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大須戸能[おおすど-のう]

山の恵み・生業エリア
歴史・文化

大須戸・八坂神社での定期能

大須戸・八坂神社での定期能

薪能

薪能

【新潟県無形文化財】大須戸集落に伝わる郷土芸能

▶概要
大須戸能は、伝えによれば弘化元(1844)年の冬、庄内黒川の能役者・蛸井甚助が大須戸に逗留した際、村人が指導を受けたとされ、嘉永5(1852)年の記録には「古来の能装束が欠損して役に立たなくなったので奉納を願う」と記されています。現在は、例年4月3日に大須戸・八坂神社能舞台で行われる定期能と、8月15日に行われる薪能で鑑賞することができます。

▶開催日
・定期能…例年4月3日
・薪能…例年8月15日
おすすめ! 味わいのある地方能です
住所 村上市大須戸
電話番号 0254-53-7511(村上市役所 生涯学習課 文化行政推進室) 0254-53-7511(村上市役所 生涯学習課 文化行政推進室)
URL https://www.city.murakami.lg.jp/site/kanko/oosunonou-teikinou.html
アクセス(車) 【大須戸・八坂神社まで】日本海東北自動車道「朝日まほろばIC」から国道7号を経由し、車で約12分
アクセス(電車・バス) 【大須戸・八坂神社まで】JR羽越本線「村上駅」から村上市コミュニティバスあべっ車『大須戸線』に乗車、バス停「大須戸」下車(バス停から徒歩で約5分)
駐車場(台数)
料金 観覧無料
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重要文化財 若林家住宅

二百数十年前に建設され、その後、復原された若林家住宅。若林氏は、村上藩で物頭[ものがしら]役150石で中級上位の家柄に属します。曲屋[まがりや]づくりの茅葺平屋建で、部屋割りも細かく、典型的な中級武家住宅の特色を伝えていることから重要文化財に指定されました。市の文化財に指定されている、庭園の四季折々の表情もご覧ください。 ▶若林家住宅とは 若林家住宅は、今から二百数十年前から明治期まで、村上藩士・若林家とその子孫の生活の舞台であった建物である。 若林家が内藤家に召し抱えられたのは延宝2(1674)年で、天和2(1682)年には内藤分家の家老職を務め200石を給されていた。その後、内藤本家に再任され、150石に減ぜられたが、内藤家中の中級上位の藩士として、大目付、長柄[ながえ]奉行、普請奉行、町奉行、三条奉行などの要職に就いている。 天明7(1787)年の『越後村上分限帳』では、筆頭家老から12番目「者頭(物頭)」の項に下記のような記述があることから、現在地の若林家住宅に生活するようになった頃には150石者頭役で、18人の足軽を指揮していたことが知られる。 一 百五拾石  若林七太夫 一 金三両弐分二人扶持  小頭 野崎文吉 一 金三拾七両三拾四人扶持 内弐両弐分取六人 足軽十七人 また、昭和6年編纂の『村上郷土史』所収の禄高順記載による「村上藩士一覧表」には、「給人百五十石 若林佐市郎」とあり、足軽まで含めた総藩士731人の家臣(内 石取藩士は約150人)の上から54番目(石取藩士の中級上位)に記されている。 旧村上藩「者頭」若林家住宅には、私的居住部分と者頭の役宅部分からなっていることが知られる。 (村上市郷土資料館)

常照山法善院 光徳寺

創立は正保元(1644)年、内藤家三代・信照侯が棚倉(福島県)で開基し、源蔵和尚が開山しました。山号の常照山は、源蔵が内藤家始祖の信成[のぶなり]侯とともに伊豆国(静岡県)韮山[にらやま]へ移った時に常照寺を建立したことによります。法善の院号は信成侯の諡[おくりな]、光徳は内藤家二代・信正侯の諡です。 三の丸にあるこの寺は、古くから代々の城主の菩提寺となりました。寺域は城内の一郭として、国重要史跡に指定されています。 本堂内部には、歴代内藤家当主の位牌とともに、血縁関係があった徳川将軍家の位牌13柱が安置されています。

九品仏 上品上生 善沢寺前

宝暦8(1758)年頃から宝暦10年頃にかけて、城下の安寧と藩主・内藤信成侯150回忌のため、城下の要所に建てられた石仏です。「九品」とは、極楽浄土の九つの階級のことで、九品仏は浄土におられる阿弥陀様の姿。上品上生から下品下生を示すのは「手の印の結び方」によります。2時間位で全部を見て回れます。

海巗山 諸上寺[かいがんざん-しょじょうじ]

