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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2024/06/15

041 領主の交替と四万石領騒動(5)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

かの村村の百姓が公儀の政道に不満を持ったのは当然のことであった。一つは5代将軍・綱吉のときから、大名・旗本の所替えがあるとき、肥沃[ひよく]な土地あるいは山林河川の利用度の多いところを幕府領とし、その余りを私領にしてきた。これは百姓のみならず、その領主もまた困窮する元となった。加えて大庄屋制があった。その欠陥が現れたのが四万石領の85カ村であった。

 

その百姓の代表が58人、なかでも燕組大田村の三五兵衛と燕町の市兵衛、地蔵堂組杣木[そまき]村の新五右衛門が統領格であった。彼らが訴えたのは、幕府・勘定奉行の中山出雲守と大久保大隅守[おおすみのかみ]だった。しかし、両奉行は権力の座にすわっているだけの凡庸[ぼんよう]極まりない人物であったから、庶民の生命や生活がいかようになろうと関心がなく、提出された訴状には一顧だにすることがなかった。

 

ただ月日だけが虚しく流れ、やがて精霊を迎え、枯れた笹が寂しく風に揺れ、そして二百十日の風のざわめきも収まった。その間、かの村村の百姓らは、毎晩のように自村で鳩首会議を開き、「ご公儀の返答はまだか。このままだと結局はおれらの要望は黙殺され、やっぱり村上領になる」「それだけはご免だ。諸掛かり負担は多いし、大庄屋の専横に苦しまねばならぬ。私領ゆえの高い負担金と私に百姓を使う大庄屋に、なにゆえおれらが生命をかけねばならぬ」「そうだ、まったく理に合わぬことだ。断固として村上領は拒否すべし」と囂囂[ごうごう]たる非難の声を上げた。

 

そこで三五兵衛と市兵衛と新五右衛門の3人は、「村の窮状を救うのはおれらしかいねえ」「む、しかし当たり前の手段では公儀を動かせねえ。思いきって駕籠訴[かごそ]*といくか」。駕籠訴とは、老中ら幕府の高官が登城する途次に、その行列に訴状を投げ込む、または竹の先に挟んで差し出すことで、よほどの理由がなければ取り上げることはなかった。

 

彼らが駕籠訴の相手にしたのは老中・井上河内守だった。しかし、それが失敗に終わったときは三五兵衛らに罪が及び、軽くて入牢・重くて死罪だ。それでも三五兵衛らは、「85カ村が救われることであれば、身命を賭してもやらねばならぬ。あるいは一族に罪が及ぶとも、多くの人命には替えられぬ」と言い合って出府を決意した。悲壮な決意といってもよい。彼らに訴状を託した親や兄弟、百姓らも掌に汗を握り、決死の面持ちで見送ったものだ。

 

その行末はいかに…… 井上河内守もまた老中とは名ばかりの無能な大名だった。その無能な高官に賭けた一縷[いちる]の望みは断たれた。無惨、訴状は井上の供侍に取り上げられ、三五兵衛らは「ご老中の行列を乱すとは不逞の輩、召し捕れ」。有無も言わせず、たちどころに高手小手に搦められ、伝馬町の牢屋に護送されてしまった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年5月号掲載)村上市史異聞 より

2024/05/15

040 領主の交替と四万石領騒動(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

幕府の辰の口評定所(寺社・勘定・町の三奉行所で、江戸城の辰の口にあったことからそう呼んだ最高裁判所である)は、「その方らの要求、つまり村上藩領から幕府領への編入替えはならぬ。これ以上、要求を続けるならば、その方ら代表を重罪に処す」と申しわたした。重罪とは、磔獄門[はりつけごくもん]か、軽くて島流しである。それを受けた関係組村の百姓は、太田村の三五兵衛をはじめとする3名を事情説明のために評定所へ出頭させる。

 

すると評定所の役人は、「問答無用、搦[からめ]とって牢にぶちこめ。それに村村でも不穏な言動をとる不逞[ふてい]な輩[やから]があれば、ひっ捕えて、罪の軽重に従い、死罪・遠島・追放を申しつけ、その者らが所有する田畑は幕府が没収する」そう命じたものだ。

 

間もなくそれらの村村から不穏な噂が聞こえてくる。新井白石の耳にも、「お上は、おれらの言い分には少しも耳を傾けず、あまつさえまったく理不尽なことをばする。これがご公儀のなさることか。これがご政道であれば、以後、おれらは代官の命には従わぬ。もちろん年貢なぞ米一粒たりとも納めねえ」と百姓らは硬化し一致団結した。とはいえ四万石領の各村すべてという訳ではない。庄屋や村役人の説得に従って忍従した村もある。

 

