イラスト:石田 光和(エム・プリント)
本多忠隆[ただたか]改め忠良[ただよし]が村上城から三河国(愛知県)刈谷城に移ったのは、宝永7(1710)年5月23日である。替って村上城には松平右京大夫輝貞[まつだいらうきょうのだいぶてるさだ]が上野国(群馬県)高崎城から移ってくる。ただし、その年月日は幕府の発令である。実際は、本多氏の刈谷入城は少し遅れて8月12日で、村上城を松平氏に渡したのは同月26日である。転入城に際し、多数の侍の移動で混雑することを避けるためであった。
この松平輝貞という人物は、五代将軍・徳川綱吉の側用人、柳沢吉保の補佐を務めていた。柳沢は綱吉の寵[ちょう]を一身に受け、権勢並ぶ者なしといわれた人物である。ゆえに輝貞の立身は、はじめ5千石であった知行が7万2千石までになったのである。その立身の背景には、綱吉将軍の儒学傾倒と輝貞の儒学への深い造詣があった。なにしろ将軍を自邸に招き、その前で論語を講ずるほどであったから、その学識たるやなまなかのものではない。
いうまでもなく将軍は綱吉であるが、執政は柳沢であり、その補佐が松平であった。かれらが行った政治は「賞罰厳明」、わけて不正に厳しく、無能・怠慢の代官には斬罪・切腹・流罪などを命じ、行政に長けた役人を重用した。
儒教は古代中国で孔子によって説かれた教学である。わが国の近世では、一段と儒教による影響が高まる。将軍や大名などの為政者の教養として、広く重んじられるようになったからである。はじめの儒教は宗教性の強いものであったが、江戸時代になると忠・孝・誠など礼教性が強くなり、宗教性が見えなくなる。綱吉の政治はまさに、その礼教性に基づいたものであった。
綱吉政治は後期になると、生類憐みの令[しょうるいあわれみのれい]などという、まさにくだらない法令が発せられる。10万匹もの犬を保護し、江戸城内では鳥・貝・エビの調理が禁止された。その違反者は斬罪になったり、八丈島へ島流しにされた例もある。ただし、その法令は人間の弱者や捨て子、旅の病人などにも及んだ。儒教で説くところの仁政の実現であろう。
綱吉は利口だか馬鹿だか分からない人である。そして母親・桂昌院の言うことならなんでも聞き入れる。今でいうマザコンか。しかし、本人はそれを孝の実現といっていたのかもしれない。
その桂昌院が深く信仰したのが、大奥の祈祷僧・隆光[りゅうこう]と亮賢[りょうけん]だった。生類憐みの令は、隆光らが綱吉が前世で犯した殺生が祟[た]たっているのだから、動物を愛護し、わけて綱吉が戌年生れのことから犬を大切にすれば子が授かると桂昌院に吹き込んだことによるという。
その将軍を輝貞は自邸に招くこと二、三度というから莫大な散財であった。また将軍が周易[しゅうえき=八卦学]を講じたときは黄金50両と屏風二双および酒肴を贈った。名誉と地位を得るために儒教も利用し、精いっぱいゴマをスっていた輝貞であったが、綱吉が没すると柳沢も輝貞も政権の座を失う。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年8月号掲載)村上市史異聞 より