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観音寺

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仏海上人の御影

仏海上人入定の木棺

日本最後といわれる仏海上人の即身仏を奉安

真言宗のお寺で、開基は権大僧都宗快上人であると伝えられています。わが国最後といわれる仏海上人の即身仏(明治36年入寂)の御姿が奉安されています。

【仏海上人】
文政11(1828)年5月9日、村上市安良町の近藤家の長男として生まれ、18歳で湯殿山 注連寺に入門し、本明寺でも修行。その間、15年にわたって仙人沢で荒行を重ね、伊豆・天城山や酒田の海向寺でも修行を行いました。35歳の時、五穀絶ちの木食行をはじめ、慶応3(1867)年に37歳で本明寺の住職となり、明治7(1874)年に村上の観音寺に戻ります。明治21(1888)年5月、注連寺が全焼したため、注連寺の住職となって寺を復興。再び故郷へ戻り、明治36(1903)年に76歳で入定しました。41年にわたる苦行を成し得た、日本最後の即身仏です。
住所 村上市肴町15-28
電話番号 0254-52-4707 0254-52-4707
URL https://bukkaisamanokannonji.com/
営業時間 拝観時間8:00~17:00(冬季8:00~16:30)
アクセス(車) 日本海東北自動車道「村上瀬波温泉IC」から車で約6分
アクセス(電車・バス) JR羽越本線「村上駅」から徒歩で約8分
駐車場(台数) 有
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関連スポット

平林不動滝

国指定史跡の平林城跡のある神林地区・要害山中にある。要害山には至るところに清水が湧出しており、それらが流れ込み不動滝を形成している。滝つぼの奥には岩を削って造られた祠があり、数百年前から大日如来と不動明王の石像が童子石像とともに安置されている。 「新潟県の名水 関川村・村上市 県北名水巡りマップ」(新潟県)より抜粋 【備考】 ●不動滝登山道 駐車場(古刀比羅[金比羅]神社前)から不動滝までは徒歩で約50分です。 ●滝へと至る山道(不動滝登山道)は、ぬかるんでいたり、急な上り下りもあるので、履きなれた靴(登山靴がオススメ)でお越しください。 ●クマやヘビ、ハチといった危険動物・昆虫に十分ご注意ください。 【不動滝と目薬の由来について】 永禄の昔、色部氏第13代勝長が、上杉謙信の命により川中島合戦の出陣に際し、領内の安泰と戦勝を祈願するため、不動滝に祠を築造し、そこへ大日如来と不動明王の石像を安置されたものと推測されている。 また、天正時代、信州松本の名家・小笠原貞慶一族が、色部氏を頼って家臣となり、小笠原家伝来の軍法・兵法・馬術、さらに目薬の製法に至るまで色部氏に伝授した。 これにより、色部氏は領民のため、不動滝の真水(まみず)を用い、目薬の開発に努めたという。以来、不動滝の水滴が眼病に効能ありとして、無病息災・家内安全等のご利益を求めて、また村人たちの心の拠り所として、多くの参拝者が訪れたと伝えられている。 【お不動様の起源およびご利益】 一、家運隆盛 一、心願成就 一、徐災招福 一、身体健護 当不動堂の創建は不明であるが、江戸時代後期1813年、権三郎が再建したという文献上の記録がある。以来、村人たちは唯一信仰の場として崇拝してきた。しかし、昭和42年の羽越水害により不動堂および林道山沿い線(参道)は壊滅的被害を受けた。昔から幾多の破壊と補修の試練を乗り越え、この度ようやく参道の改修工事が完了し、不動堂の新築再建に併せ新刻された不動明王立像を奉迎安置したところである。 一方、平安時代初期806年、弘法大師空海が中国より帰朝し、日本に真言宗を開宗した。その後、大日如来を真言密教の根本尊と定めた不動明王は、大日如来の化身であり共に表裏一体の仏様であるといわれている。 なお、不動立像は怒りの相を表現し、背には激しく燃える炎を抱え、不動不変の盤石に立ち、右手には煩悩を断ち切る降魔の利剣、左手には煩悩から抜け出せない人々を救済するための縄を持つ。これは人間が持つ煩悩五欲、つまり心身を悩ます一切の欲望・悪業を追い払い、家運を転換隆盛し招福を招来する。また、あらゆる困難を克服し、勝負に勝って心願を成就する。同時に、仏の救済を必要とするすべての生命に対して慈愛の心で子孫の繁栄を守る。 これが大日如来、不動明王が説く真言密教の教理であり、ご利益の由来であると伝えられている。

