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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

2022/02/15

013 村上城の築城(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

城跡のある臥牛山(がぎゅうさん)は、そもそもは村上山と呼んでいた。村上という地名の史料上の初出は、永正6(1509)年に成立した『霊樹山耕雲禅寺納所方田地之帳』(耕雲寺の領地を記した帳面)である。村上山という呼称が見えるのは、永禄12(1569)年2月5日の土佐林氏慶の書状である。

 

その頃の村上の地は、現在の二之町付近と飯野付近にわずかな集落があるだけで、あとは荒涼たる原野であった。慶長2(1597)年成立の『瀬波郡絵図』によれば、村上町252軒で、その西に隣接する尻引村は20軒、また飯野村は7軒と記されている。

 

むろん、その数は年貢納入者だけの数である。そうした空間の東寄り、村の上に独立した小高い山が突然そびえている。まさに村上山と呼ぶにふさわしい。その山名が土地の俗称となって、やがて正式名称に変った。(古い時代の村上の正式名称は「本庄」)

 

その村上山に城が築かれたのは、明應(1493~1501)頃と考えられる。戦国時代で石垣を築いた城は、畿内の一部は別として、東国以北の城のほとんどは石垣はない。信濃国海津城に立派な石垣があった、と書いた小説家がいるが嘘っぱちだ。

 

村上城はおよそ三段階に削平され、三の郭(くるわ、曲輪とも)、二の郭、そして最頂部を実城(みじょう)とする。各郭の要所には櫓を建てるが、屋根は茅葺か板葺である。それを柵木が囲む。塀はない。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年1月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/01/15

012 城と道(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

慶長2(1597)年に成立した『瀬波郡絵図』には、北から府屋の藤懸館(ふじかかりのやかた)、中央部に村上城(村上要害とも)、南に平林城が描かれるが、鮎川氏の大葉澤城やその他の支城はまったく描かれていない。

 

平林城の背後にあった山城は、加護山(かごやま)古城と文字のみが記入されているし、下渡山に存在した城も下渡(げど)嶋古城の名称のみを止め、笹平の庄厳峯(しょうごんみね)に築かれた山城は、将軍嶺(みね)と記入され、かつて砦があったことをうかがわせている。

 

徳川幕府が成立すると、幕府は諸大名の軍事力を削減するため、居城(きょじょう)以外の城を破却せよと命ずる。大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡した元和元(1615)年の閏6月13日、幕府年寄衆は奉書をもって諸大名に通達した。

 

したがって、この年まで藤懸館も平林城も存在していたと考えてもよかろう。前者は旧大川氏、後者は旧色部(いろべ)氏の城館であった。こうした現象は上・中越とも同じであったろう。

 

そこで越後国に残った城は、糸魚川、高田、村松、長岡、三条、新発田、村上となる。この後は三条が廃城になる。

 

元和元年7月に発令した幕府法度は、居城以外に新しく城を築くことを厳重に禁止し、居城といえども無断で修築を加えることを禁じた。したがって修築の場合には、幕府にその場所を明記した絵図を提出して、許可を得なければならなかった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年12月号掲載)村上市史異聞 より

 

2021/12/15

011 城と道(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

越後国での最重拠点は高田の春日山城下(現上越市)で、西からは加賀街道、南からは飯山街道と北国街道が達している。そして京都に近いため、古くは国府が置かれていた。

 

その次に重要性のあった場所が村上城下であった。ゆえに天下を統一した豊臣秀吉や徳川家康は、高田城に越後国守を置き、村上城には9万石の村上氏から10万石の堀氏を入れて、山形の最上氏や米沢の上杉氏を牽制させたのである。新発田(しばた)や長岡はその次に位置する。

 

戦国期の城は一領国に一城ではなく、主城とのつなぎの城がいくつもあった。またいくさともなれば敵の城を攻めるため、その城の近くに築く「付け城」と呼ぶ施設があった。もちろん、それらの城も交通の要衝地に設けられた。

 

村上の場合は、いうまでもなく村上が主城で、支城を猿沢城として、下渡嶋城や関口城、それに板屋越城などがつなぎの城となる。いずれの地も出羽道沿いにあり、その道から里道が派生する。

 

色部氏の拠点であった平林城は荒川の渡河点を監視し、米沢往還道の喉元を握っていた。その支城は対岸の花立に存在した。また、鮎川氏の大葉沢城が本庄氏に攻められ陥落すると、鮎川氏は笹平の庄厳峯に新城を築き、大葉沢城の奪還を企てる。

 

こうした小城を破却して、平林と村上と府屋の3城に限定するのは文禄(1592)年間以降になる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年11月号掲載)村上市史異聞 より

 

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