HOMEおすすめ特集 > むかしの「昔のことせ!」

むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

contents5103_bnr

  

 

現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

***
著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
***

 

2023/01/15

024 村上城下町の発展(2)

%e6%9d%91%e4%b8%8a%e5%9f%8e%e4%b8%8b%e7%94%ba%e3%81%ae%e7%99%ba%e5%b1%952

イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

城下での職業集団は、大工町の大工9軒と鍛冶町の鍛冶16軒で、職業保護として無役(免税)の特権を与えられていた。

 

その他の職業を町内別に見ると、長井町に油屋、上町に風呂屋、庄内町に駕籠[かご]屋、新[あら]町に茶師(製茶師)がそれぞれ1軒ずつ。大工町には大据挽[おがびき=木挽]、桶屋、塗師[ぬし]が1軒ずつ。また小国町には研[とぎ]師、彫物屋、油屋、駕籠屋、馬喰[ばくろう]、大工が1軒ずつ。本塩町にはあかし屋(灯明)、葺屋[ふきや=屋根屋]、油屋が1軒ずつ。長岡町には大工1軒となっている。

 

馬喰町は馬喰(牛馬の売買や馬医)などがいた町であろうが、その人数は記されてない。が、8軒が無役の扱いを受けていたのでその人々が該当しよう。

 

片町は堀片にあった町ゆえについた町名で、久保多町はいまだ成立していない。ゆえに庄内町は出羽庄内道の出入口にあったためについた町名であろう。

 

以上のような職業分布をみると、建築関係と運輸業に携わる者が多く、風呂屋や茶師は異色である。また衣食業や他の消費物資の製造販売業者は皆無である。

 

およそ消費的商工業都市とは言いがたく、軍事的な防衛都市の臭いが濃厚であった。けれどこの時代の畿内では、流通経済都市としての城下町がすでに形成されていたから、町造りを推進する、城主・堀直竒[ほりなおより]や彼の側近の脳の中には、防衛と相挨[あいま]った経済中心の町の姿が描かれていたことは間違いない。以後はその方針通り、町は急成長を遂げてゆく。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年12月号掲載)村上市史異聞 より

2022/12/15

023 村上城下町の発展(1)

%e6%9d%91%e4%b8%8a%e5%9f%8e%e4%b8%8b%e7%94%ba%e3%81%ae%e7%99%ba%e5%b1%951

イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

堀丹後守直竒[ほりたんごのかみなおより]が入封[にゅうほう](領主が初めて領地に入ること)し、建設された村上城下には、羽黒町39軒、長井町42軒、六間町8軒、上町36軒、本加(鍛)冶34軒、大町37軒、小町34軒、下小町13軒、庄内町69軒、片町61軒、新[あら]町41軒、大工町19軒、小国町60軒、本[もと]塩町20軒、寺町28軒、新鍛冶町16軒、肴町42軒、長岡町12軒、馬喰町41軒、合計652軒であった。

 

この内、本鍛冶町は細工町にあり、本塩町は免町とも称し、寺町の東半分の場所にあった。

 

軒数は村上氏時代に比べると急増である。では、この人々はどこから入ってきたのだろうか。半強制的に村を潰して移住させられたと考えてよい。羽黒町の住民は、もと羽黒口あたりに住んでいた人々だし、長岡町は堀直竒が、前任地の長岡から連れてきた住民である。

 

また、堀時代を遡ること21年前、山居山の南側には垣茂村、松山村、とどめき村、ミ[み]なくち村、城下の東に中町村があったが、その後は姿を消すことから、これらの住民もまた新村上の住民となって町内を形成したものと考えてもよい。中貝村はのちに長岡町と馬喰町とともに肴町に入るが、この時点での中貝村は足軽(兵卒)屋敷地であった。防御を重要視した地域は、城下の南口にあたる羽黒町で城主や家老の屋敷を配した。また、東口の片町には10人の鉄砲足軽を置き、庄内町にも4人の鉄砲足軽と1人の槍足軽を配した。北面の小国町にも鉄砲衆を配置、その裏から肴町裏にかけても足軽屋敷で固めた。また、馬喰町の西端にも鉄砲屋敷があった。南面には飯野の侍屋敷がある。このように町人地といえど、兵卒との混成地であった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年11月号掲載)村上市史異聞 より

2022/11/15

022 村上城下(5)

%e6%9d%91%e4%b8%8a%e5%9f%8e%e4%b8%8b5
イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

桝形[ますがた]は、それぞれの城門には必ず付属する設備で、門の外側に付く桝形を外桝形、内側に付くそれを内桝形と呼ぶ。そのほか、城下町の出入り口や防御上の重要地点にも設けられる。形式は高い石垣や土塁で方形に囲み、入り口を喰い違いにする。そして外側には堀を巡らす。

 

久保多町と庄内町の境にあった桝形の規模は、一辺が約52.2mのほぼ方形であった。高さは約3.6mと推察される。これに次いで大きい桝形は肴町の西端にあったが、その寸法は残念ながら分からない。ただし、遺構として堀の一部が現存する。

 

水をたたえない空堀であるが、深い薬研堀[やげんぼり](V字形)で、いかにも城下の入り口を堅固にするために設けられたことがうかがえる。

 

このほか、羽黒町の牛沢口、羽黒町と長井町の境、片町の庚申堂に設けられていた。機能としては、侵入する敵をその中に誘い込み、門櫓の上や土塁上などから弓や鉄砲で狙い撃ちにするというものである。

 

そして、この内部の一隅には地鎭のために寺社を祀る。肴町の桝形前には河内神社を祀り、片町の桝形内には宝性寺が置かれた。のち寛文7(1667)年、城主 榊原式部大輔政倫(さかきばらしきぶのたゆうまさとも)のときに庚申堂が安良町から移されて祀られた。城の鬼門鎮め[きもんしずめ]のためと言い伝えられているが、実は同所は城の鬼門には当たらない。

 

そこから方位を見ると、ちょうど安良町と上町大町の境であった札の辻[ふだのつじ](城下の中央で掟書を掲げる場所で、米沢道や出羽道の出発点)の北東(表鬼門)にあたる。ということは、同所の宗教的施設はあくまでも村上城下町の鬼門鎮めが目的である。

 

これら桝形は、町人の労力奉仕によって完成されたものだから、城主 堀直竒はその労苦に報いるため、地子[じし](地税)を免除した。とはいえ、税の免除は人口増が目的であろう。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年10月号掲載)村上市史異聞 より

先頭に戻る