重要文化財 若林家住宅

二百数十年前に建設され、その後、復原された若林家住宅。若林氏は、村上藩で物頭[ものがしら]役150石で中級上位の家柄に属します。曲屋[まがりや]づくりの茅葺平屋建で、部屋割りも細かく、典型的な中級武家住宅の特色を伝えていることから重要文化財に指定されました。市の文化財に指定されている、庭園の四季折々の表情もご覧ください。 【若林家住宅とは】 若林家住宅は、今から二百数十年前から明治期まで、村上藩士・若林家とその子孫の生活の舞台であった建物である。 若林家が内藤家に召し抱えられたのは延宝2(1674)年で、天和2(1682)年には内藤分家の家老職を務め200石を給されていた。その後、内藤本家に再任され、150石に減ぜられたが、内藤家中の中級上位の藩士として、大目付、長柄[ながえ]奉行、普請奉行、町奉行、三条奉行などの要職に就いている。 天明7(1787)年の『越後村上分限帳』では、筆頭家老から12番目「者頭(物頭)」の項に下記のような記述があることから、現在地の若林家住宅に生活するようになった頃には150石者頭役で、18人の足軽を指揮していたことが知られる。 一 百五拾石  若林七太夫 一 金三両弐分二人扶持  小頭 野崎文吉 一 金三拾七両三拾四人扶持 内弐両弐分取六人 足軽十七人 また、昭和6年編纂の『村上郷土史』所収の禄高順記載による「村上藩士一覧表」には、「給人百五十石 若林佐市郎」とあり、足軽まで含めた総藩士731人の家臣(内 石取藩士は約150人)の上から54番目(石取藩士の中級上位)に記されている。 旧村上藩「者頭」若林家住宅には、私的居住部分と者頭の役宅部分からなっていることが知られる。 (村上市郷土資料館)

大葉澤城跡

現在の大場沢集落のすぐ南側に位置し、東側山地から西側平地へ突き出るような小高い丘陵を利用した山城で、戦国時代に活躍した鮎川氏の本城と伝えられています。東西700m・南北200mの大要害で、敵の侵入を阻止するために人工的に施した地形が今も残っています。

小俣白山神社の大杉(姥杉)

樹齢千二百年と推定される大杉で、樹種は熊杉系。根廻り13.4m・樹高39mの大きさで、県内でもまれにみる老杉です。白山姫命を祭るこの神社は、昔は小俣集落の佐藤一族の氏社でしたが、今は全集落民の氏社となっています。白山神社では、生まれた子どもが初めて氏神様と対面する時、この大杉の下で泣かせて、子の行く末を祈る風習が残っています。

三の丸記念館

三の丸記念館は、明治40(1907)年に村上銀行本店として建築されたものです。村上銀行は、明治11(1878)年に国立銀行として誕生した「村上第71国立銀行」の業務を引き継いだことから、鬼瓦には図案化された「七十一」の文字が刻まれています。昭和57(1982)年まで現在の第四銀行村上支店の位置で店舗として活用されていましたが、銀行の改築に伴い、明治末期の貴重な建築物の保存のため、現在の位置に曳家により移転・保存されています。現在は、集会場や作品展の展示会場として活用されています。

稲荷山(番所山)

江戸時代、塩谷は村上城下と北国街道を結ぶ重要拠点であり、村上藩はこの山に番所を置いて、人や物の出入りを監視していました。そのため、番所山[ばんしょやま]と呼ばれていましたが、明治になり、廃藩とともに番所も廃されました。その後、お稲荷さんが祭られていることから「稲荷山」と呼ばれるようになりました。 山頂には三等三角点があり、国土地理院の2万5千分の1電子地形図にも「稲荷山」として掲載されており、新潟県で一番低い(標高15.3メートル)山です。37段の階段を上った山頂の展望台からは、塩谷のまち並みや日本海に浮かぶ粟島や佐渡、南西には弥彦山、角田山が海に浮かぶ島のように見えます。

村上城跡(お城山)

村上城は、標高135mの独立峰・臥牛山[がぎゅうさん]に築かれた城で、築城年代は不明ですが、16世紀前期には城が存在していたものと考えられます。戦国時代には本庄氏の本拠地として、永禄11(1568)年の上杉謙信との篭城戦など、幾度も戦いが繰り広げられました。江戸時代に入ると、村上氏・堀氏・松平氏らの城主によって城の改造と城下町の建設が行われ、村上城は北越後の中心拠点として整備されました。 山頂までの道は整備され、約20分ほどで登ることができます。村上のシンボルとして近隣住民はもちろん、観光客もたくさん訪れる名所です。 ≫ご注意ください ・ゴミ箱は設置されていません。出たゴミは必ずお持ち帰りください ・山頂(天守跡)に自動販売機やトイレはありません。自動販売機は登城口に、トイレはお城山児童公園をご利用ください ・音の出るもの(熊鈴・ラジオ等)を携行し、複数人で行動するなど、クマとの遭遇を避ける対策を行ってください

