏一体の仏様であるといわれている。 なお、不動立像は怒りの相を表現し、背には激しく燃える炎を抱え、不動不変の盤石に立ち、右手には煩悩を断ち切る降魔の利剣、左手には煩悩から抜け出せない人々を救済するための縄を持つ。これは人間が持つ煩悩五欲、つまり心身を悩ます一切の欲望・悪業を追い払い、家運を転換隆盛し招福を招来する。また、あらゆる困難を克服し、勝負に勝って心願を成就する。同時に、仏の救済を必要とするすべての生命に対して慈愛の心で子孫の繁栄を守る。 これが大日如来、不動明王が説く真言密教の教理であり、ご利益の由来であると伝えられている。

大満虚空蔵尊

ご本尊の虚空蔵菩薩[こくぞうぼさつ]は、智恵・福徳をお授けする仏で、丑寅年生まれの守り本尊です。 毎年春(4/13)・秋(10/23)に大祭があり、大護摩祈祷を厳修いたします。

九品仏 中品下生 十輪寺境内

宝暦8(1758)年頃から宝暦10年頃にかけて、城下の安寧と藩主・内藤信成侯150回忌のため、城下の要所に建てられた石仏です。「九品」とは、極楽浄土の九つの階級のことで、九品仏は浄土におられる阿弥陀様の姿。上品上生から下品下生を示すのは「手の印の結び方」によります。2時間位で全部を見て回れます。

大葉澤城跡

現在の大場沢集落のすぐ南側に位置し、東側山地から西側平地へ突き出るような小高い丘陵を利用した山城で、戦国時代に活躍した鮎川氏の本城と伝えられています。東西700m・南北200mの大要害で、敵の侵入を阻止するために人工的に施した地形が今も残っています。

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