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専念小路

城下町村上町屋エリア
歴史・文化

案内板

村上の小古路

庄内町から杉原に至る道。沿道にある専念寺に由来する。この通りには、善龍寺と専念寺が並んでいる。善龍寺は浄土真宗で寛永16(1639)年創立。専念寺は浄土宗鎮西派で元和7(1621)年創立。
専念寺には「千体仏」と呼ばれる千体のお地蔵様がある。二度の火災で焼失したが、明治29(1896)年から3年かけて復興した。本堂には地獄絵図が掛けてある。また、本堂前には九品仏(くほんぶつ)の一つである阿弥陀如来の石像がある。元は同町内の養楽院にあった。この小路が専念小路と呼ばれるようになったのも、それだけ参詣人が多かったのであろう。


村上ロータリークラブ 2017-2018
村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より
住所 村上市庄内町~杉原
アクセス(車) 日本海東北自動車道「村上瀬波温泉IC」から車で約5分
アクセス(電車・バス) JR羽越本線「村上駅」から徒歩で約30分
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寺伝によれば、大化年間(645~49)には感應寺[かんおうじ]という天台宗(真言宗とも)の寺で、石船神社の別当であった。その後、一時期廃絶したが、文明7(1475)年3月に耕雲寺5世の徳嶽宗欽[とくがくそうきん]大和尚によって再興されるが、再び荒廃する。天正元(1573)年5月にいたり、村上領主・本庄繁長[ほんじょう-しげなが]侯が巖室文松[がんしつぶんしょう]大和尚を招いて開山とし、寺号を諸上寺と定めた。 開基は村上領主・堀直竒[ほり-なおより]侯で、寺領地も堀家の寄進によるものであった。躑躅[つつじ]の咲く庭園は見事なもので、虚空蔵[こくぞう]堂が立つ。裏山には三十三番の観世音菩薩が祭られている。現在の本堂は天保元(1830)年に再興されたもの。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

安泰寺通りと親不孝坂

市道名 安泰寺線は、始点を塩町と小町(こまち)境の坂から、塩町十字路を経て北線道路に至る市道をいう。寺町~小町~塩町というつながりの中で安泰寺に至る道のことが名前の由来であろう。安泰寺は臨済宗妙心寺派、享保5(1720)年、内藤侯とともに村上に来た。幕末の青年家老・鳥居三十郎が戊辰戦争の責任を取り、自裁した寺である。 塩町から小町に至る坂道を、かつて「親不孝坂」と呼んだ。明治時代以降、小町・寺町・大工町・細工町には、料理屋・芸者置屋・茶屋などが多くあったことからのゆえんだろうか。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

體真山 満福寺[たいしんざん-まんぷくじ]

創立は慶長元(1596)年、開山は耕雲寺14世 剛安寿金禅師[ごうあんじゅきんぜんじ]。宝永2(1705)年での山号は村上山とある。後に慈海山[じかいさん]と改め、さらに體真山[たいしんざん]と改めた。 山号を改めた理由は不明であるが、村上山の山号は地名によることは明らか。文書上の村上の初出は永正6(1509)年9月11日である。 文化2(1805)年に建て替えられた時の費用は、90両3分2朱と銭1035貫730文。全て銭にすると、1651貫862文であった。当時の大工日当は150文、米1俵が1貫650文の時代である。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

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