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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2022/10/15

021 村上城下(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

大名 堀直竒の石高は10万石であったが、将軍家の脇備[わきぞなえ]ゆえ大きな軍備で侍数380、足軽(兵卒)1000、内高[ないだか]は21万石余に上った。幕府内での堀は無役であったが談伴衆の一人であった。その役目は、将軍に天下の情勢や軍事、経済、学問の話を聞かせることを目的としたもので、武功者や学者などが選ばれた。

 

堀が村上に転封した理由は、米沢の上杉を牽制するためである。城下を拡張して城を堅固にしたことは、防衛都市にすることはもちろん行政・経済の中心地にすることであった。

 

その防衛地域内に町人地を包含した一つの理由は、民衆を敵の略奪・暴行・拉致から守るためでもあった。道路は容易に城に近付くことができぬよう、また槍などを振り回すことができぬよう、狭いところでは約1.5m、広い所でも約5.4mでしかない。また敵の視界を遮[さえぎ]るため交叉点を多くし、四つ角は喰い違いにする。

 

城下の出入口には防御用の桝形を造り、城主や重臣の下屋敷(別邸)を置いた。また、鉄砲足軽の長屋を置き防備させた。羽黒町の東端南側に城主の屋敷、その向かいには家老 野瀬右近の下屋敷を設け、片町には10人の鉄砲衆と長柄衆(槍足軽)を配置した。

 

この当時、片町は堀片にあり(堀の片側にあった町ゆえ片町の名が付いた)、城下の東を防備していた。

 

また、鍛冶町と小国町の境には大門を設け、小国町には十人組頭と鉄砲衆を配置している。十人組頭は、初め京都に設けられた警察権を持った職務であるから、小国町は肴町の桝形と相まって警備の任を負わされていたものと推察される。

 

桝形の機能や位置については次に述べる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年9月号掲載)村上市史異聞 より

2022/09/15

020 村上城下(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

村上頼勝の家臣団を記した『分限帳』[ぶんげんちょう]には、城の定番は9名、二の丸(二之町)47名、三の丸(三之町)85名、飯野92名、新丸25名、どの地域にも属していない者32名がある。このうち新丸とあるのが新町を指すと考えられる。

 

これらの侍は、最高位が家老の1万2千石で最低100石までである。その下に位置する与力や同心、足軽、中間、あるいは自分抱えの若党は員数外である。

 

城郭は坂上門(下渡門)から南とし、城内に8棟の櫓を建て、表裏新町と追手筋(大町裏)に堀を掘ったと江戸時代後期にまとめられた『村上城主歴代譜』に記されている。

 

形成された城下町は、前記の武家地のほか大町を中心にして、その北に小町、南に上町、それに続いて長井町と尻引村(現羽黒町あたり)、上町の西には細工町であったろうが、長井町は侍地であったというから、おそらく長柄[ながえ]衆(2間柄[え]の槍を持つ足軽衆)の長屋があった町で、のち長柄の「柄」が「井」の字に変化したと推察される。

 

細工町は、本悟寺と共に加賀国小松から移ってきた町である。本悟寺の本家寺は本蓮寺といい、小松市細工町に現存する。『本蓮寺由緒書』によれば、永禄9(1566)年に津波倉[つばくら]から小松へ移ったとある。

 

その村上細工町にいたのが六軒鍛冶と呼ばれ、のち鍛冶町に移転する鍛冶であった。本蓮寺が建てられると細工町に改められたと同寺の檀徒であった長谷川三吉家の系図は述べる。当時の人口や職業分布などはまったく不明である。本蓮寺が本悟寺に改めたのは寛永年間(1624~43)という。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年8月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/08/15

019 村上城下(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

豊臣秀吉が全国の大名に国替えを命ずるのが慶長3(1598)年のこと。それまで越後国守は上杉景勝であったが、上杉は会津若松城主となって転封した。替わって越後国守になるのは43万3500石を拝領した堀秀治である。

 

その与力として新発田には6万石で溝口秀勝を入れ、村上には9万石で村上頼勝を入れた。両者の立場は与力だから、堀の付属で有事には堀の指揮下に入り、助勢することである。村上氏の領地は岩船郡全域と北・中・南蒲原郡の一部である。

 

城と城下に入った侍数は、春日元忠が在番したときより遥かに多い。上下合せて290名、加えること足軽以下中間小者を含めると800ないし900名にはなろう。その彼らは確実に農耕社会から切り離されて、消費生活を送ることになったから、その消費を賄う町人が必要になる。

 

となると、これまでの町人数では絶対数が足りない。そこで村上氏は有力町人となるべき人々を前任地の加賀国小松周辺から連れてこざるを得ない。今に残る小松屋・加賀屋の屋号の付いた小杉・加藤・北村・木戸などの家であった。

 

村上茶の元祖といわれる徳光屋覚左衛門は本姓を土田と名乗る。徳光は越前国(福井県)足羽[あすわ]郡にある地名だし、土田は小松にその地名がある。本国は越前国徳光、生国は加賀国小松土田であったと推測される。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年7月号掲載)村上市史異聞 より

 

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