HOMEおすすめ特集 > むかしの「昔のことせ!」

むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

contents5103_bnr

  

 

現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

***
著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
***

 

2024/01/15

036 侍の正月(2)

%e4%be%8d%e3%81%ae%e6%ad%a3%e6%9c%882

イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

慶応2(1866)年の正月2日は晴天だった。今年の暦*であれば2月4日立春にあたる。まさに新春と呼ぶにふさわしい天気といえる。その日の朝、中嶋源太夫は藤基神社へ詣で、それから光徳寺。ついで親戚筋の二ノ丸、三ノ丸、羽黒口、飯野の各家。そして、安泰寺へ挨拶に回る。
*2011年のこと

藤基神社
https://www.sake3.com/spot/317

光徳寺
https://www.sake3.com/spot/2451

安泰寺
https://www.sake3.com/spot/6680

 

3日も晴れた。関口流柔術の師範・塚本斧右衛門が挨拶にきて、江戸屋敷の道場の監理者の交替を告げて帰る。入れ替わり青山野左衛門がきて、稽古始めに門弟に酒肴を出してもよいかと問い合わせる。

それについては、中嶋のみの判断では返答できぬから、他の番頭衆にも相談して返答すると言う。時中流の宮川唯右衛門も同様の用件で訪れる。

 

4日も晴天だった。午前中は羽黒神社へ参拝のため忰[せがれ]の岩吉と若党の兼吉を供にして家を出る。若党は私有でなく、藩有だから、私用に使う場合は藩の許可が必要である。その人事監理は大納戸格(財産監理)の脇田重左衛門である。

西奈彌羽黒神社
https://www.sake3.com/spot/54

 

羽黒神社では神酒を頂戴して、神官 江見安芸に賀詞を述べて下山し、菩提寺の善行寺へ仏参する。

午後からはあまり良い天気なので下男の斧次に投網を持たせ、瀬波から岩ヶ崎、大月へと散歩に出かける。土手にはまったく雪はなく、まさに春の陽気である。

瀬波の潟では、家中の嶋田丹治らがウグイ捕りに興じていた。岩ヶ崎へ行くと、船小屋あたりに柴田茂左衛門や鳥居存九郎、水谷孫平治、重野兵馬、中尾専之助、牧大助が莚[むしろ]を敷き、日向ぼっこをしていた。

七種[ななくさ]も近いからと菜の花を探すけれど、なかなか見つからず、ようやく4、5本を得ることができた。大月村の善福寺の住職と安泰寺で懇意になったことから訪ねると、土産に「かたのり」をくれた。

岩ヶ崎に戻って魚でも買うべく尋ねると、船が出ないため漁はないという。そこで「雪海苔」3枚を求めたところ、1枚65文というので、あまり高いのでびっくりした。しかし、これで土産を得ることができた。

瀬波で日暮れになり、佐野銨之丞[やすのじょう]と連れになった。そのとき、銨之丞が菜の花を欲しい様子なので2本福分け*してやった。
*人から贈られた物を他の人に分け与えること

 

5日、小野田徳三病欠の届けがある。この日は当番であったから、熨斗目麻上下*[のしめあさかみしも](腰部に格子や筋を入れた小袖)着用で九ツ時(正午)登城、欠勤者の欠勤理由を記入して帰宅する。他の出勤者は木綿の紋付を着用していたことから、以後は木綿紋付にすることにした。
*重臣の正式礼装

 

7日、七種の嘉儀につき親しい人らが祝儀にくる。家に伝わるしきたりは、この日肉桂*[にっけい]入りの粥を食べることである。
*肉桂の渡来は江戸中期、健胃薬に用いる

馬術稽古始めにつき上下を着て見聞にでる。自分にも乗馬を勧められたが、脚気を理由に断り、神酒だけ頂戴して帰宅した。

これが、中嶋源太夫のまことにのどかな正月であった。武家社会が大音響をたてて崩壊する明治維新の2年前のことである。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年2月号掲載)村上市史異聞 より

 

2023/12/15

035 侍の正月(1)

%e4%be%8d%e3%81%ae%e6%ad%a3%e6%9c%881

イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

今回は、侍の正月を書く。

 

人物は、村上内藤藩で番頭[ばんがしら]を務める中嶋源太夫。番頭といえば、家老の次に位置する高官である。知行は300石から230石で、人員は5人で交替しながら執務にあたる。その下が物頭[ものがしら]、大目付、奉行、大納戸、作事奉行、記録役、給人馬廻[きゅうにんうままわり]の順となる。

 

番頭の役目を一言でいえば、軍務に関わる一切である。例えば、有事における指揮命令、軍備、武術の奨励と稽古などに関することである、といえば、番頭は武術に秀でた歴戦の勇士を思い起こす、が、侍社会は世襲だから個人の能力には関係ない。先祖が番頭であれば、その子孫も番頭である。

 

中嶋の家祖は、与五郎といって寛永中期(1633)に内藤家に仕えた。番頭に就任したのは三代・金右衛門からである。近江源氏で旧姓矢葺を名乗り、もとは蒲生家(24万石の大名。寛永9(1632)年、家中騒動により領地没収され絶家となる)の家臣であった。与五郎は蒲生家では武功の侍であったと見られる。

 

