村上大祭で引き回される屋台は19台。その内訳は、しゃぎり屋台11台、お囃子(おはやし)屋台6台、仁輪加(にわか)屋台2台です。しゃぎり屋台とお囃子屋台は、村上の工匠たちが腕を競って作った彫刻と漆の技術の粋を集めたものです。
1番 久保多町 くぼたまち
久保多町の屋台は、文化9(1812)年に造られたもので、乗せ物は「住吉の景」。大阪の住吉大社の景色を、鳥居・太鼓橋・松で表しています。屋台は後方に楽屋のある「お囃子屋台」で、楽屋衆の笛と三味線の調べに合わせて、鉦・鼓・太鼓を叩く乗り子が水色の裃を着けて囃します。祭り本番の7月7日、夜も明けない頃、夜のしじまに響く笛と三味線の音色は、村上祭りの幕開けを告げるにふさわしい荘重な調べを奏でます。
2番 大町 おおまち
大町の屋台は、明治5(1872)年の大火で焼失後、焼け残った部材を活かして再建され、昭和9(1934)年に新たに彫りと塗りが施されました。乗せ物は「諫鼓(かんこ)に鶏」です。諫鼓とは、昔の中国で君主に諫言(かんげん)したい者に打たせた太鼓のことで、平和の象徴とされています。江戸時代初期、大町の人が羽黒神社を現在地に移した時のお祝いに、城から大八車を借用して、太鼓を乗せて城内を引き回したのが村上大祭のはじめと伝えられています。
3番 寺町 てらまち
寺町の屋台は、寛政元(1789)年 に造られたものです。乗せ物は、昔の中国の道士「費長房」ですが、曽我兄弟の仇討を題材とした曽我物語に登場する「鶴に乗った仙人」としてなじみがあります。屋台を飾る彫り物は、高欄(こうらん)の部分の彫り物には、カブにネズミ、竹に虎、波に兎、欄干の龍など十二支にちなんだものが配され、上がり段の浪彫り、前庇の槌の水車など、その当時における村上城下の名のある工匠の作と伝えられています。
4番 大工町 だいくまち
大工町の屋台は、寛政8(1796)年に造られたものです。町名の示す通り、昔は大工さんが大勢住んでいた町で、屋台の構造や技法に職人の技がしのばれます。特に、小人数でも引き回しができるように、軽量化の工夫が施されています。乗せ物は、祝儀の席でもよく謡われる謡曲「高砂」から取ったもので、尉(翁)は稲垣源八、姥は稲垣政五郎の作と伝えられています。
5番 小町 こまち
小町の屋台は明治5(1872)年の小町火事で屋台を焼失後、焼け残った部材を活かして再建されたものです。乗せ物は、七福神の一神「大黒天」で、三宝(仏・法・僧)を守り、飲食を恵む神とされています。日本では、この大黒天と大国主命とが一つになり、福袋と打ち出の小槌を持ち、米俵を踏まえるという純和風の姿が一般化しました。江戸時代になると、商家では福の神として、農家では田の神として、広く庶民の信仰の対象となりました。