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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2025/05/15

052 次太郎騒動(6)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

時は25日の五ツ刻(午前8時)前、荒島の庄屋杉左衛門の屋敷へ向かった暴徒は、有無を言わさず打壊しにかかった。襲った村々で出す酒の酔いも手伝って、狂気の集団と化した彼らに恐れるものはなかった。礫[つぶて]は飛び、屋根に穴が空き、掛け矢に叩かれて雨戸が微塵になる。農具が破壊され、籾俵がずたずたに切り裂かれ籾が散乱する。

 

暴虐に暴虐が酔ったか、眼に血管の網を張り、修羅の血に顔を朱に染めた彼らは、あらゆる暴行を加えて杉左衛門屋敷を去った。そして向かった先は「羽ヶ榎[はがえ]だあっ、羽ヶ榎の伴之丞をやれっ」。盟主・次太郎の下知を待つまでもない、怒涛のようになって駈け出す。

 

一方、暴徒の襲撃を察知した伴之丞は、屋敷の前庭に筵[むしろ]を敷き、その上に酒飯を置き、自分は裃袴を着て待っていた。そうした処置に流石の暴徒も暴力に訴えず、談判に応ずる気配を示す。さればと伴之丞の倅[せがれ]助之丞は、きわめて穏便に「一体、何が望みなんだ。その要求、望みを叶えてやるから言え」そう言うと、次太郎ら5~6人の重立ちは、「話が分かればよし。おれらが求めているのは今日の暮らし、昨日の生活の糧なんだ。どうだ米三千五百俵の放出と入付米3カ年休み。これを保証するなら手を引くが、だめだば目に物を見せてやる」。そう言っている背後で「四の五の言っていねで、さっさと片付けろ」「なにぐずぐずしているんだ、重立衆よ」。助之丞という人物は、よほど腹の坐った人物であったか、それらの大衆には一瞥[いちべつ]も与えず、「よし分かった。汝らの要求どおりにする」。その一言で暴徒は、勝閧[かちどき]に似たような声を上げながら、用意された飯と酒に食い付く。そのさまは、さながら餓鬼か畜生が取り付いたような浅ましさであった。

 

そして腹を満たすと、次の目標地の佐々木村へ走る。羽ヶ榎と佐々木はわずか二、三町しか離れていない。折悪しく、庄屋・峯右衛門は病気で、その代理として組頭の清治が対応に出たところ、無分別のうえ興奮に興奮を重ねたか、暴徒らは「問答無用だあっ、やっちまえ。清治に騙されるな」と手に手に礫を持ち、峯右衛門の家屋敷めがけ投げ込む。まさか襲われるとは思わなかった峯右衛門とその家人は、腰が抜けるほど魂消[たまげ]て膝を震わしながら逃げ出した。

 

暴徒の破壊行為は、制して制しきれるものではないし、また誰一人として理性のある者はいない。そのうち戸障子はもちろん、天井板は剥がされるし柱は切られる。果ては神棚や仏壇までをもぶっ壊し糞壷へ投げ込むし、井戸へは臼までもが落とされた。放火こそされなかったが、まさに落花狼藉[らっかろうぜき]これに過ぎるものはないほどで、濛々[もうもう]たる粉塵が納まったのはその日の正午であった。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年4月号掲載)村上市史異聞 より

 

2025/04/15

051 次太郎騒動(5)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

柳沢黒川陣屋を襲った次太郎ら一揆集団の人数は止まることを知らず、増え続けるのみであった。そこで次太郎ら重立ちの者は「おい、一体何人になったのだや。また呼びかけて参加しない村はどこどこだや。各村ごとに報告させたらばどんだ」ということになり、八方へ伝言が飛ぶと、やがて各方面から「おらが村は50名」「おらがところは30名」と順次報告がきた。それを集計すると、およそ千名となった。しかし、荒嶋村などは一人の参加者もいず、まことに不審な所業である。おそらく、庄屋杉左衛門の制止ゆえかと推量するところである。

 

「よし、ならば押し寄せて杉左衛門が家屋敷を微塵に砕くべし」

 

黒川町から急きょ、荒嶋村の杉左衛門宅に向って疾走しだした。こうした一揆集団の行動は、黒川陣屋からはもちろん、変相して潜り込んでいた水原代官所の目明重助からも、領地の関係する藩へ遂一状況を報告していた。幕府領を束ねる水原代官所はもとより、飛地領のある会津藩、そして領地はもとより密接につながる村上藩へである。また、出雲崎代官所は重助の上司・杉山吉六と富沢寛蔵が出張していたから報告が最も早かったかもしれない。

 

いずれにしても千人規模の集団となれば、それ以上に膨れ上がるやもしれない。そのような大規模な暴動は、かつてこの地方にはなかった。関係各藩は、刀槍はもちろん弓鉄砲を所持し、幟旗を押し立て、完全な戦[いくさ]仕立で出陣することを申し合せた。村上藩は、延享3(1746)年7月に米不足が原因で塩谷騒動が勃発し、藩はその対策を怠ったため家老が無能とされ幕府から強く叱責されたことがあったので、慎重にして重厚な陣容で臨んだ。すなわち、隊長に者頭[ものかしら]岩付五郎太夫、副長に町奉行・川上重治郎を任じ、60人ほどの鉄砲足軽を従えさせた。

