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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2025/01/15

048 次太郎騒動(2)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

やがて空気を揺すり、地を震わす法螺貝[ほらがい]の音が響き渡ると、人数はさらに増す。その中に密かに忍んでいた一人の男がいた。むろん身なりは百姓と変りがなかったが、水原代官所の目明重助であった。

 

重助の上司・杉山吉六と富沢寛蔵は、中越方面の騒擾*[そうじょう]により下越も誘発される危険があるやもしれぬと、その警戒のために水原へ出張してきたところである。そこへ落文の一件が注進され、重助に潜入を命じたというわけだ。
*騒いで秩序を乱すこと

 

むろん正体がバレると半殺しの目に遭うが、興奮の極みに達している民衆は重助の潜入には全く気が付かない。かれもまた腰には鉈[なた]を下げ、手には鍬[くわ]を持って、腐れ手拭いで頬かぶりをし、臑[すね]の出る野良着に草鞋[わらじ]を履いて、巧みに変相[へんそう]はしている。

 

辺りを照らす松明はどれほどの数か。ぼうぼうと鳴る法螺貝の音がぴたっと止むと、一人の男が高台に上がり、衆を前に煽動の演説を始めた。一揆の首謀者らしいが多くの者はその男を知らず、「飯出野の人だすけとは、この男か」「たぶんの、でもどこの誰だや」などと囁いている。

 

そのうち、どこからか、「野口村の次太郎だとやれ」。

 

その次太郎、松明に照らし出された容貌は怪異にして不敵で、「人の上に天なく、法はあってなきがごとし。地は荒れて震え、人は嘆き悲しむ。大衆を塗炭[とたん]の苦しみ*に追いやり、一人米金を溜めてぜいたく三昧するは誰だ。その者らの不法を糺す正義はどこにある。俺らは今ここに天に替ってその者らに誅罰を加えようとして決起した。彼奴らの米蔵を開かせ、困窮者を救おうではないか」。
*泥にまみれ、炭で焼かれるような苦しみ

 

そう叫ぶと、大衆は手に手に斧や鍬で天を突き、「うおう、そうだやれっ、どこだ手始めは」「よーし、その意気高しとする。まずは十二天村[じゅうにてんむら]の三左衛門だ」そう怒鳴るように言うと、再び三たび大衆は「おうーおうーおう」と鯨波[とき]の声を上げるや、どっと十二天村を目指して一目散に駈け出した。時は5月24日九ツ刻*、人家の垣の径を走り、小川や田畑を踏み越え、くねくねした山裾の小径を松明の列がちらちらと続きわたる。
*夜の12時頃

 

襲撃を察知した三左衛門は、家族を避難させ、自分一人が屋敷に残っていた。やがて一揆勢は屋敷の周囲をぐるりと囲んだ。そのうち怒号[どごう]と喚声[かんせい]が上がり、松明の灯りが燃え盛り、四方から礫[つぶて]が飛んできた。まさに狂乱の礫で、雨戸は破れ、屋根が突き抜ける。

 

顔色を蒼白にした三左衛門は、転[まろ]ぶようにして外へ出ると、腰を曲げて両手を突き出し、「なにとぞご勘弁を。米でも何でも酒もある限り。どうかお静まりを、どうかお平らに」と哀願するけれど、激高した一揆勢に聞く耳はない。「やっちまえ、積年の恨みだあっ」。

 

その乱暴狼藉たるやものすごいもので、建具はぶっ壊す、米6俵・大豆4俵・衣類12品を庭先に持ち出して火をかけて燃し、なおも気勢を上げる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年11月号掲載)村上市史異聞 より

2024/12/15

047 次太郎騒動(1)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

(次太郎騒動とは)「菅田騒動」または「野口騒動」と呼ばれた百姓一揆である。範囲は北蒲原[きたかんばら]郡の一部と岩船[いわふね]郡の一部で、きわめて大きな一揆であった。発生した文化11(1814)年は前年から天候不順であった。11年4月からも日照りが続き、5月以後になると雨ばかりが続く。そして、夏に至っても暑くならず、袷[あわせ]を着なければならない。これで稲の作柄が良いわけはない。村によっては作徳米(小作が地主に納める米)を五分引きとか、三分引きにしていた。こうした現象はなにもこの一地域だけではなく、中越から下越にかけてであった。そのため下田[しただ]・加茂・栃尾・加治[かじ]・五泉[ごせん]・三条などに百姓による騒動が頻発していたのである。

 

いまだ初夏5月23日、天は陰鬱として世情は暗い。その翌朝のことである、各地で落文[おとしぶみ]が見つかった。いわゆる公然と言えないことを匿名で書いて、路上に落しておくことである。

 

それには、「近年不作につき小前百姓困窮にあいなり、当年は米高値、はなはだ暮しは難儀、そのうえ浜方や在方の金持ちは米を買入れ、船で諸国へ積み出すため、さらに高値になった。この上、当秋も不作になったならば、小前百姓、水呑は一命にもかかわる。よって24日に飯出野に於て相談がある。加治川以北、村上まで一軒につき一人、百姓道具を持ち参加いたさるべし。御公儀様には何の恨もなし、浜方、在方の金持ち共の仕業である。早々にまかり出ずべし、もし遅れるようなことがあれば、その村に火をつけて焼き払う、酒が飲みたければ酒屋で飲むべし、代銭は後ほど支払う。5月23日会所飯出野ひとたすけ」とある。

