イラスト:石田 光和(エム・プリント)
完成した村上城の外観を述べると、山麓下の居城はコの字形をした6間幅の内堀に囲まれ、土塁上には三層櫓1棟、二層櫓2棟、平櫓1棟を建てた。二の丸の堀は6間幅で4棟の門があった。三の丸の堀も6間幅であったが、大堀(広見とも)は城下最大の31間幅であった。
追手門(大手門)は西面の中央に、その南には飯野門を設け正面の防護施設にした。それに対して搦手[からめて](裏手)の堀は8間幅で、堀片や新町の堀は5間幅で4棟の門を備えていた。
総堀[そうぼり](外構[そとがまえ])は堀片の最東端から片町、庄内町を経て塩町に達し、一方、牛沢口から飯野を経て肴町に達する。総延長は直線距離にして東西2.3km、南北1.4kmに達する越後最大の規模であった。
ちなみに高田城は約1.4km×1.1kmであった。
山上の櫓は最高所に三層の天守櫓を建て、各曲輪(郭)[くるわ]にはそれぞれ櫓を設け、多聞[たもん]と呼ぶ廊下状の櫓や塀で連結する。山城の定番が寝泊まりする建物は、七曲がりを登りきった所から少し上の東面、つまり季節風の当たらない場所で、城郭の中央部に置かれた。
屋根は板葺であろう。当時、瓦師は畿内にはいたが、関東以北、わけて越後から東北地方には皆無であったから、運搬費などを含めると割り高となるので、多くの城は板葺にせざるを得なかった。
現存する新発田城は瓦葺であるが、江戸後期のものである。とまれ村上城は越後国内では最大の規模と防御力を誇るもので、嘉永7(1854)年、剣術修業のため村上藩を訪れた佐賀藩の牟田文之助は、堀丹後守の築いた城ゆえに、堅固の城であると感嘆している。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年4月号掲載)村上市史異聞 より