このとき幕府の代官所は北蒲原郡黒川にあり、代官は河原清兵衛が派遣されていた。噂は噂を呼んだ。「河原は評定所の命令を受けて首謀者58名を捕縛した。すると百姓らはますます激高。騒乱は名状しがたいものとなった」「いやさ58名を罪に落とさば、100人で出訴すべし。100人でだめなら4000人で出訴する」と言う者があれば、「いやいや、評定所へ訴えるのみならず、黒川の代官河原某[なにがし]、あの代官が悪い。あの代官がろくにことの次第を調べもせずにいるからだ。それと大庄屋らもだ。百姓の生活を踏み台にして私腹を肥やしているのだ」。するとさらには、「まだ納めていない年貢米があろう。あの米をば船積みして他国へ売り払ってしまえ。年貢の徴収ができなければ代官の落ち度となり、さらには公儀の減収となるからの」。

 

公儀の年貢米を不法売却とは前代未聞の大科[とが]ごとだ。大庄屋や庄屋は腰の抜けるほど驚いた。そして顔を蒼白にして、頬を引きつらせながら村村を回り、「年貢米を売り払うとは天下の大罪。その罪は下手人のみならず、おれらにもおよぶ。頼む、やめてくれ!」と説得にかかるが、百姓らは、「なにを言うか。そもそもこのような事態にたちいたった原因は、うぬら大庄屋にあるのだ。四の五のとごたくを並べてじゃまだてするな」と言って、一向に聞き入れようとはしないというのだ。大庄屋は茨曽根組の関根三左衛門らである。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年4月号掲載)村上市史異聞 より

2024/04/15

039 領主の交替と四万石領騒動(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

正月の話はまだあるが元に戻す。高年貢や諸掛り負担に耐えかねた百姓が欠落[かけおち]することも、領主に対する一種の抵抗で一揆の一つだ。しかし、その抵抗は数人、多くても数10人単位なもので、数百人が武器や農具を持って為政者や富裕者の屋敷を襲い、破壊や略奪行為に及ぶような一揆ではない。

 

一揆には、軍事力の補助として起こす政治的なものと住民が生活権の確保のために起こすものがある。けれど江戸中期ともなれば軍事的な一揆は皆無で、すべてが生活上から起きたものだ。江戸時代を通じて、幕政にまで影響を及ぼした大一揆の一つが「村上藩四万石領騒動」である。政治の歪みと大庄屋の横暴に端を発したもので、その顛末は新井白石の自叙伝『折たく柴の記』[おりたくしばのき]で知ることができる。

 

新井白石は明暦3(1657)年に生まれ、享保10(1725)年に没した。生家は武士であるが極めて貧しく、学問を志して政治的な地位にも就いたが、やがて容れられず、再び学問の道に投じた。彼の学問を深く評価したのが六代将軍・家宣[いえのぶ]で、白石を政治顧問として迎え、政策実行の第一人者・間部詮房[まなべあきふさ]とともに幕政にあたらせたのであった。

 

ひとも知る間部越前守詮房は、浪人の子として生まれ、不遇のうちに育ち、学問らしい学問をしておらなかったが、頭脳明晰・剛毅にして英邁な性格で、優れた政治的判断力で問題を即決していた。その点、今どきの政治家と自認する人々は、最高学府を出てはいるが、主義主張がはっきりせず、判断力も決断力も鈍い。詮房らとは雲泥の差がある。

 

村上四万石領騒動が勃発したのは、間部や新井が幕政に参加する前のことである。以下は『折たく柴の記』によって、その事件を実録風に書いたものである。

 

まず西・南蒲原郡と三島郡を合わせた四万石領が村上領に編入されたのは、慶安2(1649)年、松平大和守直矩[なおのり]が村上領主になったときである。その組は寺泊・渡部・地蔵堂・三条・一ノ木戸・燕・茨曽根・打越・釣寄・味方の10組で、10人の大庄屋が付き、各村には小庄屋が置かれた。これがそもそも騒動の発端となる。やがて村上領は本多忠良[ただよし]が領主になると、それまでの15万石から5万石に減知され、松平輝貞[てるさだ]の代に7万2千石になったが、四万石領は依然として村上領であった。

 

これに不満を持ったのがその領地の百姓で、かれらの代表は出府して幕府の評定所へ「なにとぞおれらの村々をば、御料[ごりょう]*にしてくだされ」と訴える。その嘆願に対し、奉行所の返答はにべもなく『百姓の分際で公儀の施政にくちばしを入れるとは、何たる大それたこと。ましてや領地替えの嘆願とはとんでもないこと。その旨、在所へまかり帰って皆の者に伝えよ』と叱られて帰国したのであった。その話を聞いた村々の百姓は真っ赤になって怒った。激怒したといってもいい。
*幕府直轄領

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年3月号掲載)村上市史異聞 より

 

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