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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2023/07/15

030 政局に揺れる村上城下(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

江戸時代前期では、概して各大名とも家臣に与える知行は高かった。堀家を例にとれば、家老の知行は1万5千石から1万石、あるいは7千石である。年貢率を高くせざるを得ないわけである。松平家の場合はそれほど高い知行ではないが、領主の生活が派手で贅沢をきわめ、そのうえ藩政の不備もあり、収穫高の5割を取る。政治はすべて家老任せで、直矩[なおのり]自身は人形浄瑠璃や能、狂言、鷹狩、花木栽培、絵画、古筆収集、和歌などに夢中である。あるいは一門大名との交際で湯水のように金銭を費やす。

 

これが幕府老中に聞こえぬはずはない。村上から姫路へ転じたのはよかったが、その後は見せしめのため日田(大分県)、山形、白川(福島県)、姫路、前橋、川越と転々と所替えをさせられている。引越し大名と異名をとるゆえんだ。

 

村上を去ったのは寛文7(1667)年。替わって姫路から榊原家が同高で入ってきた。その理由というのが松平家とまったく同じである。榊原家の家臣数は具体的である。3千3百石から百石まで328名、以下5石まで245名、足軽732名、中間385名である。当時、城下の町人は9,223名いたというから侍と町人合せて1万913名になる。平成18(2006)年の旧村上城下の人口は5,641である。この未曾有の町人の人口は、松平・榊原と続いた別格大名の所産といってもよい。侍数は松平家より榊原家の方が多い。証拠は榊原家が入封したとき、侍屋敷が150~160軒不足、足軽屋敷も不足という記録が残ることによる。そのため、与力町(現杉原地内)に柳町を、駒込に四番町を、茅場(現久保多町)に門番町を建てた。ところがどうしたことか火災の頻発だ。

 

入封したのが寛文7(1667)年8月22日であるが、その年10月18日正午に「御城の本丸御天守ならびに御櫓、雷火に炎上」と榊原家の記録は記し、鎮火したのは酉の下刻とあるから、延々7時間も燃えていた。これで松平家が建てた天守は僅か4年しか存在せず、以後、天守はもとよりそれに付属する本丸の櫓も再建されることはなかった。

 

火災は城のみならず、城下にもしきりとあり、翌8年4月16日には飯野の侍屋敷92軒が焼失している。同11年3月5日には小町13軒焼失、延宝2(1674)年正月、久保多町大火。天和3(1683)年、小町から出火し8軒を焼く。そして貞享元(1684)年になると、二の丸東南の角にある中根善次郎(家老で3千180石)邸が焼失してしまった。この屋敷には櫓門が付属していたが、それも焼けてしまい、以後その櫓門は再建されなかった。

 

同5年2月には羽黒神社が炎上する。また元禄7(1694)年になると久保多町が大火に見舞われ、しかもこの間、天和3(1683)年2月27日には領主の榊原式部大輔政倫[さかきばらしきぶたゆうまさみち]は18歳で病没だから不幸この上なしであった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年6月号掲載)村上市史異聞 より

2023/06/15

029 伊白丸という屋敷

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

松平直矩[なおのり]の正室は、出雲国(島根県)松江城主18万6千石の松平直政[なおまさ]の娘お駒である。直政は直矩の伯父であるから、直矩と駒はいとこである。

 

当時の結婚は、本人同士より家格が重視された。駒の輿入れを望んだのは直矩の家老らであった。これに対し、駒の父・直政は反対だった。駒が病弱だったからだ。が、ついにこの結婚は実現する。その花嫁行列たるや大名行列と変りなく、しかも52頭もの供馬[ともうま]まで伴っている。正室を娶[め]とったものの、はたしてお駒は子を産むことができようか気遣われるところだ。

 

そこで、家老らは直矩に側室を持つことを勧める。相手は東園大納言[ひがしぞのだいなごん]の娘お長[ちょう]だ。武家が公家と深い関係になることは、武家の貴種性を高め、かつその立場を引き上げることになる。かたや家臣や領民に対しては、権威を強めることになるので武家が求めた官位への願望の一種である。ただし、公家と縁組する場合は幕府の許可を得る必要があった。ゆえに松平家では長を召使という名目で、それも村上に迎え入れた。ときに長15歳。

 

駒は周囲の気遣いが適中、流産して自分も死んでしまう。長の村上入りは寛文3(1663)年9月27日のこと。

 

その前、長を迎える話が整うと、直矩は長のために別邸を建てる計画を立てた。場所は城山麓の東に位置し、最も早く朝日が当たるところだ。建築物は同年6月には完成している。なかには常盤屋や藤の茶屋と称する数奇屋(茶室風に造った建物)もあり、これまで村上には見られなかった上方風のあか抜けした家屋であった。