村上市指定文化財 旧嵩岡家住宅

直屋・寄棟造りの住宅で、平成8(1996)年に現在地に移築復原されました。この建物は、玄関を入るとすぐに茶の間があり、隣に主人の接客と居室を兼ねた座敷を備え、接客と居住空間の明確な区別がありません。また、上屋の梁間が二間半ということから、隣の旧岩間家住宅と比較すると茅葺き屋根が大きく見えるのが特徴です。 【旧嵩岡家住宅の解体格納と復原の経緯】 旧嵩岡家住宅の屋敷は現在の村上市新町にありましたが、昭和62(1987)年に宅地造成のために解体されることになりました。その解体に際にして、村上市に現存する数少ない武家屋敷の一つであること、比較的保存状態が良かったことなどから、解体されることを前提としながらも、村上市教育委員会はこの旧嵩岡家住宅を市の有形文化財としての指定を行いました。 これによって建築部材の格納保存を目的とした解体調査工事と復原調査が行われ、主要な小屋組部材、軸部材及び天井部材などの内部造作材の保存格納が行われました。 平成5(1993)年、皇太子殿下と小和田雅子様の御成婚を記念しての記念公園整備事業が平成6(1994)年より計画着手されましたが、嵩岡家が小和田家と縁戚関係にあることから、この記念公園整備事業の目玉として旧嵩岡家住宅の復原が行われることとなりました。そして、この御成婚を記念した公園内には、この旧嵩岡家住宅のほか、旧岩間家住宅、さらには旧藤井家住宅の3棟の武家屋敷が復原されることとなりました。 (村上市郷土資料館) 【嵩岡家と旧嵩岡家住宅】 旧嵩岡家住宅が村上市新町にあったことはすでに述べましたが、この新町地内は、江戸時代には主に中下級武士が集住していた地区です。 嵩岡家については、天明7(1787)年の分限帳によると江戸藩邸詰めの武士の中に「平侍百石嵩岡泰蔵」とあります。また、明治初年の村上士族名寄帳によると「給人百石嵩岡小太郎」とあります。そして、明治初年に書き改められた城下絵図には、ちょうどこの場所に「嵩岡五郎左衛門」と記載されています。これらのことから嵩岡家は代々百石を給されていたと考えられ、村上藩では中級に位置する武士でした。 武家屋敷の基本的な性格として、次のことが挙げられます。 ①官舎的性格を有していること ②厳しい建築規制があること ③閉鎖的な屋敷構えであること また、拝領する屋敷の位置や建物の大きさや構造などの基準となるのは、その武士の禄高や身分格式でした。このようなことから復元された旧嵩岡家住宅の構造や間取りなどについては、この復原住宅がそのまま村上藩における百石クラスの武士住宅と即断することはできません。 それまで住んでいた屋敷が火災にあった際、藩は新しい家を調達するだけの余裕がなかったので番所を住宅に充てたという事例があります。この嵩岡家についても、例えば江戸から帰藩した際に、急遽屋敷を賜ったというような特殊な事情があったのではないかと考えられますが、残念ながらその特殊事情を裏付けるようなものは発見されていません。 (村上市郷土資料館)

體真山 満福寺[たいしんざん-まんぷくじ]

創立は慶長元(1596)年、開山は耕雲寺14世 剛安寿金禅師[ごうあんじゅきんぜんじ]。宝永2(1705)年での山号は村上山とある。後に慈海山[じかいさん]と改め、さらに體真山[たいしんざん]と改めた。 山号を改めた理由は不明であるが、村上山の山号は地名によることは明らか。文書上の村上の初出は永正6(1509)年9月11日である。 文化2(1805)年に建て替えられた時の費用は、90両3分2朱と銭1035貫730文。全て銭にすると、1651貫862文であった。当時の大工日当は150文、米1俵が1貫650文の時代である。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

万年山 長楽寺

創立は天文9(1540)年、開基は本庄越前守繁長(ほんじょう えちぜんのかみ しげなが)、開山は 耕雲寺11世 三心宗尹(さんしんそうい)禅師。 はじめは里本庄にあり、本庄氏に従うかたちで村上に移った。本庄氏が村上を去るのは天正18(1590)年末、福島城主になるのが慶長5(1600)年。その時、同寺は福島へも建立された。福島長楽寺の開山は、宗尹の師の大沖元甫(だいちゅうげんぽ)である。 江戸時代中期には、城主・榊原氏や本多氏などの家中寺として遇されたか、両家の重臣らが菩提寺にしている。参道入口には九品仏の上品下生仏、境内には三十三番観音を祭る。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

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