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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2023/11/15

034 政局に揺れる村上城下(5)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

松平輝貞在城時の村上の様子は、史料を欠くためよく分からない。ある程度伝えているのは『村上城主歴代譜』などの野史*である。
*正史=公刊の歴史書、野史=非公刊の歴史書

 

本多家は15万石から5万石に減知され、松平輝貞家のとき7万2千石に増知されたとはいえ、家臣は大幅に減少した。その該当者は中間・足軽・徒士ら下級藩士であった。そのため足軽長屋や与力町などはがら空きになり、町人から接収した土地は旧地主に返却したことは既述した。しかし、駒込町の一番丁から四番丁までと片平町や御徒士町などは受け取り人がいない。そこで松平家では売却することにして検地を始めた。正徳2(1712)年のことである。

 

土地の面積と価格は、駒込町の東方の畑地1反、西方の畑地1反が1両3分ずつ。二番丁1反が3両1分、三番丁東方が3両2分、竪町南方が2両2分であった。しかし誰も買う者はいない。そこで藩は、若狭屋九兵衛と松屋忠次郎に命じて売らせたところ、片平町1反は7両余に売れ、徒士町は4両に売れた。(堅町・片平町・徒士町は駒込町の隣地か)

 

その他の払地は、若狭屋と松屋が買ったようであるが確たる証拠はない。両者は当時、村上を代表する分限者[ぶんげんしゃ=財産家]であろうから、藩は強制的に買わせたと考えられる。それらの長屋はことごとく破却され、材木は他の家屋の修繕用にされ、平地は茶畑や田畑に変った。久保多町北裏の足軽長屋や肴町から鍛冶町北裏の足軽長屋も姿を消し、荒地となったり畑地になった。また飯野や与力町にも空地が広まっていった。

 

売却代金11両は荒廃した侍屋敷の修理代に回した。堀家入封以来91年間もの間、大名の入転封が繰り返され、家臣の屋敷は荒れるにまかせていたのだろう。城内の荒廃もひどかった。山麓居城の正面に架かる刎橋は使用不能であったし、城内の備品であった鎧は縅[おどし]糸が朽ちてぼろぼろになっていた。それを松平家も放置していたが、間部家との交替が決まった享保2(1717)年、そのまま間部家に渡すことは体裁が悪いと思ったのか、藩主・輝貞は刎橋の修繕を家臣に命じている。平和な世では城や武具などは無用と思っていたのかもしれない。

 

反面、輝貞は五代将軍・徳川綱吉への追慕の思いは強く、常憲院[じょうけんいん=綱吉]の御霊屋を羽黒口の天休院(のちの光徳寺)境内に建立している。規模は3間に4間の内殿で、大工は江戸から呼び寄せた小森谷金助。内部の装飾はこれも江戸の絵師・長谷川東林雪艚を呼び寄せて描かせた。よほど豪華な堂であったものか、1万千両もの工費であったという。「犬公方」と陰口を叩かれた将軍でも、輝貞にとっては大事な人であったのだろう。常憲院の廟は、松平家が高崎に移るときに解体して運んだという。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年10月号掲載)村上市史異聞 より

2023/10/15

033 政局に揺れる村上城下(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

徳川五代将軍・綱吉には子がいなかった。そこで将軍職を継いだのは、当時甲府宰相[こうふさいしょう]といわれた徳川綱豊[つなとよ](のちに改め家宣[いえのぶ])であった。父親の綱重[つなしげ]が三代将軍・家光の次男で、将軍としての血のつながりがもっとも近かったからだ。甲府宰相と呼ばれたゆえんは、甲府藩主であったためである。前将軍・綱吉は儒学に傾倒したとは既述したが、家宣の好学は綱吉を上回った。

 

政策に携わった学者は、新井白石を筆頭に三宅観瀾[みやけかんらん]や室鳩巣[むろきゅうそう]で、政策実行には間部越前守詮房[まなべえちぜんのかみあきふさ]があたった。ここで彼らが実行した政治の詳しくを述べるゆとりはないが、綱吉政治の最悪であった生類憐みの令の廃止、不評通貨の廃止、また武家諸法度の改訂などが挙げられる。

 

その政治は、のちに「正徳の治[しょうとくのじ]」と称えられるが、譜代大名と新参大名との対立も生じた。このころになると譜代大名のほとんどは世間知らずで政治の本末をわきまえない者ばかりであった。ゆえに綱吉の代に要職に就いていた大名をことごとく罷免し、替って有能な新参大名を側近にしたのである。

 

その代表格が間部詮房であった。詮房は家宣が甲府藩主であったときから仕えた人で、はじめは能役者で、のちに5万石の大名になった。戦国時代では武力で大名になった者は多いが、平和時で大名に出世することは、よほどの才能が必要である。性格も清廉潔白、「賄賂かって受用これなき人は間部殿一人」あるいは「決断あり温厚なる人」また「誰一人その右に出る者なし」とも絶賛された人物であった。