 

作庭にも意を注ぎ、珍奇な石を配し、泉水を掘り滝を造り、堀割りから水を引いて流し、桜やツツジなどの花木を植え、水をたたえた池には舟を浮べた。正月は左義長[さぎちょう]、桜の春には花見、夏には涼を求めて納涼の宴、秋には鷲ヶ巣山[わしがすやま]の彼方から昇る月の観月の宴などで楽しんでいた。

 

その屋敷を伊白丸[いはくまる]という。伊はコレと訓じ、白は太陽の明と『広漢和辞典』にあるから、伊白丸とは「これ太陽のごとき明るい屋敷」という意味と解することができる。同月16日には節の振る舞いがあり、主君・直矩、長はじめ家老らが列座、祝膳に踊があった。3月16日の梅見の会では、酒宴はもとより歌会であり、長をはべらせた直矩が、

日にそいて さかふるすえのたのしみは いろより外にあまる梅かゝ 

と詠めば、

長はいろも香も いすれおとらぬ梅かへを 君かちとせの春にかさゝん 

と返す。

 

伊白丸での宴は、直矩の在村上中ではたびたびであった。しかし、松平家が姫路へ転封になり、榊原家が姫路から村上に入封すると伊白丸は跡形もなくなってしまう。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年5月号掲載)村上市史異聞 より

2023/05/15

028 村上城下町の発展(6)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

一般庶民の目から見れば、大名の生活は雲の上の出来事である。まして松平直矩[なおのり]は徳川将軍の親戚、その生活は華美にして風雅、和歌に蹴鞠に書に絵画は教養として身につけねばならない。

 

また、住居は江戸と村上の両方に持たねばならない。しかも江戸の方は上屋敷、中屋敷、下屋敷の3カ所で、その規模たるや途方もなく広い。例えば、直矩の父・直基の正室が住んでいた鳥越の中屋敷では4千坪強の広さである。それが公的な上屋敷になると7千坪ほどもあった。

 

そうした屋敷には江戸詰めの侍やその家族、大名の正室や側室、その身辺の世話をする女中衆などが数百名もいたから、経費のかかることおびただしい。そうした経費の出所は、いうまでもなく年貢(租税)である。

 

一般的に、大名が領民から徴収する年貢は収穫高の4割であるが、松平家の場合は5割を納めさせた。この高率では民衆の生活は苦しい。わけて山村など狭くやせた耕地しか持たないところでは、天候不順で不作になればたちまち年貢不納に陥ってしまう。そうした百姓のとる道は、死ぬのがいやであれば先祖伝来の土地を捨てて他国へ逃亡するしかない。それを欠落[かけおち]という。

 

松平家が入封して新しく検地をし直した承応3(1654)年から8年間に、笹川・板貝・脇川・碁石[ごいし]・雷[いかづち]・大毎[おおごと]・大谷沢・小俣・中継[なかつぎ]・大代・遠矢崎[とおやさき]・中津原・中根・蒲萄[ぶどう]の各村で214人もの老若男女が庄内領に欠落している。

 

欠落は領主に対する一種の抵抗だ。彼らが土地を捨てどこかへ逃げ去ると、当然のことだが年貢未納となる。困るのは領主側である。そこで強制連行し元の村に住まわせるがまたもや逃げる。中にはその途中、餓死する者、気違い扱いにされて牢に入れられ、あげくは殺された者もいた。

 

一方、こうした潰れ百姓が職を求めて集まるのが城下町である。手っ取り早い職業が武家や商家への奉公だが、それにしても職に就ける数はしれている。城下には多くの浮浪者が横行しだす。

 

藩の執政らがその対策に困ったことは想像に難くない。そして、考えたあげく採った方策が公共事業で、それも村上城の大改修工事であったと推察されるのである。幕府に村上城修築許可申請を提出したのが、欠落者が出た年から数えて8年目のことである。そして、幕府の許可を得て工事にかかり、三重の天守閣が完成するのが翌3年11月6日のことであった。

 

その天守閣は唐破風と千鳥破風を組み合わせた屋根で、いかにも貴公子大名直矩好みの優雅な天守であった。工事はそれのみならず、他の郭にもおよんだ。新たな縄張[なわばり=設計]で、石垣を築き直し、櫓や門などが建て替えられた。

 

山上の普請が完成すると、二の丸と三の丸の各門の石垣を築き直す。この工事にも、また多くの貧困農民が集まったものと思われる。日当や延べ人数の記録は残っていないが経済効果は大きかったに違いない。これ以降、領民の集団欠落事件は見えない。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年4月号掲載)村上市史異聞 より

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