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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2026/06/20

065 越後永正の大乱と三面村の先祖(7)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

それにしても、上杉顕定[うえすぎ-あきさだ]は三条から糸魚川[いといがわ]までと兵站[へいたん]*線を伸ばしすぎた。さらに自軍、つまり本隊は長尾為景[ながお-ためかげ]勢を追討するため、最前線の越後・能登境まで進出したのである。一方、これを逆襲し鉄槌を下すため、為景は北信濃の高梨摂津守政盛[たかなし-せっつのかみ-まさもり]や糸魚川の村山越中守盛義[むらやま-えっちゅうのかみ-もりよし]とその子・直義[なおよし]を味方につけた。その傍ら、東の伊達陸奥守尚宗[だて-むつのかみ-ひさむね]へは再三再四の援軍を要請し、また足利[あしかが]十代将軍・義稙[よしたね]も伊達の参戦と上杉定実[うえすぎ-さだざね]への加勢を要請してくる。
*兵站 …戦場の後方にあって食料や軍需品を補給したり、連絡にあたったりする機関

 

いよいよ戦機は熟し、ついに戦端が開かれたのは永正7(1510)年5月20日。村山直義軍が今井や黒岩に陣取る顕定勢に攻撃をかけ、一方的な勝利を得た。一方の高梨政盛も越後入りをして板山に布陣したところ、これがまた顕定勢に蹴散らされてしまった。勢いを得た顕定勢は、蔵王堂の長尾為景勢に攻撃をかけて勝利を得た。景気風は上杉顕定に向かって吹いていたようで、その風に乗って阿賀野川[あがのがわ]以南の武将は、三条と護摩堂を除いたほかは顕定に味方したのであった。

 

ところが、そうそうことは単純ではない。上杉定実も長尾為景も顕定に負ければ元も子もない。築き上げた地位が微塵になって吹っ飛ぶのだ、なんとしても形勢を逆転させねばならぬ。それには上条[じょうじょう]城主の上条定憲[さだのり]を味方につけ、さらに上州の長尾景春[かげはる]に援護を頼むことだ。

 

ところが関東方面も火のついたような騒ぎになった。小田原城の北条早雲[ほうじょう-そううん](宗瑞)が足利義明[よしあき]に加担し、関東公方の足利政氏[まさうじ]と一触即発の状態となったのだ。そのきな臭さは一気に燃え上がり、政氏派の長尾景春は攻められて滅亡し、また父・政氏と争った足利高基[たかもと]は古河[こが]から関宿[せきやど]へ退いたという。北条早雲の画策による公方[くぼう]の主導権争いである。

 

関東が動乱となると、関東管領の任にある上杉顕定は鎮定に軍を向けねばならない。しかし、「関東帰国も急ぐが、まずもって弟の房能[ふさよし]を敗死させた憎きやつめらを打ちのめしてくれねば。よし、されば為景や政盛に味方するやつらばを探し出して、片っ端から息の根を止めよ」。その下知を受けた部下の所業がまた凄まじく、敵と目される者を発見しては首をはねる・突き殺す・破壊・没収・放火、目に余る狼籍であった。その上、顕定と子息・憲房[のりふさ]は高梨政盛がこもる椎谷城に襲いかかる。

 

しかし、城中の将兵は意気軒昴。その上、顕定父子の暴虐を恨んだ将兵が加勢しているから強い。200余の兵が堀を越え、塀を倒し、逆茂木[さかもぎ]を引き抜き攻め入った。これを阻止する高梨勢とが激しい戦闘を展開する。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年5月号掲載)村上市史異聞 より

 

2026/05/15

064 越後永正の大乱と三面村の先祖(6)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

色部[いろべ]の平林要害が陥落したのが永正(1508)5年5月23日頃、竹俣[たけのまた]の岩谷[いわや]城が形勢不利となって降参したのがその年の秋であった。してまた村上の本庄時長[ほんじょう-ときなが]は翌年正月28日に病没してしまった。あっけのない最期であった。あるいは生得病弱であったのか、それゆえ覇気がなく戦わずして為景[ためかげ]に降ったのか。以後、村上城と瀬波郡は時長の嫡子・房長[ふさなが]の統轄するところとなる。

 

その前、足利幕府は上杉定実[うえすぎ-さだざね]が勝利を収めた報告を受けて、定実を越後守護に任じ、為景をその補佐役にすると伝えてきた。為景はこれで越後国主の座に手が届くところにきたのである。しかし、事はそう簡単には運ばない。鎌倉山内[やまのうち]にいた関東管領の上杉顕定[あきさだ]が、弟・房能[ふさよし]戦没の報告を受けて烈火になって怒った。

 

房能は家臣の長尾為景に殺され、分国の越後は分捕られてしまった。敵をこのままに捨て置くことは、家門のための腹臣の痼疾[こしつ]*となる。ただちに為景らを退治し房能の霊をば慰撫すべし、として一方の大将を子息の憲房[のりふさ]として、自らも大将となり、総勢8千を引き具して三国峠[みくにとうげ]を越えて越後に攻め入ろうとしたのが永正6(1509)年7月28日のことである。
*痼疾 …長い間、治らない病気

 

そのことが為景や定実に聞こえると、為景はその大軍を迎え撃つにはわが軍勢だけでは不足である。また色部や本庄、八条ら下郡衆が兵を挙げ後方をおびやかし、中郡では山吉・上条・桃井・石川らが挙兵したならば由々しきことになる。本庄らの牽制には伊達に援軍を頼むべし、と判断して手を打つ。

