むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2023/04/15

027 村上城下町の発展(5)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

松平大和守直矩[なおのり]の家系についてもう少し詳しく述べると、その家祖は徳川家康の第二子・於義丸[おぎまる]である。生母は側室・於万[おまん]の方。天正12(1584)年、徳川家康と羽柴秀吉が争った小牧長久手の戦の講和に際し、家康が秀吉に人質(名目は養子)として出し、秀吉から羽柴姓と秀の字を与えられ、家康の康の字と合わせて羽柴三河守秀康[はしばみかわのかみひでやす]と名乗った。

 

所領は河内国(大阪)2万石、初陣は天正15(1587)年の豊臣秀吉による九州征伐。結城晴朝[ゆうきはるとも]の養子となり、下総国結城(茨城)11万1千石を領し、結城三河守を名乗ったのが18年8月。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いでは、家康の会津征討に従軍、会津の上杉景勝の西上を防いだ。

 

戦後、その論功行賞により越前国(福井)68万石のほか若狭(福井)・信濃(長野)の内を合わせて75万に封じられて越前北庄城主となった。秀康の子は長男・忠直[ただなお]、二男・忠昌[ただまさ]、三男・直政[なおまさ]、四男・直基[なおもと]、五男・直良[なおよし]で、直矩の父は直基である。

 

秀康は結城姓を直基に譲り、自分は松平姓を名乗った。ところが直基は3万石で越前勝山城主となると松平姓を名乗る。同家を結城松平と呼ぶゆえんだ。以後、2万石加えられ越前大野、さらに5万石を加えられ出羽山形、さらに5万石を加えられ播磨国姫路城に移った。直矩が生誕したのは寛永19(1642)年。直基が病没したのは慶安元(1648)年だから直矩が7歳のときである。

 

幕府の畿内・西国統治は、公家や皇室の監察として京都所司代を置き、大名の統治と監視として大阪城代を置いていたが、その役務を分担していたのが姫路城である。その西国要衝の地を幼少の城主が務まるわけがない。

 

ということで越後村上城に転封となった。村上城が戦略的に重要視されたのは、戦国期から江戸時代初期の堀氏までで、上杉氏が勢力を減退させて米沢に封じられ、また山形城主・最上義俊[もがみよしとし]57万石が家中騒動を理由に改易にされ、以後山形は譜代大名の転封地となるにおよんで、村上城はその抑止力としての任務を終わった。

 

かわって徳川の最たる恩顧大名の一時の転封地として位置づけられた。そのような時代背景から、堀氏のあと、本多氏から松平氏が転入封し、未曾有の人口増になり、新たな居住空間が造られたことは前述した。その既述のほか、現杉原に与力(警察権を持つ侍)町を新設し、さらに鷹匠町(現武家屋敷公園あたり)が建設されている。

 

長じた直矩の趣味は能狂言に人形浄瑠璃、それに軍事演習と食糧確保を兼ねた青鹿[かもしか]狩りや鷹狩りである。そのため鷹匠やその下役で鷹に捕獲させる鳥の群生状態を確かめる「鳥見[とりみ]」、鷹の餌にする鳥を網で捕る「網刺[あみさし]」、鳥の群れを追い出す犬を使う「引犬[ひきいぬ]」と称する者らが40数名もいた。

 

大規模な鷹狩りは、数日間各地を移動しながら行うもので総勢160名ほど。その場所は七湊、岩船、平林、大津、金屋、黒川、築地など広大な地域であった。獲物はヒバリやウズラで、多く獲るときは518羽を記録している。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年3月号掲載)村上市史異聞 より

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