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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2021/10/15

009 本庄家の家紋

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

戦国時代の村上領主は本庄越前守繁長である。祖は源頼朝の有力御家人であった秩父季長(すえなが)。繁長の代で越後国主・上杉謙信に臣従し、上杉の最有力者となる。

 

繁長の内室は古志十郎景信(謙信の母の実家で、栖吉(すよし)城主=長岡市)の妹、その本庄に謙信の跡を継いだ景勝は、上杉景信の名跡を継がせ、竹に雀の紋を贈った。

 

同紋は米沢城主・伊達稙宗(たねむね)から越後国主・上杉定実(さだざね)に贈られ、定実から謙信に贈られていた。景勝の思惑は、本庄を上杉一門の上座に据えることにより、本庄の支配力の向上をはかり、阿賀北の抑止力にすることにあった。時あたかも新発田重家の反乱の鎮圧中である。

 

本庄家にとっては名誉この上ない話であるが、繁長はこれを辞退している。理由は、本庄は桓武平氏畠山の流れであるから、藤原上杉に替えることはできない。

 

本庄の家紋は源頼朝から拝領した57の桐の紋だ。その由緒ある紋を廃することはできない。

 

上杉の名跡を継ぎ、紋まで替えては先祖に対し筋目がたたぬ、つまり名誉や地位よりも筋目を大切にするというものだ。けれど景勝は引っこみがつかない。

 

結局、竹に雀の紋を表紋にし、桐の紋を裏紋に使用することのみで落ちついた。ほかに上杉家中で竹に雀紋を使用している家は、山浦家(信濃国の亡命大名・村上義清家)であるが、同家の紋は石榴(ざくろ)色である。

 

本庄家の場合は上杉家とまったく同じで黒白である。繁長が越前守の受領名を名乗るのもこのとき、天正11(1583)年7月12日である。

 

算盤ずくで損得勘定の人間からすれば、頑固とか愚直といおうが、血脈とか家筋を重んじるわが国の伝統からすれば当然ともいえよう。しかし、本庄繁長のような武将は地味で自己宣伝が下手だから有名になりにくい。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年9月号掲載)村上市史異聞 より

 

2021/09/15

008 七夕(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

ねぶたは青森や秋田で有名だが、もとは「ねむり流し」あるいは「ねぶり流し」といい、西日本や関東などでも広く行われていた行事である。

 

睡魔を流すために川に入るのだ。それが七夕の禊(みそぎ)と結びついた。『村上町年行事日記』にねぶり流しの記事が見られるのは江戸中後期(1740~)からで、子ども中心の行事であった。

 

太鼓を打ち鳴らしながら川原に出、穢(けがれ)のついた笹を川に流すというものである。獅子舞を舞うようになるのは1700年代の後半からのようだ。これを子ども大々神楽(だいだいかぐら)と呼んでいた。広めたのは伊勢内宮御師(おし)と考えられる。

 

しかし、その七夕信仰はわが国古来の祖霊を迎え、延命を祈願することから離れ、中国からもたれされた乞巧奠(きっこうでん)=星祭りである。短冊に願いごとを書いて星神に祈る。あるいは諸芸の上達を祈願する行事である。

 

そこで欠かすことができなかった食物はそうめんであった。大名の七夕の祝儀物にも使われるほどだ。また、和歌を7枚の梶の葉に書き、7筋のそうめんで束ねる、とは松平大和守が記している。

 

獅子舞の囃し言葉に「小野小町の花の色」という文句がある。これは簓摺(ささらすり)の衣装と相まって、七夕の日に京都などで行われていた華やかな衣装の小町踊りの影響であろう。「花の色も移りて小町踊」の文言が残っている。それを風流踊と呼んでいた。「ふうりゅう」とは呼ばない、「ふりゅう」である。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年8月号掲載)村上市史異聞 より

 

2021/08/15

007 七夕(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

盆、正しくは盂蘭盆(うらぼん)、精霊会(しょうりょうえ)ともいう。7月13日が入りで初日であるが、実は7日が初まりであった。その日の夕方、やがて訪れる先祖霊に献ずるため、あらかじめ水辺にかけて置いた棚の上の機(はた)で布を織る。それが7月7日の夕方に行われることから七夕と書いて「たなばた」というようになった。

 

それから精進潔斎すること7日間、いよいよ祖霊が常世波(とこよなみ)に乗って訪れると、本格的な盆行事に入ることになる。これが日本の七夕信仰であったが、中国から牽牛(けんぎゅう)と織姫神話が移入されると、七夕は星祭りの要素が強くなる。

 

さらに、ねぶり流し(睡魔を祓い流し、無病息災を祈願する俗信)の行事がつく。

 

あるいはまた、伊勢信仰が流行する江戸後期になると伊勢神楽が重なり、二重三重の層をなし、本来のたなばた信仰がまったく失われてしまった。

 

たなばたがわが国古来の神道、仏教に結びつく証拠の一つは供物でもわかる。すなわち、その日には鯖(サバ)を供える習慣であった。あの魚の鯖だ。なぜ鯖なのかであるが、元は豊受大神(とようけのおおかみ/稲荷大明神)へ供える神饌(しんせん)を産飯(さば)と言ったことに起因する。それがやがて寺院の食物になると、盆には鯖を蓮の葉に包み、盆鯖と称して菩提寺などに届けるようになる。

 

岩船では、葬家の家の前に小さな棚を設け、その上に餓鬼に施す握り飯をあげる風習があり、それを「サバ」と呼んでいた。すなわち施餓鬼供養(せがきくよう)の供物である。

 

そういえば岩船の七夕丸の行事は、舟で彼岸(ひがん)と此岸(しがん)を渡海するもので、日本の原初の信仰形態を伝えていて貴重なものだ。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年7月号掲載)村上市史異聞 より

 

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