 

されど顕定と憲房に率いられた将兵は、燎原[りょうげん]の火のごとく、上州の沼田や白井、信濃口の城を瞬く間に陥落させてしまった。泡を食ったのは定実と為景だ。伊達の援軍はいまだ越後入りをしていない。この様子では敗戦は必定。されば一旦、能登・越後境に退くべし、となり糸魚川[いといがわ]まで退いた。

 

善戦したのは三条城の山吉能盛[やまよし-よしもり]だ。城は平城であるが、五十嵐川[いからしがわ]を前にして、一方は信濃川が流れている。舟がなくては渡ることはできない。要害堅固、堀を回したようでその深さは分からない。この城には顕定軍も攻めあぐねた。

 

そのうち伊達尚宗[だて-ひさむね]も、長井衆に命じて越後進軍の兵を整えたと伝えてくる。また、幕府は定実を援護するといってくる。これに勢いを得た為景と定実は、されば一旦佐渡へ渡航し、しかるのち本土に上陸すべし。目指すは三条城。かの城を救出することは、顕定軍を敗走、壊滅することになると判断する。

 

図らずも三条城の山吉は、鎌倉勢を引きつけておき、その後方を為景に襲撃させる役目をすることになった。これが功を奏するのだ。為景勢が佐渡を経て上陸したのは永正7(1510)年4月20日で、蒲原[かんばら]浦(新潟)である。海路を選んだわけを推測するに、陸路は信州衆の高梨や糸魚川の村山らが為景に応じたが、鎌倉勢に阻害される恐れも十分に考えられる。また、親不知[おやしらず]などの天険[てんけん]*を避けるためと思われる。
*天険 …(山地などの)非常に険しいところ

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年4月号掲載)村上市史異聞 より

 

2026/04/15

063 越後永正の大乱と三面村の先祖(5)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

上杉房能[うえすぎ-ふさよし]敗死の報は、房能を旗頭に擁していた諸将を震駭[しんがい]*させた。竹俣[たけのまた]も色部[いろべ]も本庄[ほんじょう]も、自然おのおのの城に籠もって戦うことを約したものだが、兵力は結集してこそ強力になるが、しかし、彼らは各自の城こそよりどころと思っていた。さればと為景[ためかげ]方の将・中条藤資[なかじょう-ふじすけ]や為景に応じた伊達尚宗[だて-ひさむね]は、阿賀北の盟主たる本庄時長[ときなが]をまずもって降せば、他の城の攻略はそう難しくはあるまいと判断した。
*震駭 …恐れ驚いて震えること

 

先鋒隊は築地忠基で、その後詰として伊達と芦名[あしな]が出張したのである。芦名の最前線は赤谷[あかたに]で、伊達が足がかりにするのは小国[おぐに]から下関[しもせき]である。けれど、この時どの程度の戦闘が展開されたかは判然としない。おそらくはそう大規模な戦ではなかったものであろう。本庄の記録などから推量すると、形勢不利と踏んだ時長はさっさと為景方の軍門に降り、村上城は忰[せがれ]の房長[ふさなが]に譲り、己は隠居して猿沢城に隠退してしまった。

 

盟主のごときの本庄がこのありさまだから、竹俣と色部も降伏・開城かと思ったがさにあらず、両者共にどうして「いざや見参、目に物を見せてやるべい」と言って、城門を固く閉じ、逆茂木[さかもぎ]を並べ、塀を高くして抗戦する構えを見せた。およそ籠城戦ほど攻守ともに損害を被る。守備陣は外からの救援軍がなければ勝つことは容易でないし、攻撃方は多大な犠牲を覚悟しなければならない。まず永正5(1508)年5月24日に敢行した為景方の平林城の攻撃は、険阻[けんそ]*な地形に守られた城のため、攻めきることができない。
*険阻 …道や地形が険しいこと

 

麓に造られた根小屋や築塁は突破できたが、その実城は天険の山頂にあり、路は急で狭く複雑な地形である。「このような小城一つ落とせないでどうする。者共かかれやかかれ」と中条藤資が号令をかければ、猪武者は一番手柄はわれにありと競って登りはじめる。守備側にすれば、これほど格好な標的はない、瞬く間に上から雨のような矢を降り注ぐ。攻め手の毛利新左衛門と中条藤資の手勢はわけもなく射たてられ、数十人も討死してしまった。しかし、衆寡敵[しゅうかてき]せず*、色部衆はついに防御あたわず降参したのである。
*衆寡適せず …少数と多数とでは勝負にならない

 

一方、竹俣清綱[きよつな]は岩谷[いわや]城にこもると、赤谷の小田切定遠[おだぎり-さだとう]に援軍を頼む。この城もまた険阻な山にある。城攻めが始められたのは同年6月29日、為景自ら部将を引き具しての城攻めだが、この城もまた天険の山に築かれたもので、城攻めに先立ち、為景はまずもって近辺の村々に放火し、兵糧とともに足がかりになる家屋を焼き払ったが、城側は城主の竹俣八之丞が討死するほどの必死の守備であった。攻撃に耐えかねた竹俣与四郎は会津へ逃げた。

 

しかし、為景は竹俣の主君・清綱と和睦せざるを得なく、調停を結んで三条城へと引き揚げた。この戦にも妻有[つまり]の城将・山吉盛藤は、ひそと沈黙を守り続けていた。為景が竹俣と和睦したのは、鎌倉の上杉氏が為景討伐の軍勢を催しているという情報を得たからである。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年3月号掲載)村上市史異聞 より

 

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