HOME観光スポット > 狭の渡正跡[せばのわたしせいせき]

観光スポット

狭の渡正跡[せばのわたしせいせき]

清流荒川エリア
歴史・文化

旧貝附村国道筋に建てられた石碑。「越後なる せばの渡しの 朝嵐 昨日も吹いて 今日も吹くなり」という古歌が刻まれています。碑が建てられている付近は景色が良く、古歌に詠まれた景勝地として有名です。
住所 村上市貝附
電話番号 0254-62-3101(荒川支所 地域振興課) 0254-62-3101(荒川支所 地域振興課)
FAX 0254-62-5275
アクセス(車) 日本海東北自動車「荒川胎内IC」から車で約14分
アクセス(電車・バス) JR羽越本線「坂町駅」から車で約10分
大きなマップで目的地までのルートチェック
スポットを
お気に入りに登録して
オリジナルのMy旅コースを作ろう!
My旅コースの作成

関連スポット

體真山 満福寺[たいしんざん-まんぷくじ]

創立は慶長元(1596)年、開山は耕雲寺14世 剛安寿金禅師[ごうあんじゅきんぜんじ]。宝永2(1705)年での山号は村上山とある。後に慈海山[じかいさん]と改め、さらに體真山[たいしんざん]と改めた。 山号を改めた理由は不明であるが、村上山の山号は地名によることは明らか。文書上の村上の初出は永正6(1509)年9月11日である。 文化2(1805)年に建て替えられた時の費用は、90両3分2朱と銭1035貫730文。全て銭にすると、1651貫862文であった。当時の大工日当は150文、米1俵が1貫650文の時代である。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

平林不動滝

国指定史跡の平林城跡のある神林地区・要害山中にある。要害山には至るところに清水が湧出しており、それらが流れ込み不動滝を形成している。滝つぼの奥には岩を削って造られた祠があり、数百年前から大日如来と不動明王の石像が童子石像とともに安置されている。 「新潟県の名水 関川村・村上市 県北名水巡りマップ」(新潟県)より抜粋 【備考】 ●不動滝登山道 駐車場(古刀比羅[金比羅]神社前)から不動滝までは徒歩で約50分です。 ●滝へと至る山道(不動滝登山道)は、ぬかるんでいたり、急な上り下りもあるので、履きなれた靴(登山靴がオススメ)でお越しください。 ●クマやヘビ、ハチといった危険動物・昆虫に十分ご注意ください。 【不動滝と目薬の由来について】 永禄の昔、色部氏第13代勝長が、上杉謙信の命により川中島合戦の出陣に際し、領内の安泰と戦勝を祈願するため、不動滝に祠を築造し、そこへ大日如来と不動明王の石像を安置されたものと推測されている。 また、天正時代、信州松本の名家・小笠原貞慶一族が、色部氏を頼って家臣となり、小笠原家伝来の軍法・兵法・馬術、さらに目薬の製法に至るまで色部氏に伝授した。 これにより、色部氏は領民のため、不動滝の真水(まみず)を用い、目薬の開発に努めたという。以来、不動滝の水滴が眼病に効能ありとして、無病息災・家内安全等のご利益を求めて、また村人たちの心の拠り所として、多くの参拝者が訪れたと伝えられている。 【お不動様の起源およびご利益】 一、家運隆盛 一、心願成就 一、徐災招福 一、身体健護 当不動堂の創建は不明であるが、江戸時代後期1813年、権三郎が再建したという文献上の記録がある。以来、村人たちは唯一信仰の場として崇拝してきた。しかし、昭和42年の羽越水害により不動堂および林道山沿い線(参道)は壊滅的被害を受けた。昔から幾多の破壊と補修の試練を乗り越え、この度ようやく参道の改修工事が完了し、不動堂の新築再建に併せ新刻された不動明王立像を奉迎安置したところである。 一方、平安時代初期806年、弘法大師空海が中国より帰朝し、日本に真言宗を開宗した。その後、大日如来を真言密教の根本尊と定めた不動明王は、大日如来の化身であり共に表裏一体の仏様であるといわれている。 なお、不動立像は怒りの相を表現し、背には激しく燃える炎を抱え、不動不変の盤石に立ち、右手には煩悩を断ち切る降魔の利剣、左手には煩悩から抜け出せない人々を救済するための縄を持つ。これは人間が持つ煩悩五欲、つまり心身を悩ます一切の欲望・悪業を追い払い、家運を転換隆盛し招福を招来する。また、あらゆる困難を克服し、勝負に勝って心願を成就する。同時に、仏の救済を必要とするすべての生命に対して慈愛の心で子孫の繁栄を守る。 これが大日如来、不動明王が説く真言密教の教理であり、ご利益の由来であると伝えられている。

はんにむ小路

現在の北線道路北側、久保多町(くぼたまち)から片町に入る辺りから山辺里川(さべりがわ)(門前川)の堤防に通ずる小路は市道半右ェ門線であるが、小路の入り口に半右ェ門という人の家があったことから、「半右ェ門」が「はんにむ」となり、通称になったと伝えられる。 この山辺里川の河原には、罪人の打ち首を行う首切場があった。現在、この場所には供養塔が建てられている。脇にある地蔵様は「首切り地蔵」とも呼ばれる。刑を言い渡された罪人は、庄内町にあった牢屋から、市中引き回しの上、ここで刑が執行された。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

小俣宿

かつて日本の主要道であった出羽街道の宿場町として、出羽三山への参拝者など多くの人々が訪れました。明治維新では戊辰戦争の戦場となり、集落のほとんどが焼き払われましたが、その跡に再建された家々が現在も残っており、この貴重な小俣集落のまち並みをつくっています。心のふるさとを感じさせてくれる趣があります。

