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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2025/08/15

055 次太郎騒動(9)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

村上藩相手の交渉は次太郎らの思いどおりになった。なすすべもなくただ傍観の体の藩兵を尻目に、次太郎らはその下道を通り桃崎の家並にかかると、大勢の村人足が酒飯を仕度して接待する。そしてまた、次の目標である荒井浜までの浜道を率先して案内する。そのとき桃崎村が放出の約束をした米は1,003俵で、さらに3カ月間米の津出はしない、というものであった。

 

時は暮れ六ツ(午後6時頃)、どこかの寺の鐘が聞こえてきた。桃崎村とすれば、暴動から逃れたい一心で次太郎らの要求を呑んだものだが、村上藩とすればまさに屈辱そのものである。どだい一揆そのものが天下に対する非道であり、公儀に対する反逆である。にもかかわらずだ。これでは法度の存在も無に等しいということになり、屈辱なんてものではない。それをはるかに上回る行為で、藩主には公儀からきつい沙汰があってしかるべきである。

 

ただ間が良かったか悪かったか、藩主・内藤信敦[のぶあつ]は、このとき幕府の寺社奉行の任にあったため江戸定府で、村上にはいなかった。従って領内の統轄[とうかつ]は家老にあった。また、村上城下も食糧難に陥り、歳の暮れには721人もの飢人が出たほどである。

 

ところで、荒井浜に向かった次太郎は、かねて知り合いの与八郎宅の前に出張[でば]った。そこで与八郎はもとより、女房も母親も血相を変えて唇をわななかせ、「米の五百俵や千俵ならば、4~5日中に積みそろえるで穏やかにしてけろ」そう言うし、与八郎とも懇意にしていた次太郎であるから、さればと与八郎宅をあとにして庄次郎という家屋を襲った。そこでの破壊略奪、狼藉がものすごい。日頃、庄次郎はよほどの強欲だったか、民衆から恨みを買っていたのか。群衆は竜巻のように襲いかかり、戸障子を叩き砕き、掛け矢で土蔵の扉を破ると、まるで血に飢えた群狼のようにどっと中に入り、衣類といわず膳部[ぜんぶ]といわず、陶器やあらゆる什物[じゅうもつ]や骨董品、また金銭までも強奪し、残余の衣類などは火を付けて燃やしてしまった。その数百余、また奪った金銭は450両と銭204貫に及んだというから落花狼藉も極みに達した。

 

そして、群狼のごとき一揆衆は勝ち誇ったかのように傲然[ごうぜん]と肩をそびやかし、醜悪な顔を酒と松明で赤くさせ、濁った目をぎらつかせ、黄色い歯をむきだして、わめきながら村中を歩行する。これに脅えない者はいるわけがない。子どもから女、老人、病人まで声もなく蒼然として顔を寄せ、雨戸を締めて灯を消し、まるで死人の家のようにしていた。なかでも肝をつぶし、魂も消して震え上がったのは、庄次郎に続いた身代の彦七、伝四郎、与五兵衛、治郎左衛門であった。彼らは鳩首[きゅうしゅ]すると、「ともかくひでぇ奴らだ。あのぼっ壊すようは、たまったもんでねえ。次は俺たちが狙われる」「んだでば、そうなる前にまんず4人で502斗の米だばどうだや。これで納得すてもらうべ」。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年7月号掲載)村上市史異聞 より

 

2025/07/15

054 次太郎騒動(8)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

「それ押し返せ! 一人たりとも揚げるでない。鉄砲隊は筒先そろえて撃て!」と下知をした。この時、桃崎の川岸に構えていた鉄砲は20挺である。そのうち2挺ほどは実弾を込めていた。岩付五郎太夫の下知に逆上した足軽は、かねて筒先を上方に向けて撃てとの命令をすっかり忘れ、すべて一揆勢に向けて放ったのである。

 

もの凄い轟音で川面は波立ち、木々の梢は震え、鼓膜が鳴り、煙が鼻をつき、青白い閃光が走った。その一発が切田村の百姓の腰に命中したものだからたまらない。「ギャッ!」と悲鳴を上げて猫のようにもんどりうち、どさっと倒れ伏した。さらに一人は、逃げ足になったところを抜刀の足軽に肩先を「えい!」と切りつけられ、血飛沫を上げながら逃げる。他の連中も驚愕[きょうがく]、髪を逆立て、顔色を失って逃げ返ろうとするが、なにしろ舟橋であるから足場が不安定である。揺れて足がもつれ、人と人が重なり、倒れて舟端にぶつかり、鼻血を流す者があり、気を失う者もありで、ほうほうの体となってようやく中州へたどり着く。

 