 

詮房が老中格側用人に就いたのは宝永6(1709)年で、ほとんど江戸城に詰めきりで政務にあたっていたという。ところが家宣は将軍就任後4年で病没し、七代将軍は4歳の家継[いえつぐ]がつぐ。その家継も4年後に病没すると、将軍継嗣問題が浮上する。すなわち家継で徳川宗家の血は絶えたのだから、尾張・紀伊・水戸の三家のうちで宗家を継がなければならない。そこで、紀伊の吉宗が家康ともっとも血が近く、資質に恵まれていたから八代将軍になった。とりまきも優れていたからともいう。しかし、事実は若干違うようだ。

 

その吉宗を推輓[すいばん]したのが間部詮房であった。理由は、尾張や水戸が継ぐことになれば、血の遠近と法を無視したことになり、禍根を残すことになる、というものであった。また、将軍継嗣は大奥の問題でもあった。家継の生母・月光院が吉宗を推薦すれば、家宣の夫人・天英院は家宣の弟・松平清武を推薦した。月光院と天英院の勢力争いである。結局は血統と法を重視した間部と月光院の勢力によって吉宗が継ぐことになった。

 

けれど間部は新将軍のもとでは生き残れない。譜代大名を重んじる吉宗によって老中格側用人を免職させられ、城地も高崎から村上へ移されたのである。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年9月号掲載)村上市史異聞 より

2023/09/15

032 政局に揺れる村上城下(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

本多忠隆[ただたか]改め忠良[ただよし]が村上城から三河国(愛知県)刈谷城に移ったのは、宝永7(1710)年5月23日である。替って村上城には松平右京大夫輝貞[まつだいらうきょうのだいぶてるさだ]が上野国(群馬県)高崎城から移ってくる。ただし、その年月日は幕府の発令である。実際は、本多氏の刈谷入城は少し遅れて8月12日で、村上城を松平氏に渡したのは同月26日である。転入城に際し、多数の侍の移動で混雑することを避けるためであった。

 

この松平輝貞という人物は、五代将軍・徳川綱吉の側用人、柳沢吉保の補佐を務めていた。柳沢は綱吉の寵[ちょう]を一身に受け、権勢並ぶ者なしといわれた人物である。ゆえに輝貞の立身は、はじめ5千石であった知行が7万2千石までになったのである。その立身の背景には、綱吉将軍の儒学傾倒と輝貞の儒学への深い造詣があった。なにしろ将軍を自邸に招き、その前で論語を講ずるほどであったから、その学識たるやなまなかのものではない。

 

いうまでもなく将軍は綱吉であるが、執政は柳沢であり、その補佐が松平であった。かれらが行った政治は「賞罰厳明」、わけて不正に厳しく、無能・怠慢の代官には斬罪・切腹・流罪などを命じ、行政に長けた役人を重用した。

 

儒教は古代中国で孔子によって説かれた教学である。わが国の近世では、一段と儒教による影響が高まる。将軍や大名などの為政者の教養として、広く重んじられるようになったからである。はじめの儒教は宗教性の強いものであったが、江戸時代になると忠・孝・誠など礼教性が強くなり、宗教性が見えなくなる。綱吉の政治はまさに、その礼教性に基づいたものであった。

 

綱吉政治は後期になると、生類憐みの令[しょうるいあわれみのれい]などという、まさにくだらない法令が発せられる。10万匹もの犬を保護し、江戸城内では鳥・貝・エビの調理が禁止された。その違反者は斬罪になったり、八丈島へ島流しにされた例もある。ただし、その法令は人間の弱者や捨て子、旅の病人などにも及んだ。儒教で説くところの仁政の実現であろう。

 

綱吉は利口だか馬鹿だか分からない人である。そして母親・桂昌院の言うことならなんでも聞き入れる。今でいうマザコンか。しかし、本人はそれを孝の実現といっていたのかもしれない。

 

その桂昌院が深く信仰したのが、大奥の祈祷僧・隆光[りゅうこう]と亮賢[りょうけん]だった。生類憐みの令は、隆光らが綱吉が前世で犯した殺生が祟[た]たっているのだから、動物を愛護し、わけて綱吉が戌年生れのことから犬を大切にすれば子が授かると桂昌院に吹き込んだことによるという。

 

その将軍を輝貞は自邸に招くこと二、三度というから莫大な散財であった。また将軍が周易[しゅうえき=八卦学]を講じたときは黄金50両と屏風二双および酒肴を贈った。名誉と地位を得るために儒教も利用し、精いっぱいゴマをスっていた輝貞であったが、綱吉が没すると柳沢も輝貞も政権の座を失う。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年8月号掲載)村上市史異聞 より

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