村上市指定文化財 旧嵩岡家住宅

直屋・寄棟造りの住宅で、平成8(1996)年に現在地に移築復原されました。この建物は、玄関を入るとすぐに茶の間があり、隣に主人の接客と居室を兼ねた座敷を備え、接客と居住空間の明確な区別がありません。また、上屋の梁間が二間半ということから、隣の旧岩間家住宅と比較すると茅葺き屋根が大きく見えるのが特徴です。 ▶旧嵩岡家住宅の解体格納と復原の経緯 旧嵩岡家住宅の屋敷は現在の村上市新町にありましたが、昭和62(1987)年に宅地造成のために解体されることになりました。その解体に際にして、村上市に現存する数少ない武家屋敷の一つであること、比較的保存状態が良かったことなどから、解体されることを前提としながらも、村上市教育委員会はこの旧嵩岡家住宅を市の有形文化財としての指定を行いました。 これによって建築部材の格納保存を目的とした解体調査工事と復原調査が行われ、主要な小屋組部材、軸部材及び天井部材などの内部造作材の保存格納が行われました。 平成5(1993)年、皇太子殿下と小和田雅子様の御成婚を記念しての記念公園整備事業が平成6(1994)年より計画着手されましたが、嵩岡家が小和田家と縁戚関係にあることから、この記念公園整備事業の目玉として旧嵩岡家住宅の復原が行われることとなりました。そして、この御成婚を記念した公園内には、この旧嵩岡家住宅のほか、旧岩間家住宅、さらには旧藤井家住宅の3棟の武家屋敷が復原されることとなりました。 (村上市郷土資料館) ▶嵩岡家と旧嵩岡家住宅 旧嵩岡家住宅が村上市新町にあったことはすでに述べましたが、この新町地内は、江戸時代には主に中下級武士が集住していた地区です。 嵩岡家については、天明7(1787)年の分限帳によると江戸藩邸詰めの武士の中に「平侍百石嵩岡泰蔵」とあります。また、明治初年の村上士族名寄帳によると「給人百石嵩岡小太郎」とあります。そして、明治初年に書き改められた城下絵図には、ちょうどこの場所に「嵩岡五郎左衛門」と記載されています。これらのことから嵩岡家は代々百石を給されていたと考えられ、村上藩では中級に位置する武士でした。 武家屋敷の基本的な性格として、次のことが挙げられます。 ①官舎的性格を有していること ②厳しい建築規制があること ③閉鎖的な屋敷構えであること また、拝領する屋敷の位置や建物の大きさや構造などの基準となるのは、その武士の禄高や身分格式でした。このようなことから復元された旧嵩岡家住宅の構造や間取りなどについては、この復原住宅がそのまま村上藩における百石クラスの武士住宅と即断することはできません。 それまで住んでいた屋敷が火災にあった際、藩は新しい家を調達するだけの余裕がなかったので番所を住宅に充てたという事例があります。この嵩岡家についても、例えば江戸から帰藩した際に、急遽屋敷を賜ったというような特殊な事情があったのではないかと考えられますが、残念ながらその特殊事情を裏付けるようなものは発見されていません。 (村上市郷土資料館)

御蔵屋敷通り

「御蔵」とは、藩の米蔵のことである。この場所には藩の米蔵があったので、米蔵が撤去された以降も御蔵屋敷通りといわれた。 この蔵屋敷の上と下には、吉田門と小石垣門があり、両脇は堀であった。現在、堀は埋められ、土居は崩されて、当時の姿を見ることはできない。しかし、この狭い路を通ると、重要文化財 若林家住宅の裏の生け垣などがあり、武家町の小路としての雰囲気を漂わせている。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

越後村上鮭塩引き街道

村上の伝統文化である「塩引き鮭」が、各家の軒下に吊るされます。塩引き鮭は、腹の一部をつないだままにする「止め腹」と呼ばれる独特の切り方、下げる際も頭を下にするという特徴があります。このような点にも注目してご覧ください。 ≫2025年の実施期間 2025年12月1日(月)~20日(土)

専念小路

庄内町から杉原に至る道。沿道にある専念寺に由来する。この通りには、善龍寺と専念寺が並んでいる。善龍寺は浄土真宗で寛永16(1639)年創立。専念寺は浄土宗鎮西派で元和7(1621)年創立。 専念寺には「千体仏」と呼ばれる千体のお地蔵様がある。二度の火災で焼失したが、明治29(1896)年から3年かけて復興した。本堂には地獄絵図が掛けてある。また、本堂前には九品仏(くほんぶつ)の一つである阿弥陀如来の石像がある。元は同町内の養楽院にあった。この小路が専念小路と呼ばれるようになったのも、それだけ参詣人が多かったのであろう。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)

村上大祭で引き回される「おしゃぎり」と呼ばれる山車を常時4台(うち1台は展示用)展示していることから「おしゃぎり会館」と呼ばれています。2階展示場には、村上藩歴代城主の資料や刀剣・甲冑などの歴史資料の展示を行っています。毎年3月には「城下町村上に伝わるひな人形展」を開催しています。

縄文の里・朝日

奥三面ダム建設によって水没した、山間奥地・三面集落で使われていた民俗資料や考古資料(旧石器時代~縄文時代)を展示。まが玉・石器・土器づくりや火おこしの体験ができます。併設の食堂「食事処 やまびこ」(例年4月下旬~11月中旬オープン)では、地元農産物を使った料理と手打ちそばが人気です。

先頭に戻る