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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2024/03/15

038 領主の交替と四万石領騒動(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

武家の経済悪化は兵農分離を実施したときからだ。それを切り抜けるため、幕府は金貨を改鋳し、藩は領民に高年貢を負担させ、奢侈[しゃし]*を禁止したりした。
*必要な程度や身分を越えたぜいたく

 

年貢賦課率は普通4割であるが、6割などと高い藩もある。村上・堀藩の場合では、4割で1反300歩制の一般的であるが、田地に等級を付けず、すべて上級として斗代[とだい]*を納入させる「一括斗代納入法」である。その結果、内高は10万石表高を上回り20万石余となった。これでも藩経済は苦しい。
*年貢

 

軍役負担が膨大なうえに、城郭建築や城下町の拡張工事、江戸と国元の二重生活などが大名家の過剰経費であるが、堀家の場合は将軍の脇備[わきぞなえ]*であるから、さらに多くの侍が必要であった。また、将軍の上洛にも多くの士卒を引き具して供奉し、京では饗応[きょうおう]役も務めねばならなかった。そのうえ将軍を自邸に招き、多大な出費をしている。
*本陣の左右に控える隊

 

そのツケが寛永10(1633)年頃にきた。矢のような借金の催促である。やむなく藩主・堀直竒[なおより]は、天海僧正(幕府の政策顧問)から銀30貫と幕府から2万5千両を借りて返済する。2万両は5万石の米代に相当する。すなわち5万石の大名の身代ということだから、豪勢な借金額であった。

 

その返済は、まず米を売ることと自分の所有する茶器などの高価な名品を売却すること。そして、徹底した倹約をすることであったが、米を売ると貯穀米がなくなり、作付けや飯米に差し支え、凶荒時にも危うくなる。そこで窮余の一策、徳政令[とくせいれい]を発することになる。すなわち家中間の借金を免除し、民衆の諸掛りを軽減することであった。また、鉱山開発や産業の奨励、そして奢侈の禁止である。直竒は、それらを侍はじめ民衆にも広く堅く守らせると共に、倅[せがれ]の直次[なおつぐ]にもきつく言い渡す。のみならず自分も率先して行う。

 

物品の管理は、竹・木炭・薪・縄・ぬか・わらなどに至るまで、役人に余計なものは買うなと命じている。藩で貯蔵する米穀は一切私用に貸さない。購入する物品はすべて藩主の許可を必要とし、金銭の出納は藩主の直判[じきはん]を必要とする。歌舞伎・操[あやつり]人形・猿舞・傀儡師[くぐつし]・ささらすり・虚無僧[こむそう]・鉢叩[はちたたき]などは屋敷内に入れるな。これら遊芸ものはぜいたくだ、というのである。

 

こうして藩主自ら節倹と金銭管理に取り組んだ結果、寛永20(1643)年までに幕府からの借金は返済することができた。しかし、民衆にかかる租税負担は解消したわけではない。欠落[かけおち]する百姓は各藩の随所にみられた。堀藩の場合も松沢村の百姓が小国(山形県西置賜郡小国町)へ欠落している。その欠落の多く発生したのは、松平大和守直矩[なおのり]が藩主のときであった。そのことは既述した。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年12月号掲載)村上市史異聞 より

 

2024/02/15

037 領主の交替と四万石領騒動(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

村上藩ははじめ9万石で村上氏が入り、つぎには堀氏が10万石で入封した。両者に1万石の差があるも、検地打ち出し高によって生じたもので領域に変わりはなかった。

 

すなわち現村上市全域と関川村、北蒲原郡の一部である。この領域を村上領と呼んだ。これらの支配範囲は51年間続き、松平直矩[なおのり]が入封すると15万石となる。

 

増加した分は、従来からの蒲原郡の領地のほかに、2万8,931石2斗4合の蒲原郡と1万1,068石7斗9升6合の三島郡である。

 

この領域は、かつて幕府領で三条蔵組・寺泊蔵組・新潟蔵組の3つの蔵組からなっていたが、松平藩は法令の徹底化や年貢収納の完備を図るため、寺泊組・渡辺組・地蔵堂組・三条組・一ノ木戸組・燕組・茨曽根組・打越組・釣寄組・味方組の10組に分けた。

 

これに従来の領分の組を加えると全域で45組となり、805カ町村となった。このうち三条周辺の領地を「村上藩四万石領」という。

 

この組村を支配するため、三条に奉行所を設ける。配置される役人は、奉行とその下に代官を置き、さらに治安維持のための警察権を有する役人。検地・年貢収納・会計などを担当する役人を配置した。

 

それら藩権力の末端を担うのが、各組ごとの大庄屋、村ごとの庄屋、その下の組頭であった。ただし、村上城下の場合は町全体の代表者は大胆煎(のち大年寄)、各町に胆煎(年寄)という役職名であった。こうした人々を村役人・町役人と呼んでいた。

 