 

出陣に際し、岩付と川上は「いかにご政道を乱す不逞の輩、暴走の徒といえど、もとをただせば大半は良民。死に至らしめることがあってはなるまい」「左様、したがって鉄砲には紙弾を用い音で脅すのみ。ただ実弾2挺は、当方の身に危険が迫った時のみに使用することとしたならばいかが」「しからば張陣の場所はいずこに」「さて、海老江[えびえ]か桃崎も彼奴らの目標であろうから、龍福寺山はいかに」。龍福寺は桃崎浜にある真言宗の寺院で、その周辺に陣幕を張り巡らし、村上藩の陣場として迫りくる一揆勢を撃退、壊滅に追い込むという態勢をとろうというものである。

 

かたや会津藩も、水原代官所からの報告が頻頻[ひんぴん]と届けれると、藩の首脳もその規模の大きさに耳を疑う。そして、立てた陣容が足軽頭の福王寺忠吉を大将にして、日向衛士らを軍目付に。ほか数十人の騎馬侍、鉄砲20挺、総勢60数人が陣笠・陣羽織を着し、旗指物を押し立て、堂々の陣形で国元を進発した。そのような各藩の臨戦態勢を知ってか知らずか、酒飯で空腹を満して獣じみた形相となった一揆集団は、闇を突いて走りに走る。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年3月号掲載)村上市史異聞 より

 

2025/03/15

050 次太郎騒動(4)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

横道村の治助宅を襲い、米の放出を強制させた次太郎らの一揆集団が次の目標としたのは東牧[とうぼく]村であった。一体、同村の規模は家数4軒ほどでしかなかったので、黒川町百姓の請地となっていた村である。

 

時刻はすでに八ツ刻(午前2時)、延延と松明の光の波を連ね、東牧村へ向かった。ところが、誰かが先回りしてことのなりゆきを報せたためか、黒川の町役人が羽織袴を着して対応に出てきた。それも酒と飯を数人に持たせ、村端へ出迎えたものだ。そして小腰をかがめて揉み手をしながら訥弁[とつべん]で、「いかにもお前さまがたの要求は承知いだしやした。まんず、酒でも飯でも食ってくてあんし。米の放出は四百俵だばなじだねし」そう言うと、次太郎だろう「駄目だ、四百俵では。六百俵だ、六百俵出せ」否も応もない、町役人は六百俵の放出を約束させられてしまった。時に八ツ刻半であるから、先ほどから一時間しかたっていない。騎虎の勢いというか、盲蛇に怖じずの猪突というか、当たるをさいわいに次は黒川町に突進してゆく。

 

このころ、黒川領は42カ村。石高一万石を有し、領主は柳沢氏である。領内の取り締まりは、黒川町に陣屋を設けてあたっていた。立藩は享保9(1724)年、5代将軍・綱吉の側用人で権勢を振るった柳沢吉保[よしやす]の4男・経隆[つねたか]で、家臣団は約90名。しかも、領主は江戸定府だったから黒川陣屋には何程の役人もいない。

 

「ご注進ご注進、一揆勢当方に向かって侵攻中」の報せに泡を食った重役らは、足軽や小者までかき集め、「総員、臨戦態勢を敷け」と命じ、武装を整え、高張提灯をおっ立て町の入り口に陣取った。その数50名程だったとはいうが、果たしてどれほどの人数がいたか。一揆勢はしだいに増え、長蛇の列となっている。やがて、その長蛇の頭や首が、待ち構える黒川藩兵に近付くやいなや、いきなり高張提灯目掛けて棒を振るった。めらっと提灯が燃える。どよめきの声があがる。藩兵に動揺が走り、「この陣容では敵わない。陣屋へ退いて待ち構えるがよい」。

 

もとより足軽を主にした弱兵力だし、かたや数えきれない人数だ。怖じ気づくと脱兎のようになって逃げだした。替わって数名の町役人が酒飯を運びこむと、やがて陣屋からも「暴徒を宥めるには、まず飲ませて食わせるがよい。奴らには餓鬼が憑[つ]いているのだから」と言って酒と飯を届ける。そのうえ町役人ともども「願いの筋とは何だ。何なりと聞き届けてつかわす。乱暴狼藉は止せ」と穏便に諭すように言うと、次太郎はじめ衆は口々に「千五百俵を安値で払うこと。入付田米[いりつけたまい]*3カ年間休みだぁ。この要求を呑まねば、目にものを見せるがええがぁ」
*共有村に納付する米銭

唯唯諾諾と暴徒の言いなりになった藩役人は、屈辱に唇をわななかせているしかなかった。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年2月号掲載)村上市史異聞 より

 

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