村上茶の歴史は古く、栽培の歴史は江戸時代初期(1620年代)までさかのぼります。村上藩の大年寄・徳光屋覚左衛門(とくみつやかくざえもん)が宇治伊勢の茶の実を買い入れ、主要地場産業にしようとしたのがその始まりといわれ、約400年の歴史があります。
※当時の村上藩主・堀丹後守直竒(ほりたんごのかみなおより)が自ら宇治から取り寄せたとの説もあり
その後、先達の努力により栽培・製茶とも改良が続けられ、茶畑の面積は明治時代には400haにもなり、製造された緑茶や紅茶はニューヨークやウラジオストクにも輸出されました。
(写真中央)羽黒町・東林寺に立つ徳光屋覚左衛門の頌徳碑
さて、村上茶はよく「北限の茶」、村上市は「北限の茶処」と呼ばれます。「北限」とは、商業的な茶産地の北限(日本海側)という意味で、村上市以北でも数軒の農家が栽培に取り組んではいますが、自家栽培に近い規模です。
※太平洋側の商業的北限の茶産地は岩手県陸前高田市周辺
東北地方でも、お茶の栽培は昭和の初めごろまで盛んに行われていました。しかし、時代が進むにつれて温暖な産地の生産性や品質が向上し、寒冷な産地は次第に競争力を失い廃れていきました。
こういった中でも村上茶が生き残れたのは、海岸側にあって比較的積雪量が少なく、しかも適度な積雪が茶の木を寒風から保護してくれること、冬期の最低気温も-10度以下になることが少ない、などの条件が恵まれていることが挙げられます。そして、何よりも村上の人々が長い年月をかけ、根気よく栽培技術を磨いてきたことが産地死守につながったのです。
栽培地としては決して好条件ではない村上ですが、先達の功績を受け継ぎ、新品種の作付けや在来種の品質向上など日々の努力を積み重ね、茶業者一丸となって更なる発展を目指しています。