源太夫の年齢は30代の前半、真面目で几帳面で達筆であるが脚気の持病がある。時代は幕末の騒乱期である。京都では、会津藩主の主導のもと尊攘浪士に弾圧が加えられ、幕府は長州藩の征討に乗り出す。薩長連合は幕府転覆の好期到来と談論風発、軍拡に熱をあげているとき。村上藩では至極のんびりした正月を迎えていた。以下、慶応2(1866)年、源太夫の松の内である。

 

まず元旦、嘉例の祝いとして屠蘇酒は年少者からで納盃は祖母、続いて雑煮餅で祝う。年頭の祝儀に五ツ時(午前8時)登城。式服は主君から拝領の下がり藤紋の麻上下を着用。

 

同役の鳥居杢左衛門と美濃部貢は病欠。出勤は岩付太郎左衛門と川上滝之助と源太夫で、着座するとその前へ6名の物頭と長柄奉行が年頭の祝儀を述べるため着座する。

 

つぎは、江戸家老・脇田蔵人[くろうど]が報せてきた若殿の元服の嘉儀を、総出仕した家来の前で披露する。ついで家老への挨拶のため家老の詰所に赴く。

 

それが済むと徒士目付がやってきて、記録簿の点検を依頼してゆく。点検者は番頭と物頭である。

 

年頭のお礼は大書院で行われ、受けるのは家老で、役職の上位から順に済ませ、礼を述べ、終ると駒の絵の屏風のうしろへ引き下がる。そのつぎには、主君の元服の祝儀を述べるため、物頭とともに家老詰所に赴くよう大目付から達しがある。

 

詰所内では、着座すると扇子をとって一同お辞儀をする。

 

すると岩付から「殿様旧臘[きゅうろう=前年12月]15日お日柄能くおん前髪とりなされ恐悦に存じたてまつりそろむね」と申し上げると、一同平伏する。

 

ついで川上が家中一同に代って祝儀を述べ、源太夫から鳥居と美濃部の病欠を述べると、扇子を差して退きさがる。などなど、まったくあくびを噛み殺すような虚礼の連続であった。退城は八ツ時(午後2時)前である。以下次回。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年11月号掲載)村上市史異聞 より

2023/11/15

034 政局に揺れる村上城下(5)

%e6%94%bf%e5%b1%80%e3%81%ab%e6%8f%ba%e3%82%8c%e3%82%8b%e6%9d%91%e4%b8%8a%e5%9f%8e%e4%b8%8b5

イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

松平輝貞在城時の村上の様子は、史料を欠くためよく分からない。ある程度伝えているのは『村上城主歴代譜』などの野史*である。
*正史=公刊の歴史書、野史=非公刊の歴史書

 

本多家は15万石から5万石に減知され、松平輝貞家のとき7万2千石に増知されたとはいえ、家臣は大幅に減少した。その該当者は中間・足軽・徒士ら下級藩士であった。そのため足軽長屋や与力町などはがら空きになり、町人から接収した土地は旧地主に返却したことは既述した。しかし、駒込町の一番丁から四番丁までと片平町や御徒士町などは受け取り人がいない。そこで松平家では売却することにして検地を始めた。正徳2(1712)年のことである。

 

土地の面積と価格は、駒込町の東方の畑地1反、西方の畑地1反が1両3分ずつ。二番丁1反が3両1分、三番丁東方が3両2分、竪町南方が2両2分であった。しかし誰も買う者はいない。そこで藩は、若狭屋九兵衛と松屋忠次郎に命じて売らせたところ、片平町1反は7両余に売れ、徒士町は4両に売れた。(堅町・片平町・徒士町は駒込町の隣地か)

 

その他の払地は、若狭屋と松屋が買ったようであるが確たる証拠はない。両者は当時、村上を代表する分限者[ぶんげんしゃ=財産家]であろうから、藩は強制的に買わせたと考えられる。それらの長屋はことごとく破却され、材木は他の家屋の修繕用にされ、平地は茶畑や田畑に変った。久保多町北裏の足軽長屋や肴町から鍛冶町北裏の足軽長屋も姿を消し、荒地となったり畑地になった。また飯野や与力町にも空地が広まっていった。

 

売却代金11両は荒廃した侍屋敷の修理代に回した。堀家入封以来91年間もの間、大名の入転封が繰り返され、家臣の屋敷は荒れるにまかせていたのだろう。城内の荒廃もひどかった。山麓居城の正面に架かる刎橋は使用不能であったし、城内の備品であった鎧は縅[おどし]糸が朽ちてぼろぼろになっていた。それを松平家も放置していたが、間部家との交替が決まった享保2(1717)年、そのまま間部家に渡すことは体裁が悪いと思ったのか、藩主・輝貞は刎橋の修繕を家臣に命じている。平和な世では城や武具などは無用と思っていたのかもしれない。

 

反面、輝貞は五代将軍・徳川綱吉への追慕の思いは強く、常憲院[じょうけんいん=綱吉]の御霊屋を羽黒口の天休院(のちの光徳寺)境内に建立している。規模は3間に4間の内殿で、大工は江戸から呼び寄せた小森谷金助。内部の装飾はこれも江戸の絵師・長谷川東林雪艚を呼び寄せて描かせた。よほど豪華な堂であったものか、1万千両もの工費であったという。「犬公方」と陰口を叩かれた将軍でも、輝貞にとっては大事な人であったのだろう。常憲院の廟は、松平家が高崎に移るときに解体して運んだという。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年10月号掲載)村上市史異聞 より

先頭に戻る