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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2021/07/15

006 羽黒神社の祭日

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

村上羽黒神社の祭礼は、暦のころは6月7日であった。明治になり太陽暦になると7月7日になったが、季節的には変わりがない。では、なにゆえ雨期のさかりに祭りをするのか。羽黒神社の社殿が建立され、遷宮祭が行われたことに端を発する。確かにそれはそうだ。けれど、そんな単純な理由だけではあるまい。

 

祭神の月読命(つきよみのみこと)は「青海原の潮流を治め」る霊威を持つ、とは『日本書紀』の記すところだ。されば潮の干満を制御する月の運行に関るということになり、月の宇宙神と水霊を崇める信仰ということになる。

 

そのように考えると、梅雨のさなかに神を招き祭りを行うことは、月神=水神の霊力によって、水の過不足を調節して水害を防止し、豊作を祈願するためであったといえよう。

 

同社が農耕神であるもう一つの証拠は、合祀する倉稲命(うがのみたまのみこと/稲荷大神)と奈津比売命(なつひめのみこと/正しくは夏高津日命 なつたかつひめのみこと)であることだ。稲荷さまは説明するまでもなく、稲なりの神だ。

 

夏高津日の父神は羽山戸神(はやまどのかみ)で、山形県長井市白兎に葉山神社があり、大きな信仰圏を持っている。白兎は月を擬したもので、羽山=葉山は山神である。山神は春に里に降りると農耕神に変ずる。江戸時代初期の村上藩主・堀直竒(なおより)によって祀られた羽黒神社の祭礼は、水害の発生しやすい時季でなければならなかったし、作物の成長が一段と進む前でなければならなかった。

 

梅雨を乗りきり夏を越し、豊かな秋を迎えることを願ったのだ。いったい祭礼には人々のもっとも切実な願いがかけられる。災害・疫病・凶作などの忌み避けるべきこと、豊穣などへの期待すべきことで、それは過去も現在も変わらない。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年6月号掲載)村上市史異聞 より

 

2021/06/15

005 夏越(なつこし)のみそぎはらい

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

いまさら言うまでもないが、6月晦日は夏越の大祓の日である。この行事は全国いたるところの神社が行っていて、夏に浮遊して人々に禍(わざわい)や疫病をもたらす邪霊を祓い、延命を祈願する行事であるといわれている。その日に無病息災を得るために行う「茅の輪(ちのわ)くぐり」という呪(まじない)ごともある。

 

すなわち、強くて生命力の旺盛な茅(かや)には、神霊が宿るとされていたから、茅を束ねた輪をくぐることにより、神威が身体に憑(つ)くと信じられていた。また、この日には牛を海水に浸して害虫を落とすことも行われていた。これが土用の牛湯治に移行する。

 

しかし、わが国で牛が広く一般に農耕用として使用されるのは江戸時代からで、その以前は馬の使用が多い。平林城主 色部氏の『色部氏史料集』に6月の行事の「馬越(むまごし)」の到来品として「御茶、扇、白蒜(ひる)、干魚」などが記されている。

 

この馬越とは一体なにを意味する行事であろうか、と疑問であったが、馬の夏越であろうと推察するにいたった。それが牛の使用が多くなると牛の夏越に変わっていったと考えられる。

 

とはいえ、こうした行事は比較的時代が浅く、もともとは歳末の大晦日と同じく6月晦日も祖霊神を迎える日であったとされている。晦日から神を迎える準備をして、7月7日から精進潔斉に入り、盆の13日に祖霊が訪れるとすると、7日ごとの節目で月の満ち欠け・潮の干満に深く関わってくる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年5月号掲載)村上市史異聞 より

 

2021/05/15

004 雛と端午の節供(句)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

もともと雛(ひな)は飾る人形でなく、身体についたケガレをはらってもらう形代(かたしろ)であった。その形代を作って天皇に献じ、天皇はそれを一晩そばに置いて、翌朝、3月巳(み)の日に川に流したものだ。

 

そうした風習を室町時代の中期(1450年頃)に足利将軍もならい、しだいに民間にも広まった。

 

家々で雛人形を飾るようになるのは江戸時代の初め(1600年頃)からであるが、3段や5段飾りではなく単独である。享保年間といえば、徳川将軍・吉宗の治世であるが、この将軍は倹約家で有名。その倹約政策の一つに1尺(30cm)以上の人形は作ってはならぬ、という条項がある。

 

これを山下幸内という人は一笑に付し、人形を買う人間は金持ちである。人形師はその日暮らしの人が多い。金持ちにこそ金を使わせるべきなのに、「恐れながら御器量せまく、おっつけ日本衰微(すいび)のもとにて御座候」と文句をつけた。

 

人形師は人形師で、ならば小さな人形ならばよかろうと、象牙などの材料で精巧この上ない高価で小さな人形を作るようになる。いわゆる罌粟(けし)雛の誕生だ。

 

旧暦の5月5日は薬草刈りをする日であった。ショウブやヨモギは薬草で、チマキを食べることは疫病をさけるためであった。元来この日は悪日とされていたので、5月4日の夜に女性はショウブやヨモギで葺いた小屋にこもり、食事を摂る習慣であった。

 

それが男の節句になるのは江戸時代になってからだ。城中に鎧や長刀などを飾り、白旗を立てたものだ。武者人形を飾るようになるのは江戸中期(1730頃)からである。

 

幟旗(のぼり)は、もともと小さな旗であったが、しだいに大きくなる。旗には霊力が籠るとされ、自己顕示の目的もあったから、戦陣には大小夥(おびただ)しいほどの旗を立てたものだ。

 

鯉のぼりは18世紀の中頃からで、はじめ京都・石清水八幡宮の土産物であったという。鯉は出世の象徴であるがゆえに、江戸を中心に流行した。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年4月号掲載)村上市史異聞 より

 

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