 

飯出野は入出野とも書き、現胎内市黒川の韋駄天[いだてん]山麓にある。一体この地方は幕領・水原代官所支配地・白河藩領・同藩領地・旗本松本小豊治領・黒川藩領・村上藩領が錯綜[さくそう]していた。村数は神納[かんのう]17村・胎内川周辺10村で、その村のすべてに一晩で落されたというから、何人かの共謀であることは間違いない。

 

当然あの村からこの村から「飯出野のひとだすけとは誰だ、その仲間は何人いるのだ」「参加しない村は焼き払うだぁ」「確かに落文のとおりだわ。一儲けを企み、米の買い占めをしている奴らが悪い。そいつらの蔵を解放させれば、よほど生活の助けになる。よしやるべ」「手前さえ儲ければよいという強欲共の面の皮をひっ剥がしてやるべ」「おう、おらだのもその仲間に加わるべし」と気勢を上げて、手に手に斧や掛矢[かけや]や鉈[なた]や鍬[くわ]などを持ち、ぞろぞろと蟻のように黒い行列となって川を渡り、野を踏み、未熟な田圃を越えて、夜の闇を飯出野を目指した。集会場所は村中の杉立木の中だ。すでに騒然とした雰囲気で熱気が渦巻き、息苦しいほどの興奮が宙に立ち昇っている。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年10月号掲載)村上市史異聞 より

2024/11/15

046 本庄繁長から伊達輝宗に贈った塩引き

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

正月らしい歴史上の話題というとなかなか見つからない。何もせずに過すのが正月だからであろうか。食事にしても、餅を食い、作りだめした御節を食っているだけである。が、その御節には、その地方特有の産物を用いることが多い。鮭料理もその一つである。しかし、その一つ一つの名称の由来となると誠に面倒である。よく尋ねられることであるが、鮭の塩引き(塩引き鮭)はいつ頃から作られているのかである。

塩引き鮭について
https://www.sake3.com/iyoboya/116

 

この質問に答えることはまず不可能だし、また、現在のような塩引きの製法がいつから行われるようになったかも知ることができない。そしてまた「塩引き」なる言葉がいつ登場したのかも分からない。この地方における「塩引き」なる言葉の初見となる文書は、伊達左京大夫輝宗から本庄雨順斎にきた書状である。輝宗は伊達政宗の父で、天文13(1544)年生まれ~天正13(1585)年没、居城は陸奥国伊達郡桑折[こおり]西山から米沢西郊の館山に移る。

 

雨順斎は繁長の僧名で、永禄11(1568)年に上杉謙信勢を向うに回して村上城に籠城し翌春まで戦い、3月18日に和睦したとき、謹慎して改名したものである。その前に繁長は、伊達と芦名を頼り和睦の交渉をしていたので、書状の日付けが2月20日とあるのは、その前後を考慮すると、その翌春ものと推察されよう。書状の冒頭には、如来章改年之御吉兆珍重々々[らいしょうのごとくかいねんのごきっちょうちんちょうちんちょう]、更不可有時期候[さらにじきあるべからずそろ]、抑為祝儀[そもそもしゅぎとして]扇子並、塩引共[とも]被指越之候[さしこされそろ]、大慶不斜候[たいけいななめならずそろ]、是[これ]も任折節[おりふしにまかせ]、猪皮[いのししかわ]五筒進之候[これをしんじそうろう]

 

現代文にすると「貴方の書状のとおり、年が改まりめでたいきざしです。さらに時期(機)にはありません。祝儀として扇子と塩引きが到来しました。大きな喜びです。当方よりも折節の猪皮5枚を贈ります。」このようになる。さらに「時機にあるべからず」は、いまだ世に出る機会に至っていない、という慰めの意味であろう。

 

とまれこの書状にある「塩引き」という文言は、本庄繁長から言い送った文言によって書いたもので、鮭を産地としない内陸部の桑折の言葉ではなく、あくまでも本庄(村上地方)の言葉であろう。しかし、その当時の「塩引き」とは、いかような製法のものであったか分からない。文字そのものの意味からすると、引くとは「一面に敷きつめる」ことで、『伊勢集』「前栽[ぜんさい]植えさせたまひて、砂ごひかせけるに」とあるのが初見のようだ。とすると「塩引き」の引きは、敷くであるとすれば、塩を敷いた上に鮭をのせ、その上にまた塩を敷いたもので、平安時代あたりの言葉が残ったものであろう。もっとも上方では、当今も引くことを敷くというとは『日本国語大辞典』にある。

 

ところで、その後の輝宗は安達郡宮森城から二本松城主の畠山義継に拉致されると、それを知った伊達勢が追跡して、義継もろともに銃撃してしまう。銃撃を命じたのは、畠山の滅亡を優先させた政宗であったともいう。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年1月号掲載)村上市史異聞 より

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