この時、対岸へ逃げ渡って行方が分からなくなった者は300人もいたろうか。残余の者は6~700人で、次太郎はこれ以後の方針を評議するため、それらの者どもを集合させると、「桃崎は村上兵が出張っているので無理」と言う者もいるが、「いやさ、俺らは無防備にして無力。それを鉄砲と刀槍で脅し、あまつさえ重傷を負わせたもんだ。このことをねたにして陣をば解かせるべ」「その使いには誰がするや」「それは桃崎の庄屋がよかろう。俺らどもはおとなしく引き揚げるで、村上さまも手を引いてくれとな。それに桃崎へも手荒なことはしないともな」。

 

それからというもの桃崎の庄屋を説得し、庄屋は次太郎らの要求を入れて、村上藩・川上重次郎と岩付五郎太夫相手に掛け合いに及んだところ、川上らは「何を申すか庄屋、汝うぬも一揆奴[め]らと同類か。陣を解けとはどの面さげてぬかす」と眼を釣り上げ、唾を飛ばして怒る。庄屋は、「腰に鉄砲弾を食らい、肩に刀傷を負った者は無防備の者です。やつらはその行為を理不尽と言っています」。

 

非道・理不尽を持ち出されては、武士の信条が許さない。「チッ」と小さく舌を打った川上は、「畜生奴が、いまいましいが仕方ない」とそう言えば、岩付も渋い顔に渋を塗ったようになり、「無腰の者を撃ったとなれば、侍道に悖[もと]る。やむを得まい、陣を引くとするか」と言う。しかし、侍道に悖るといえば、いささか奇麗に聞こえるが、実のところあまりにも多勢の敵に怖じ気たのではなかろうか。また、藩の対策としても千名の一揆勢を鎮圧するのに、わずか60名の警護隊の派遣でしかないのはおよび腰といわれても仕方あるまい。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年6月号掲載)村上市史異聞 より

 

2025/06/15

053 次太郎騒動(7)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

まさに津波が襲ったような佐々木村の庄屋・峯右衛門の屋敷であった。その屋敷を跡にした一揆衆が向ったのは大津から金屋であった。この両村の対応は慇懃[いんぎん]を極めたもので、庄屋以下の村役人どもは裃と袴を着け、酒飯は一度ならず二度も饗する。金屋が一橋領になるのは文政10(1827)年で、以来陣屋が設置され治安も維持されるが、この騒動の時は幕府領で水原代官所支配であったから他村同様である。

 

次太郎はじめすべてが図に乗り、高ぶって向うところ敵なしといったところか。その中にあって、虚勢を張っている者も多くいる。もっとも付和雷同して加担している者の集まりでもある。一人が法螺貝を吹けば、それに気を揺すられてまた一人が、また一人が吹く。その貝の音がぼうぼうと、黒雲天を覆うがごとく、地を震わすがごとくに響かせ、草鞋の音も高く、海老江村になだれ込む。すると海老江でも手回し早く、村役人がこれまた裃袴姿で出迎え、丁寧な接待をして送り出す。そこでさらに図に乗った次太郎らは、戦で陣頭指揮する侍大将になったような錯覚に捕われ、「ものども! 敵は本能寺にあり、川を渡って押し寄せよ!」どこで聞きかじったのか、まるで明智光秀が桂川をこぎ渡って、織田信長を本能寺に討ったときの情景のごとく英雄気取りであった。その下知に、これまた脳天に火の付くほど興奮している衆は舟橋を踏み鳴らし、川面に小波を立てながら対岸へ渡ろうとする。

 

荒川河口の桃崎村は、海老江村の西岸で数艘の舟をつないだ舟橋で往来している。その桃崎は村上藩領でもあったから、村上藩からの警備隊が出張していたことは既述した。当時の侍なんてものは、平和ボケしてろくに武術の習練もしていないが、たまには三面川[みおもてがわ]の河畔で種子島*や棒火矢[ぼうびや]**の稽古はしていた。隊将・岩付五郎太夫と川上重次郎以下60名ほどが槍を構え、種子島の火縄に点火して、ござんなれ、と待ち受けている。それを望んだ衆は、思わず喚声[かんせい]を上げてたじろみ、立ち止まる。次太郎は、ここで引いてはならじと蛮声を張り上げ、「やよ皆の衆、彼方の敵は侍といえど私領の侍。俺らは御領の百姓、私領の侍が御領の百姓になにするものか。恐れることはない、進めや進め」。勇気はあるが、知恵足らずの次太郎と千余の衆である。その号令に憤激し、逆上して鯨波[げいは]を上げると再び渡り始める。彼らが図に乗った一つの理由は、御領(幕府領)は私領(大名領)より格式が高く、その領民であるという意識があるのだ。
*火縄銃の俗称
**鉄製の筒に火薬を込めて発射する火矢

 

先頭になった衆は次太郎の怒号に励まされ、また後続の衆に背を押され、ついに渡り切った。けれどごく少人数で後続はない。これには村上兵が拍子抜けしたところ、多勢がどっと駈け上がったのである。隙を突かれたかたちになった岩付は、血相を変えて下知をくだす。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年5月号掲載)村上市史異聞 より

 

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