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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

2022/07/15

018 村上城下(1)初期の村上町

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

村上が城下町らしい姿を整えるようになるのは、天正末(1591)年頃からと推察される。すなわち豊臣政権による刀狩令の徹底と侍の城下集住政策の推進によるものである。従来の侍は自分の知行地(支配地)に居住して、半農半武の生活をしていたものだが、兵は兵、農は農に分離して侍を城下に集住させた。

 

文禄年間(1592~96)の検地による『瀬波郡絵図』は、当時の村上城と城下の様子をよく伝えている。それによれば、村上町の家数は252軒とある。但し年貢納入者のみ。

 

城山の麓[ふもと]には、2棟の入母屋造り風の堂々とした建物が柵に囲まれてある。軍事的政庁であろう。家並みは現在の羽黒口から二之町、それに飯野村、尻引村(のち羽黒町)、中町村(のち上片町あたりか)に点在する。

 

村上城の城番は春日右衛門元忠。配下は20人の侍とその足軽や中間小者で、合わせると120人余である。その数に町家数に加えると372になる。

 

町人の職業構成は不明であるが、鋳物師や鍛冶職がすでに存在していた。鋳物師の山本又五郎が庄内領主 武藤義興の注文によって天正14(1586)年に鋳造した鰐口(仏堂の正面軒先に吊り下げた仏具の一種)が国立博物館に現存する。

 

鍛冶職の川村七郎次は、永禄(1558~69)頃に大宝寺(現鶴岡市)から移住したと伝えられている。

 

鋳造品の多くは仏具や生活用品の鍋釜などであるし、鍛造品は農具や包丁、釘、刀槍など、これまた生活に必須なものである。すなわち生活必需品を作る職人の来住が最も古いといえよう。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年6月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/06/15

017 方位と村上城下

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

わが国には古来神道、仏教のほかに陰陽道[おんみょうどう]がある。現在でも、家を建てるときに方位を重んずる向きがあるが、発生はこの陰陽道にあった。その教義の中で理想的な地を占めるということは、すなわち西には霊獣とされる白虎の住む道があり、北には玄武[げんぶ]の住む山があり、東には青竜の住む流水が、そして南には朱雀[すざく]のいる沼がある。これを四神相応の地という。

 

この条件を村上の地に当てはめると、西には肴町から瀬波町、松山を経て江戸に向かう道があり、北には下渡山、東から三面川が流れ、南には沢沼はないが、その替わりは桐木7本を植えればよいとされていたから理想的な地域であろう。

 

中国の古代都市はもちろんのこと、京都、奈良、江戸はじめ、各地の城下町はすべてこの思想によって建設されていた。とはいえ、まったくこの条件に当てはまらないところは、柳9本を流水に替え、桐7本を沢沼に、梅8本を道に、槐[えんじゅ]6本を山に、というように、それぞれの木を植え付ければ済む、というからかなり呪[まじな]いめいたものである。

 

しかし、その地形を現代風に解釈すれば、北が高く南が低いことは夏涼しく冬暖かい。東の流水は田地を潤し舟運の発達を促し、西の大道によって交易の活発が望まれるというところであろう。とまれ村上城下はこの条件下にあったことは確かである。

 

城を東に偏在させて、西に向って二の丸、三の丸、そして外曲輪を張り出す形式を悌郭[ていかく]式の城と呼ぶ。侍屋敷は二の丸から三の丸に上中級、その外周には下級侍、さらにその外周には町人地を設けた。城下町の特色については次に譲る。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年5月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/05/15

016 村上城の築城(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

完成した村上城の外観を述べると、山麓下の居城はコの字形をした6間幅の内堀に囲まれ、土塁上には三層櫓1棟、二層櫓2棟、平櫓1棟を建てた。二の丸の堀は6間幅で4棟の門があった。三の丸の堀も6間幅であったが、大堀(広見とも)は城下最大の31間幅であった。

 

追手門(大手門)は西面の中央に、その南には飯野門を設け正面の防護施設にした。それに対して搦手[からめて](裏手)の堀は8間幅で、堀片や新町の堀は5間幅で4棟の門を備えていた。

 

総堀[そうぼり](外構[そとがまえ])は堀片の最東端から片町、庄内町を経て塩町に達し、一方、牛沢口から飯野を経て肴町に達する。総延長は直線距離にして東西2.3km、南北1.4kmに達する越後最大の規模であった。

 

ちなみに高田城は約1.4km×1.1kmであった。

 

山上の櫓は最高所に三層の天守櫓を建て、各曲輪(郭)[くるわ]にはそれぞれ櫓を設け、多聞[たもん]と呼ぶ廊下状の櫓や塀で連結する。山城の定番が寝泊まりする建物は、七曲がりを登りきった所から少し上の東面、つまり季節風の当たらない場所で、城郭の中央部に置かれた。

 

屋根は板葺であろう。当時、瓦師は畿内にはいたが、関東以北、わけて越後から東北地方には皆無であったから、運搬費などを含めると割り高となるので、多くの城は板葺にせざるを得なかった。

 

現存する新発田城は瓦葺であるが、江戸後期のものである。とまれ村上城は越後国内では最大の規模と防御力を誇るもので、嘉永7(1854)年、剣術修業のため村上藩を訪れた佐賀藩の牟田文之助は、堀丹後守の築いた城ゆえに、堅固の城であると感嘆している。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年4月号掲載)村上市史異聞 より

 

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