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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2025/12/20

059 越後永正の大乱と三面村の先祖(1)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

鎌倉公方と呼ばれた関東の足利氏のもとで勢力を張り、越後国守護職に任じられた上杉氏は、鎌倉山内[やまのうち]に居を定めた山内上杉氏と扇谷[おうぎがやつ]に本拠を置いた扇谷上杉氏があった。のち山内上杉を継ぐのが上杉謙信であり、扇谷上杉は小田原の北条に滅ぼされてしまう。

 

とまれ、いまだ足利将軍時代、とはいえ将軍の威勢はようやく衰え、各地に下克上が横行し反逆は日常茶飯事、主殺し・親殺しが相次いでいた。文明5(1473)年に扇谷上杉を継いだ人物を上杉定正[うえすぎ-さだまさ]という。この定正のもとで実力を十分に発揮して活躍したが、非業の死を遂げたのが太田道灌[おおた-どうかん]である。

 

『七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』と詠んだとされ、文武両道に達した武将である。実際、道灌の実力は比類ないもので、数々の合戦では武功を挙げ、江戸城を築き、学問は鎌倉五山で励み、また山内上杉との関係も良好にすべく斡旋に努めた。ところが、その才能を妬んだのが主君・定正である。実は関東での最高位である関東管領職は山内上杉のものであったから、山内上杉にも尽くす道灌を憎んだものかもしれない。

 

あろうことか定正は、甘言を用いて道灌を誘い殺してしまった。烈火のごとく怒ったのは、山内上杉の当主・顕定[あきさだ]である。その顕定に味方したのが、越後守護職であった父の房定[ふささだ]と弟の房能[ふさよし]である。ところが不幸にも房定は間もなく病死し、その跡は房能が継ぐ。長享2(1488)年頃である。

 

この越後守護・上杉の守護代を務めていたのが長尾為景[ながお-ためかげ]という人物で、その子がのちの上杉謙信である。守護代という職は、守護職に代わって政務を執るものであるから、府中(春日山城)に常住している。また、守護職・上杉の執事(家司の長官)の任にあったのが山吉氏である。その山吉は、長男の景久[かげひさ]は三条城にいて、弟の盛春[もりはる]は妻有城(十日町市)の城将であった。

 

ところ上杉房能と長尾為景の間で確執が惹き起きる。その理由を『鎌倉管領九代記』は、房能が侫人[ねいじん]*の讒言[ざんげん]を信じ、為景を討つべく支度していたのが発覚したのが発端という。また『編年上杉家記稿』は、上杉房能に苛政[かせい]**が多く、それを為景が諌言[かんげん]したが、房能が聞き入れず、両者の間が悪化したと記されている。両者とも信じるに足りない話である。
*侫人 …口先巧みにへつらう、心のよこしまな人
**苛政 …厳しい政治

 

端的にいえば、家運の傾きかけてきた守護職・房能とそれに替わって政権を握ろうとする守護代・為景の勢力争いであろう。そこで戦局を優利に展開するには、多くの土豪や国人領主を味方に付けることである。その手段の一つは、いかに自分に正統性があるかということを掲げなければならない。そのためには多くの武将が納得する人物を旗頭に据える必要がある。さてその人物は誰ぞと沈思黙考した為景は、そうだ房能の養子の定実[さだざね](越後守護上杉氏の分家、上条[じょうじょう]上杉=柏崎居住)がよいと判断した。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年11月号掲載)村上市史異聞 より

 

2025/11/15

058 次太郎騒動(12・終)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

古舘村の常光寺へ逃げ込んだ次太郎であったが、その後ろ姿は数人の追手に発見されていた。寺といっても、そうばかでかい寺ではない。それに住職もいるが、次太郎は溺れる者は藁をもつかむ思いであった。さればと追手は寺を取り巻き、じりじりと包囲網を縮めてゆく。

そして口々に、「抜かるなよ。縁の下は? 位牌壇の下は見たか? 須弥壇の下も見ろよ」と言って、片っ端から物陰を見て回ったが、「いない、……いない。さては逃げ去ったか」。一瞬、追手一同の上に狼狽[ろうばい]が走ったが、いずれにしても、そう遠くは行けまい。近くに潜んでいるに違いないとして、探索の手を外方に向けたところ、ほどなく裏手の方がなにやら騒がしい。古い墓地を隔てて蕗[ふき]畑が広がるところだ。次太郎は、その蕗畑に背を丸めて潜んでいたところを発見された。

 

南無三宝[なむさんぼう]、絶体絶命、もう逃れるすべはない。次太郎の上に電撃が走り、青い閃光が放電する。恐怖で背が硬直する。数を頼んだ追手は、四方八方からわっと次太郎に折り重なり、たちまちのうちに縛り上げてしまった。そこへ大塚万右衛門が駆けつけると、次太郎の顔を見知った者が「大将、この者が次太郎! 首謀者の次太郎ではや」、「む、でかした」と大きくうなずいた大塚は、中条へ連行するように命じ、そのかたわら残党の探索を命ずる。けれど命ずるまでもなく、次々と各方面から犯人捕縛の注進が入る。煩雑ゆえにその名をいちいち挙げることは避け、各役所の牢に入れられた人数を記す。

