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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2023/08/15

031 政局に揺れる村上城下(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

宝永元(1704)年、榊原家に替って村上城主になった本多吉十郎忠孝[ただたか]の転封理由は、松平・榊原とまったく同じである。吉十郎の通称を用いているのは、幼少ゆえ官職名の名乗りが認められていなかったからである。

 

その忠孝、村上城主たること僅か6年、12歳で病没した。むろん嗣子[しし]はない。本来であれば、ここで本多家は断絶になるはずであった。しかし、幕府は家の存続を認めた。継嗣[けいし]は分家の本多忠隆である。同家の祖・本多平八郎忠勝の徳川家康に尽した功績が多大であったからだ。ただし10万石を減じられ5万石になった。これまでの家臣はとうてい召し抱えていられない。

 

ではどうするか、余計な人数を解雇するしかない。家老の中根隼人[はいと]は、総侍[そうざむらい]に履歴書の提出を命じた。そこで判明したことは、新規雇用の侍が130人、切符徒士[きっぷかち=契約雇用侍]が86人、村上で召し抱えた足軽が214人、合計430。この軽き身分の侍がまず解雇されることになる。この中に何人かは江戸勤番もいたが、多くは村上国元詰めであったから、城下は浪人であふれた。この末端をクビにするリストラ事情は今も昔もまったく変っていない。

 

退職金は100石侍に15両で、それ以下の侍にもいくらかずつ支払われた。けれど微々たる金額だ。たちまち生活が行き詰まるから再仕官の途を探さねばならない。ところが歳の瀬の12月28日、積雪もある。そこで藩は、解雇した侍に3、4月まで滞留することを許可し、生活費を与えた。

 

村上の大名で江戸初期には村上家が幕府の外様大名潰しに遭い、堀氏は無嗣[むし]によって断絶し、多くの浪人を出した。しかし、そのころは各大名家とも軍事要員が必要であったから、割合再仕官も容易だった。

 

ところが本多家の時代となると、平和続きの世であるから有事に備える要員はほとんど必要としなくなっていた。また大名家は戦[いくさ]に備えるよりも、財政の困窮からいかに逃れるかを苦慮しなければならなくなっていた。

 

浪人を召し抱える経済的な余裕なぞ、どこの大名にもありはしない。かくて町には浪人がやたら目につき、治安が悪化する。当時の世間は、かれらを軽き浪人と呼んで敬遠した。もともとの身分が軽いゆえの蔑称である。浪人は身分的にも中途半端なもので、所属する社会がなく、町奉行の監察下になる。町人や農民が町役場や村役場の統轄のもとに生活していたことは、まったく別な扱いを受けていたのである。

 

大量の浪人を出したことは侍地の荒廃にもつながる。かつて松平家と榊原家が造成して増築した駒込町や、久保多町茅場、肴町から鍛冶町の北裏にあった足軽長屋はがら空きとなる。飯野や与力町にも空屋が多くなる。

 

消費者人口の激減によって、城下は不況のどん底になる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年7月号掲載)村上市史異聞 より

2023/07/15

030 政局に揺れる村上城下(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

江戸時代前期では、概して各大名とも家臣に与える知行は高かった。堀家を例にとれば、家老の知行は1万5千石から1万石、あるいは7千石である。年貢率を高くせざるを得ないわけである。松平家の場合はそれほど高い知行ではないが、領主の生活が派手で贅沢をきわめ、そのうえ藩政の不備もあり、収穫高の5割を取る。政治はすべて家老任せで、直矩[なおのり]自身は人形浄瑠璃や能、狂言、鷹狩、花木栽培、絵画、古筆収集、和歌などに夢中である。あるいは一門大名との交際で湯水のように金銭を費やす。

 

これが幕府老中に聞こえぬはずはない。村上から姫路へ転じたのはよかったが、その後は見せしめのため日田(大分県)、山形、白川(福島県)、姫路、前橋、川越と転々と所替えをさせられている。引越し大名と異名をとるゆえんだ。

 

村上を去ったのは寛文7(1667)年。替わって姫路から榊原家が同高で入ってきた。その理由というのが松平家とまったく同じである。榊原家の家臣数は具体的である。3千3百石から百石まで328名、以下5石まで245名、足軽732名、中間385名である。当時、城下の町人は9,223名いたというから侍と町人合せて1万913名になる。平成18(2006)年の旧村上城下の人口は5,641である。この未曾有の町人の人口は、松平・榊原と続いた別格大名の所産といってもよい。侍数は松平家より榊原家の方が多い。証拠は榊原家が入封したとき、侍屋敷が150~160軒不足、足軽屋敷も不足という記録が残ることによる。そのため、与力町(現杉原地内)に柳町を、駒込に四番町を、茅場(現久保多町)に門番町を建てた。ところがどうしたことか火災の頻発だ。

