むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2022/08/15

019 村上城下(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

豊臣秀吉が全国の大名に国替えを命ずるのが慶長3(1598)年のこと。それまで越後国守は上杉景勝であったが、上杉は会津若松城主となって転封した。替わって越後国守になるのは43万3500石を拝領した堀秀治である。

 

その与力として新発田には6万石で溝口秀勝を入れ、村上には9万石で村上頼勝を入れた。両者の立場は与力だから、堀の付属で有事には堀の指揮下に入り、助勢することである。村上氏の領地は岩船郡全域と北・中・南蒲原郡の一部である。

 

城と城下に入った侍数は、春日元忠が在番したときより遥かに多い。上下合せて290名、加えること足軽以下中間小者を含めると800ないし900名にはなろう。その彼らは確実に農耕社会から切り離されて、消費生活を送ることになったから、その消費を賄う町人が必要になる。

 

となると、これまでの町人数では絶対数が足りない。そこで村上氏は有力町人となるべき人々を前任地の加賀国小松周辺から連れてこざるを得ない。今に残る小松屋・加賀屋の屋号の付いた小杉・加藤・北村・木戸などの家であった。

 

村上茶の元祖といわれる徳光屋覚左衛門は本姓を土田と名乗る。徳光は越前国(福井県)足羽[あすわ]郡にある地名だし、土田は小松にその地名がある。本国は越前国徳光、生国は加賀国小松土田であったと推測される。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年7月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/07/15

018 村上城下(1)初期の村上町

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

村上が城下町らしい姿を整えるようになるのは、天正末(1591)年頃からと推察される。すなわち豊臣政権による刀狩令の徹底と侍の城下集住政策の推進によるものである。従来の侍は自分の知行地(支配地)に居住して、半農半武の生活をしていたものだが、兵は兵、農は農に分離して侍を城下に集住させた。

 

文禄年間(1592~96)の検地による『瀬波郡絵図』は、当時の村上城と城下の様子をよく伝えている。それによれば、村上町の家数は252軒とある。但し年貢納入者のみ。

 

城山の麓[ふもと]には、2棟の入母屋造り風の堂々とした建物が柵に囲まれてある。軍事的政庁であろう。家並みは現在の羽黒口から二之町、それに飯野村、尻引村(のち羽黒町)、中町村(のち上片町あたりか)に点在する。

 

村上城の城番は春日右衛門元忠。配下は20人の侍とその足軽や中間小者で、合わせると120人余である。その数に町家数に加えると372になる。

 

町人の職業構成は不明であるが、鋳物師や鍛冶職がすでに存在していた。鋳物師の山本又五郎が庄内領主 武藤義興の注文によって天正14(1586)年に鋳造した鰐口(仏堂の正面軒先に吊り下げた仏具の一種)が国立博物館に現存する。

 

鍛冶職の川村七郎次は、永禄(1558~69)頃に大宝寺(現鶴岡市)から移住したと伝えられている。

 

鋳造品の多くは仏具や生活用品の鍋釜などであるし、鍛造品は農具や包丁、釘、刀槍など、これまた生活に必須なものである。すなわち生活必需品を作る職人の来住が最も古いといえよう。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年6月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/06/15

017 方位と村上城下

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

わが国には古来神道、仏教のほかに陰陽道[おんみょうどう]がある。現在でも、家を建てるときに方位を重んずる向きがあるが、発生はこの陰陽道にあった。その教義の中で理想的な地を占めるということは、すなわち西には霊獣とされる白虎の住む道があり、北には玄武[げんぶ]の住む山があり、東には青竜の住む流水が、そして南には朱雀[すざく]のいる沼がある。これを四神相応の地という。

 

この条件を村上の地に当てはめると、西には肴町から瀬波町、松山を経て江戸に向かう道があり、北には下渡山、東から三面川が流れ、南には沢沼はないが、その替わりは桐木7本を植えればよいとされていたから理想的な地域であろう。

 

中国の古代都市はもちろんのこと、京都、奈良、江戸はじめ、各地の城下町はすべてこの思想によって建設されていた。とはいえ、まったくこの条件に当てはまらないところは、柳9本を流水に替え、桐7本を沢沼に、梅8本を道に、槐[えんじゅ]6本を山に、というように、それぞれの木を植え付ければ済む、というからかなり呪[まじな]いめいたものである。

 

しかし、その地形を現代風に解釈すれば、北が高く南が低いことは夏涼しく冬暖かい。東の流水は田地を潤し舟運の発達を促し、西の大道によって交易の活発が望まれるというところであろう。とまれ村上城下はこの条件下にあったことは確かである。

 

城を東に偏在させて、西に向って二の丸、三の丸、そして外曲輪を張り出す形式を悌郭[ていかく]式の城と呼ぶ。侍屋敷は二の丸から三の丸に上中級、その外周には下級侍、さらにその外周には町人地を設けた。城下町の特色については次に譲る。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年5月号掲載)村上市史異聞 より

 

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