雪の日も絵になる小路です
「むらかみ 宵の竹灯籠まつり」の様子
安善寺~割烹 新多久の黒塀
案内板
現在の大場沢集落のすぐ南側に位置し、東側山地から西側平地へ突き出るような小高い丘陵を利用した山城で、戦国時代に活躍した鮎川氏の本城と伝えられています。東西700m・南北200mの大要害で、敵の侵入を阻止するために人工的に施した地形が今も残っています。
村上大祭で引き回される「おしゃぎり」と呼ばれる山車を常時4台(うち1台は展示用)展示していることから「おしゃぎり会館」と呼ばれています。2階展示場には、村上藩歴代城主の資料や刀剣・甲冑などの歴史資料の展示を行っています。毎年3月には「城下町村上に伝わるひな人形展」を開催しています。 ※7/5~8は村上大祭の屋台巡行および準備のため、おしゃぎりは展示されていません
村上で現存している武家住宅の中では、唯一玄関が妻側に位置する形態で、建築年代は幕末から明治にかけてと推定され、平成8(1996)年に復原後、一般公開されています。 【旧成田家住宅と『諸国廻遊日録』】 旧成田家住宅は、現在の村上市新町にある。ここは、江戸時代の内藤氏治政世下においては旧武家町に属し、村上城本丸に通じる下渡門[げどもん]の近くで、比較的中級武士の住宅が集中していたところである。 『諸国廻遊日録』とは、九州佐賀藩士・牟田高惇という侍が、武者修行で諸国を巡り歩いたときの日記のようなもので、その日記によると、嘉永7(1854)年7月頃に村上にも立ち寄り、七夕祭りなどのことが記載されている。このとき、牟田高惇が宿としたところが、当時は空き家であった「元岡本左太夫」の屋敷であったことが日記にあり、明治初年の城下絵図にも、旧成田家住宅の位置には岡本左太夫という名前があり、これが現在の位置に比定される。 しかし、明治の村上藩士の分限帳(名簿)には、この岡本左太夫という名前は見当たらないことと、牟田高惇が訪れた頃、すでに空き家であったことから、どのような武士が住んでいた住宅であったかは現在のところ不明である。 (村上市郷土資料館) 【旧成田家住宅と復原調査】 この住宅の構造形式は、直屋[すごや]・寄棟造・茅葺であり、典型的な村上の武家住宅の形式であるといえるが、玄関の位置については、現存しているほとんどの武家住宅が平入りの玄関であるのに対して、妻入りの玄関であることが大きな特徴であるといえる。 また、建物の改造痕跡や技法などの調査からも、これまでに若林家や嵩岡家、岩間家などとは異なる面がかなりあり、特に技法的には一段と進んだ方法が見られる。さらに、先の『諸国廻遊日録』には、元岡本左太夫の住宅間取りも記載されているが、この記述と復原調査からの間取りとも合致しない点がかなりある。 このようなことから、『諸国廻遊日録』にある屋敷を前身建物として、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、従来の武家住宅の建築方法や技法を踏襲しながら、新たに建て替えられた再生武家住宅であるという考え方もできる。いずれにしろ、この住宅が江戸時代から明治時代へと移り変わるときに建築されたことを考えるならば、村上の住宅の歴史や変遷を理解する上で貴重な歴史的建造物であることには間違いはない。 (村上市郷土資料館)
江戸時代から続く、国の登録有形文化財に指定された大正ロマンあふれる和菓子店。建物は明治26(1893)年建築、平成16(2004)年に町屋再生プロジェクト第1号として外観を大正時代風に改装しました。箱階段に組み込まれた金庫の重厚さが目を引きます。
まいづる公園は、皇太子殿下・雅子妃殿下の御成婚を記念した公園であり、南東方向に村上城跡(別名:舞鶴城)を臨み、公園内には雅子妃殿下ゆかりの旧嵩岡家住宅のほか、旧岩間家を移築復原することにより、市民の祝意を永く顕すとともに村上藩士の生活文化を展する重要な歴史文化施設としても意義深い公園です。
文化15(1818)年に建てられた本堂は、この地方では珍しい白壁土蔵造で、日本で一番大きなこともあり、平成3(1991)年に国の重要文化財に指定されています。 建築については、防火を考えて大壁の土蔵造りとし、屋根はこけら葺きにしました。丈六の阿弥陀如来像を安置するため、棟木の高さが35尺にもなり、それにふさわしく梁間9間・桁間11間、2階部分もそれぞれ6間・9間という大きさになりました。 本尊は丈六(5m)の阿弥陀如来の座像(木像)で、この地方には類のない大きさで見事なものです。なお、本堂は間部詮房の百回忌に合わせて江戸で設計され、村上の大工の手で建築されたものです。 また、芭蕉と曽良が参詣したことでも知られています。
承安3(1173)年、塩谷字古屋敷(現在の松和町)の地に創建。慶長2(1597)年に本庄出羽守[ほんじょうでわのかみ]家長とその父・重長の病気平癒、武運長久と繁栄を祈願し、社殿を再建したと伝えられています。享保16(1731)年には境内地の狭隘化[きょうあいか]により、現在地に奉遷されました。現社殿は明治11(1878)年に再建されたもので、昭和18(1943)年に拝殿および幣殿が改築されました。 主祭神は塩土老翁命[しおつちおじのみこと]、合殿は天照皇大神[あまてらすすめおおみかみ]、水波売命[みずはのめのみこと]を祭っています。 また、塩谷では「亀」を氏神の使いであるとして、とても大切にしています。亀をモチーフにしたおもちゃやお菓子などは、境内の池に納める習わしがあるといわれています。
中世小泉荘(岩船郡全域)南部に拠った色部氏の築城。平野を望む台地端に居所兼政庁の館を構え、館跡は空壕と土塁で守られた三つの郭からなります。壮大な構えで、中世後期の豪族割拠の典型です。
保呂羽堂は、国指定文化財「平林城跡」の所領であった色部氏15代・色部長真[いろべ-ながざね]が天正19(1591)年に出羽国仙北郡大森町の保呂羽山波宇志別神社から当地に分霊したことにより創立され、その後の安政5(1858)年に再建されたものと伝わる。 保呂羽堂の奥行きが深く、幣殿と拝殿を前後に明確に分ける平面形式は、越後特有の形式と知られている。 総欅造 [本殿]一間社流造、桟瓦葺、向拝一間 [拝殿]入母屋造 千鳥破風付、桟瓦葺、向拝一間 軒唐破風付 [幣殿]切妻造、桟瓦葺 指定:平成19(2007)年11月20日 【村上市教育委員会】
三の丸記念館は、明治40(1907)年に村上銀行本店として建築されたものです。村上銀行は、明治11(1878)年に国立銀行として誕生した「村上第71国立銀行」の業務を引き継いだことから、鬼瓦には図案化された「七十一」の文字が刻まれています。昭和57(1982)年まで現在の第四銀行村上支店の位置で店舗として活用されていましたが、銀行の改築に伴い、明治末期の貴重な建築物の保存のため、現在の位置に曳家により移転・保存されています。現在は、集会場や作品展の展示会場として活用されています。
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