 

入封したのが寛文7(1667)年8月22日であるが、その年10月18日正午に「御城の本丸御天守ならびに御櫓、雷火に炎上」と榊原家の記録は記し、鎮火したのは酉の下刻とあるから、延々7時間も燃えていた。これで松平家が建てた天守は僅か4年しか存在せず、以後、天守はもとよりそれに付属する本丸の櫓も再建されることはなかった。

 

火災は城のみならず、城下にもしきりとあり、翌8年4月16日には飯野の侍屋敷92軒が焼失している。同11年3月5日には小町13軒焼失、延宝2(1674)年正月、久保多町大火。天和3(1683)年、小町から出火し8軒を焼く。そして貞享元(1684)年になると、二の丸東南の角にある中根善次郎(家老で3千180石)邸が焼失してしまった。この屋敷には櫓門が付属していたが、それも焼けてしまい、以後その櫓門は再建されなかった。

 

同5年2月には羽黒神社が炎上する。また元禄7(1694)年になると久保多町が大火に見舞われ、しかもこの間、天和3(1683)年2月27日には領主の榊原式部大輔政倫[さかきばらしきぶたゆうまさみち]は18歳で病没だから不幸この上なしであった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年6月号掲載)村上市史異聞 より

2023/06/15

029 伊白丸という屋敷

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

松平直矩[なおのり]の正室は、出雲国(島根県)松江城主18万6千石の松平直政[なおまさ]の娘お駒である。直政は直矩の伯父であるから、直矩と駒はいとこである。

 

当時の結婚は、本人同士より家格が重視された。駒の輿入れを望んだのは直矩の家老らであった。これに対し、駒の父・直政は反対だった。駒が病弱だったからだ。が、ついにこの結婚は実現する。その花嫁行列たるや大名行列と変りなく、しかも52頭もの供馬[ともうま]まで伴っている。正室を娶[め]とったものの、はたしてお駒は子を産むことができようか気遣われるところだ。

 

そこで、家老らは直矩に側室を持つことを勧める。相手は東園大納言[ひがしぞのだいなごん]の娘お長[ちょう]だ。武家が公家と深い関係になることは、武家の貴種性を高め、かつその立場を引き上げることになる。かたや家臣や領民に対しては、権威を強めることになるので武家が求めた官位への願望の一種である。ただし、公家と縁組する場合は幕府の許可を得る必要があった。ゆえに松平家では長を召使という名目で、それも村上に迎え入れた。ときに長15歳。

 

駒は周囲の気遣いが適中、流産して自分も死んでしまう。長の村上入りは寛文3(1663)年9月27日のこと。

 

その前、長を迎える話が整うと、直矩は長のために別邸を建てる計画を立てた。場所は城山麓の東に位置し、最も早く朝日が当たるところだ。建築物は同年6月には完成している。なかには常盤屋や藤の茶屋と称する数奇屋(茶室風に造った建物)もあり、これまで村上には見られなかった上方風のあか抜けした家屋であった。

 

作庭にも意を注ぎ、珍奇な石を配し、泉水を掘り滝を造り、堀割りから水を引いて流し、桜やツツジなどの花木を植え、水をたたえた池には舟を浮べた。正月は左義長[さぎちょう]、桜の春には花見、夏には涼を求めて納涼の宴、秋には鷲ヶ巣山[わしがすやま]の彼方から昇る月の観月の宴などで楽しんでいた。

 

その屋敷を伊白丸[いはくまる]という。伊はコレと訓じ、白は太陽の明と『広漢和辞典』にあるから、伊白丸とは「これ太陽のごとき明るい屋敷」という意味と解することができる。同月16日には節の振る舞いがあり、主君・直矩、長はじめ家老らが列座、祝膳に踊があった。3月16日の梅見の会では、酒宴はもとより歌会であり、長をはべらせた直矩が、

日にそいて さかふるすえのたのしみは いろより外にあまる梅かゝ 

と詠めば、

長はいろも香も いすれおとらぬ梅かへを 君かちとせの春にかさゝん 

と返す。

 

伊白丸での宴は、直矩の在村上中ではたびたびであった。しかし、松平家が姫路へ転封になり、榊原家が姫路から村上に入封すると伊白丸は跡形もなくなってしまう。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年5月号掲載)村上市史異聞 より

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