寺伝によれば、大化年間(645~49)には感應寺[かんおうじ]という天台宗(真言宗とも)の寺で、石船神社の別当であった。その後、一時期廃絶したが、文明7(1475)年3月に耕雲寺5世の徳嶽宗欽[とくがくそうきん]大和尚によって再興されるが、再び荒廃する。天正元(1573)年5月にいたり、村上領主・本庄繁長[ほんじょう-しげなが]侯が巖室文松[がんしつぶんしょう]大和尚を招いて開山とし、寺号を諸上寺と定めた。 開基は村上領主・堀直竒[ほり-なおより]侯で、寺領地も堀家の寄進によるものであった。躑躅[つつじ]の咲く庭園は見事なもので、虚空蔵[こくぞう]堂が立つ。裏山には三十三番の観世音菩薩が祭られている。現在の本堂は天保元(1830)年に再興されたもの。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

筥堅八幡宮社叢[はこがたはちまんぐうしゃそう]

筥堅八幡宮は、延喜21(921)年に福岡筥崎宮の八霊を筥堅山に迎えて建設されました。社殿は、日本海の荒波を望む海抜約60mの北側と西側に絶壁のある岩山(筥堅山)の山頂に鎮座しています。筥堅山は、文字通り筥(箱)を積み重ねたように海岸に突き出た山容をしており、山全体が神を祭る巨大な磐境[いわさか]になっています。神の山として社叢内を保護したため、原始林相が保たれました。カヤ・アサダの大樹は県内一といわれています。

三面川の居繰網漁[みおもてがわのいぐりあみりょう]

【2024.12.01更新|2024年度の居繰網漁について】 2024年度「三面川の居繰網漁」は11/30をもって終了いたしました。 ----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- ▶例年の実施概要 居繰網漁[いぐりあみりょう]は、現在では村上市街地北側を流れる三面川[みおもてがわ]だけに残る、江戸時代から伝わる伝統漁法です。「小回し舟」という川舟で三面川の流れに乗り、網を操りながら八の字で川を下っていきます。川を上ってくる鮭が網にかかると、双方の漁師が呼吸を合わせて網を上げて鮭を捕ります。村上の秋から初冬にかけての風物詩です。 ▶実施期間 例年10月中旬~11月末

旧マルマス醬油蔵(旧野澤豊五郎醸造醬油蔵)

明治初期からしょうゆの醸造を手掛けていましたが、平成15(2003)年に廃業。百数十年の歴史に幕を降ろしました。 現在は、蔵の大空間を利用した多目的ステージやカフェスペースとして利用されており、イベント時などに開放しています。また、平成27(2015)年7月には、映画『殿、利息でござる!』の撮影が行われました。 平成28(2016)年8月1日、塩谷集落内の野澤食品工業店舗兼主屋・野澤三次郎住宅・瀬賀惣一郎商店兼主屋と倉庫とともに国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。

狭の渡正跡[せばのわたしせいせき]

旧貝附村国道筋に建てられた石碑。「越後なる せばの渡しの 朝嵐 昨日も吹いて 今日も吹くなり」という古歌が刻まれています。碑が建てられている付近は景色が良く、古歌に詠まれた景勝地として有名です。

地蔵様小路

久保多町(くぼたまち)の通りから北に入る小路で、久保多町の地蔵様に通ずる小路を称す。さらに、この小路を左に曲がると秋葉神社に至る。 江戸時代頃の城下絵図には、現在の道筋に加え、地蔵様から右にも小路が続き、片町の「はんにむ小路」に通じていた。元禄時代、榊原氏の頃の城下絵図では、この小路の北側(川寄り)には下級武士の組屋敷があったため、小路としては比較的長い道筋となっている。 市道路線名は「萱場(かやば)線」で、萱場があった。地蔵様は萱場地蔵と呼ばれる。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

藤基神社[ふじもと-じんじゃ]

藤基神社社殿は総欅造りで、日光東照宮と同じ権現造り。嘉永2(1849)年に当時の工匠がその技を結集し、8年の歳月を費やして造り上げたものです。村上が生んだ工匠・有磯周斎[ありいそ-しゅうさい]による、かご彫りと呼ばれる彫刻の傑作を各所に残しています。 ご祭神は、徳川家康侯の異母弟に当たり、徳川家十七士の一人でもある村上藩の藩祖・内藤信成[のぶなり]侯、十代目の信敦[のぶあつ]侯、十一代目の信思[のぶもと]侯を祭っています。 八幡大神[やわたのおおかみ]、誉田大神[ほんだのおおかみ]、火帯姫大神[ほたらしひめのおおかみ]、稲荷大神[いなりのおおかみ]、倉稲魂神[うかのみたまのかみ]、秋葉大神[あきばのおおかみ]、火産霊神[ほむすひのかみ]、学問の神である菅原道真公を祭っています。

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