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大葉澤城跡

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戦国武将の夢の跡

現在の大場沢集落のすぐ南側に位置し、東側山地から西側平地へ突き出るような小高い丘陵を利用した山城で、戦国時代に活躍した鮎川氏の本城と伝えられています。東西700m・南北200mの大要害で、敵の侵入を阻止するために人工的に施した地形が今も残っています。
おすすめ! 敵の侵入を阻止するため、人工的に施した地形の一つである畝形阻塞
住所 村上市大場沢
電話番号 090-7824-9114(大葉澤城保存会)  090-7824-9114(大葉澤城保存会) 
アクセス(車) 日本海東北自動車道「朝日まほろばIC」から車で約12分
日本海東北自動車道「朝日三面IC」から車で約4分
アクセス(電車・バス) JR羽越本線「村上駅」から村上市コミュニティバスあべっ車『縄文の里朝日線』に乗車、バス停「大場沢」下車(バス停から徒歩で約6分)
駐車場(台数) 約10台(大場沢公会堂前・無料)
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関連スポット

飯野門通り

城下絵図には飯野門が描かれているが、長井町・上町(かんまち)境から飯野門に至る路を飯野門通りといった。 江戸時代を通じて、羽黒神社祭礼の屋台や神輿は、朝から飯野門前に集合し、この門から城内を巡って、片町の庚申堂桝形(ますがた)から町人町(ちょうにんまち)に出て巡行を続けた。 沿道の藤基(ふじもと)神社入り口の石積の階段は、市道 飯野門線の道路拡幅の際、いったん撤去されたが、伝説の石工集団「穴太(あのう)衆」によって積み直され、復旧したものである。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

御蔵屋敷通り

「御蔵」とは、藩の米蔵のことである。この場所には藩の米蔵があったので、米蔵が撤去された以降も御蔵屋敷通りといわれた。 この蔵屋敷の上と下には、吉田門と小石垣門があり、両脇は堀であった。現在、堀は埋められ、土居は崩されて、当時の姿を見ることはできない。しかし、この狭い路を通ると、重要文化財 若林家住宅の裏の生け垣などがあり、武家町の小路としての雰囲気を漂わせている。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

多伎神社(多岐神社)

この神社には、義経が奥州へ逃れる途中、御供の弁慶が社の前の岩の上に立ち、日本海を眺めて「さても麗わしき景色かな」と嘆賞したという伝説があります。

飯野山 龍皐院[いいのさん-りゅうこういん]

創立は文安3(1446)年(室町時代中期・室町幕府八代将軍 足利義政の時代)。後に、耕雲寺5世に晋住される徳嶽宗欽[とくがくそうきん]大和尚が草庵を結び、九皐庵と称して山居されたことがはじまりである。 開山没後、新発田の宝積寺[ほうしゃくじ]より、法孫の瑚珊文愛[こさんぶんあい]和尚が来て、山号を飯野山と定め、寺号を龍皐院と改めて中興し、今日に至っている。 現在の本堂・庫裏は平成2(1990)年に、山門は平成9(1997)年に改築されたものである。 山門前には、享保2(1717)年造立の地蔵菩薩立像がある。その近くには、三ツノ山(江戸時代の力士)の墓碑がある。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

重要文化財 若林家住宅

二百数十年前に建設され、その後、復原された若林家住宅。若林氏は、村上藩で物頭[ものがしら]役150石で中級上位の家柄に属します。曲屋[まがりや]づくりの茅葺平屋建で、部屋割りも細かく、典型的な中級武家住宅の特色を伝えていることから重要文化財に指定されました。市の文化財に指定されている、庭園の四季折々の表情もご覧ください。 【若林家住宅とは】 若林家住宅は、今から二百数十年前から明治期まで、村上藩士・若林家とその子孫の生活の舞台であった建物である。 若林家が内藤家に召し抱えられたのは延宝2(1674)年で、天和2(1682)年には内藤分家の家老職を務め200石を給されていた。その後、内藤本家に再任され、150石に減ぜられたが、内藤家中の中級上位の藩士として、大目付、長柄[ながえ]奉行、普請奉行、町奉行、三条奉行などの要職に就いている。 天明7(1787)年の『越後村上分限帳』では、筆頭家老から12番目「者頭(物頭)」の項に下記のような記述があることから、現在地の若林家住宅に生活するようになった頃には150石者頭役で、18人の足軽を指揮していたことが知られる。 一 百五拾石  若林七太夫 一 金三両弐分二人扶持  小頭 野崎文吉 一 金三拾七両三拾四人扶持 内弐両弐分取六人 足軽十七人 また、昭和6年編纂の『村上郷土史』所収の禄高順記載による「村上藩士一覧表」には、「給人百五十石 若林佐市郎」とあり、足軽まで含めた総藩士731人の家臣(内 石取藩士は約150人)の上から54番目(石取藩士の中級上位)に記されている。 旧村上藩「者頭」若林家住宅には、私的居住部分と者頭の役宅部分からなっていることが知られる。 (村上市郷土資料館)

一ツ橋陣屋跡の碑

幕末期の40年間、徳川御三卿の一つであった一橋家の陣屋跡。明治以降は跡地に旧金屋村役場が建てられました。現在では碑が置かれ、見事な枝ぶりの老松が当時の面影をしのばせます。

はんにむ小路

現在の北線道路北側、久保多町(くぼたまち)から片町に入る辺りから山辺里川(さべりがわ)(門前川)の堤防に通ずる小路は市道半右ェ門線であるが、小路の入り口に半右ェ門という人の家があったことから、「半右ェ門」が「はんにむ」となり、通称になったと伝えられる。 この山辺里川の河原には、罪人の打ち首を行う首切場があった。現在、この場所には供養塔が建てられている。脇にある地蔵様は「首切り地蔵」とも呼ばれる。刑を言い渡された罪人は、庄内町にあった牢屋から、市中引き回しの上、ここで刑が執行された。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

大須戸能[おおすど-のう]

大須戸能は、伝えによれば弘化元(1844)年の冬、庄内黒川の能役者・蛸井甚助が大須戸に逗留した際、村人が指導を受けたとされ、嘉永5(1852)年の記録には「古来の能装束が欠損して役に立たなくなったので奉納を願う」と記されています。現在は、例年4月に大須戸・八坂神社能舞台で行われる定期能と、8月に行われる薪能で鑑賞することができます。

小俣宿

かつて日本の主要道であった出羽街道の宿場町として、出羽三山への参拝者など多くの人々が訪れました。明治維新では戊辰戦争の戦場となり、集落のほとんどが焼き払われましたが、その跡に再建された家々が現在も残っており、この貴重な小俣集落のまち並みをつくっています。心のふるさとを感じさせてくれる趣があります。

縄文の里・朝日

奥三面ダム建設によって水没した、山間奥地・三面集落で使われていた民俗資料や考古資料(旧石器時代~縄文時代)を展示。まが玉・石器・土器づくりや火おこしの体験ができます。併設の食堂「食事処 やまびこ」(例年4月下旬~11月中旬オープン)では、地元農産物を使った料理と手打ちそばが人気です。

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