水原役所は7人、柏崎役所は12人、黒川役場は11人、松平小豊治知行所(現荒川)は20人、村上役場へは庄内町の大工・佐太郎が護送されていった。ほか大小合わせて140人である。

 

もとよりこの一揆の原因は、不作から生じた生活困窮であるが、菅田村庄屋兼帯[けんたい]の中村浜庄屋の佐藤三郎右衛門が困窮村民の土地を高利で質に取り、しかもその土地を質流れにしたことに強く反発したことからでもあった。とまれ暴徒の多くは、扇動されて付和雷同した者である。また首魁[しゅかい]の次太郎らの計画もかなり杜撰[ずさん]なものであったがために、一端がほころびるとたちまち壊滅したのである。けれど、逃亡して行方不明になった者が4人いた。そのなかの一人で上鍛治屋村の与吉は、虚空蔵山へ逃げたという情報であったが、その後は杳[よう]として不明である。もっぱらの噂は「与吉が信仰する虚空蔵様が隠したのだわ」だ。

 

吟味の主たる目的は、首謀者の洗い出し、落とし札を書いた者、扇動して歩いた者、暴行者などを明らかにすることである。白状すれば許されたが、口の堅い者には石抱きや海老責めがあった。次太郎には九貫目*の石を2枚抱かせ、遠島を命じたところ獄死した。なぜこれだけの拷問を行ったかというと、一揆は国に対する反逆と見なしていたからである。(木ノ瀬祐助氏所蔵史料)
*約34kg

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年10月号掲載)村上市史異聞 より

 

2025/10/15

057 次太郎騒動(11)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

岡雄左衛門の手代・大塚万右衛門は、500の手勢を引き具して*高畑村に到着した。そこで、村松浜にはいまだ暴徒の残りがいることを知る。さればと大塚は、「500を3隊に分けて、1隊は浜道、1隊は松原道、もう1隊は本道に分かれて進め。こうすれば暴徒も逃げ道を失うじゃろう。よし、されば進撃!」と采配を振り下ろすと、手勢は勇気奮発、「おう!」と喚声を上げ、3隊に分かれて里道を駆け出した。村松浜は、高畑の南西で中間地点に築地村があり、何程の距離でもない。片や暴徒は指揮系統もなにもない。逃げ失せた者もいたが、村内をうろうろしている者もいた。そこへ鎮圧隊が三方からどっとなだれ込む。
*引き連れる、伴う

 

たちまち、あちらこちらで3人、5人と捕えられ、都合10数名が捕縛されてしまった。しかし、その中に首謀者らはいなく、雑魚ばかりであった。

こは*首謀者たる次太郎はじめ、重立ら**はいずれにいたか。そうだ、かの次太郎と上鍛冶村の与吉らは、次々と手下が捕えられているのに荒井浜の庄屋・忠右衛門を強請[ゆす]っていたというからめでたい話である。いわく、「放出する米は五百俵あるいは千俵。そして、その分は今ここで金子[きんす]に替えてくれ。否か、否とあれば実力でも奪うがどうだ」と要求された忠右衛門は、困惑と苦渋の色を眉に表わし、頬を陰らせて、「そう言われてもねんし、そのような大金は持ち合わせがない。金策してくるからそれまで待ってくたせ。」そう言って、裏では小者を大塚のもとに走らせた。
*(疑問・感動の気持ちを表すときに用いる古語)これは
**集団の中で主要な人物

 

やがてその使いが立ち帰る。村役人は触れを出して村人を集め、忠右衛門の屋敷を取り囲もうとする。そうした様子を察知した次太郎は、眉を寄せて、「すわ手が回ったか、こうしてはいられぬ」と思い、脱兎になって逃走する。胎内川の大出の渡しを越え、古舘を経て、山中に逃げ込もうとしていた。ところが、その次太郎はたちまち発見され、大勢の百姓は口々に、「それ追いかけろ。大出村にも知らせよ」と道幅いっぱいになって追いかける。あるいは報せを受けた大出村もまた百姓らで包囲網をつくる。次太郎は、「ここで捕まったら百年目だわ」とその追手をくらますために柳の木立のやぶ陰に潜んだ。

 

突然、次太郎の姿が見えなくなったものだから追手はうろたえ、「やや、どこへ行った。どこさ隠れやがった」といささか狼狽[ろうばい]したが、次太郎が潜んでいるところを見ていた子どもらがいて、大声で、「ここにいるどー! ここだぞー!」と叫んだ。泡を食ったのは次太郎だ。「ええい、くそがきが」と言いながらそのやぶを脱し、必死になって古舘村を目指した。やがて行く手に寺の屋根が見えた。常光寺という寺だ。次太郎はそこへ飛び込む。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年9月号掲載)村上市史異聞 より

 

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