イラスト:石田 光和(エム・プリント)
もともと雛(ひな)は飾る人形でなく、身体についたケガレをはらってもらう形代(かたしろ)であった。その形代を作って天皇に献じ、天皇はそれを一晩そばに置いて、翌朝、3月巳(み)の日に川に流したものだ。
そうした風習を室町時代の中期(1450年頃)に足利将軍もならい、しだいに民間にも広まった。
家々で雛人形を飾るようになるのは江戸時代の初め(1600年頃)からであるが、3段や5段飾りではなく単独である。享保年間といえば、徳川将軍・吉宗の治世であるが、この将軍は倹約家で有名。その倹約政策の一つに1尺(30cm)以上の人形は作ってはならぬ、という条項がある。
これを山下幸内という人は一笑に付し、人形を買う人間は金持ちである。人形師はその日暮らしの人が多い。金持ちにこそ金を使わせるべきなのに、「恐れながら御器量せまく、おっつけ日本衰微(すいび)のもとにて御座候」と文句をつけた。
人形師は人形師で、ならば小さな人形ならばよかろうと、象牙などの材料で精巧この上ない高価で小さな人形を作るようになる。いわゆる罌粟(けし)雛の誕生だ。
旧暦の5月5日は薬草刈りをする日であった。ショウブやヨモギは薬草で、チマキを食べることは疫病をさけるためであった。元来この日は悪日とされていたので、5月4日の夜に女性はショウブやヨモギで葺いた小屋にこもり、食事を摂る習慣であった。
それが男の節句になるのは江戸時代になってからだ。城中に鎧や長刀などを飾り、白旗を立てたものだ。武者人形を飾るようになるのは江戸中期(1730頃)からである。
幟旗(のぼり)は、もともと小さな旗であったが、しだいに大きくなる。旗には霊力が籠るとされ、自己顕示の目的もあったから、戦陣には大小夥(おびただ)しいほどの旗を立てたものだ。
鯉のぼりは18世紀の中頃からで、はじめ京都・石清水八幡宮の土産物であったという。鯉は出世の象徴であるがゆえに、江戸を中心に流行した。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年4月号掲載)村上市史異聞 より