藩の行政警察機関は、村上城下の場合は町奉行によって統轄されるが、新たに加えられた四万石領の場合は、前述した三条奉行所である。

 

最高職の奉行は200石から300石程度の扶持米を受ける中級藩士で、その下の代官には計数や土地状況に詳しい者が選ばれる。また、手代にはその土地生まれの農民が取り立てられることもあった。

 

大年寄や大庄屋、年寄、庄屋らは世襲が原則であったが、大年寄の場合はしばしば交替している。身代が永続しないことと、城下町ゆえに藩との接触や民事訴訟など、執務内容が複雑であったため、有能でなければ務まらなかったからだ。

 

大体において一代限りで、三代続くのはまれであった。それに対し、大庄屋の場合は江戸時代約250年間通じての家もあった。それだけ農村地域は問題の起こる頻度や執務の繁雑さが低かったといえよう。

 

先述した村上藩領の組村数は、松平・榊原・本多と変りがなかったが、本多忠良が15万石から5万石に減知されると、岩船郡81村と村上町・瀬波町・蒲原郡合せて83町村、三島郡25村が村上領となり、ほかは幕府領となった。

 

蒲原郡では、三条・一ノ木戸・燕・釣寄・打越は村上領。茨曽根・味方・地蔵堂は村上領と幕府領に分けられた。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年11月号掲載)村上市史異聞 より

 

2024/01/15

036 侍の正月(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

慶応2(1866)年の正月2日は晴天だった。今年の暦*であれば2月4日立春にあたる。まさに新春と呼ぶにふさわしい天気といえる。その日の朝、中嶋源太夫は藤基神社へ詣で、それから光徳寺。ついで親戚筋の二ノ丸、三ノ丸、羽黒口、飯野の各家。そして、安泰寺へ挨拶に回る。
*2011年のこと

藤基神社
https://www.sake3.com/spot/317

光徳寺
https://www.sake3.com/spot/2451

安泰寺
https://www.sake3.com/spot/6680

 

3日も晴れた。関口流柔術の師範・塚本斧右衛門が挨拶にきて、江戸屋敷の道場の監理者の交替を告げて帰る。入れ替わり青山野左衛門がきて、稽古始めに門弟に酒肴を出してもよいかと問い合わせる。

それについては、中嶋のみの判断では返答できぬから、他の番頭衆にも相談して返答すると言う。時中流の宮川唯右衛門も同様の用件で訪れる。

 

4日も晴天だった。午前中は羽黒神社へ参拝のため忰[せがれ]の岩吉と若党の兼吉を供にして家を出る。若党は私有でなく、藩有だから、私用に使う場合は藩の許可が必要である。その人事監理は大納戸格(財産監理)の脇田重左衛門である。

西奈彌羽黒神社
https://www.sake3.com/spot/54

 

羽黒神社では神酒を頂戴して、神官 江見安芸に賀詞を述べて下山し、菩提寺の善行寺へ仏参する。

午後からはあまり良い天気なので下男の斧次に投網を持たせ、瀬波から岩ヶ崎、大月へと散歩に出かける。土手にはまったく雪はなく、まさに春の陽気である。

瀬波の潟では、家中の嶋田丹治らがウグイ捕りに興じていた。岩ヶ崎へ行くと、船小屋あたりに柴田茂左衛門や鳥居存九郎、水谷孫平治、重野兵馬、中尾専之助、牧大助が莚[むしろ]を敷き、日向ぼっこをしていた。

七種[ななくさ]も近いからと菜の花を探すけれど、なかなか見つからず、ようやく4、5本を得ることができた。大月村の善福寺の住職と安泰寺で懇意になったことから訪ねると、土産に「かたのり」をくれた。

岩ヶ崎に戻って魚でも買うべく尋ねると、船が出ないため漁はないという。そこで「雪海苔」3枚を求めたところ、1枚65文というので、あまり高いのでびっくりした。しかし、これで土産を得ることができた。

瀬波で日暮れになり、佐野銨之丞[やすのじょう]と連れになった。そのとき、銨之丞が菜の花を欲しい様子なので2本福分け*してやった。
*人から贈られた物を他の人に分け与えること

 

5日、小野田徳三病欠の届けがある。この日は当番であったから、熨斗目麻上下*[のしめあさかみしも](腰部に格子や筋を入れた小袖)着用で九ツ時(正午)登城、欠勤者の欠勤理由を記入して帰宅する。他の出勤者は木綿の紋付を着用していたことから、以後は木綿紋付にすることにした。
*重臣の正式礼装

 

7日、七種の嘉儀につき親しい人らが祝儀にくる。家に伝わるしきたりは、この日肉桂*[にっけい]入りの粥を食べることである。
*肉桂の渡来は江戸中期、健胃薬に用いる

馬術稽古始めにつき上下を着て見聞にでる。自分にも乗馬を勧められたが、脚気を理由に断り、神酒だけ頂戴して帰宅した。

これが、中嶋源太夫のまことにのどかな正月であった。武家社会が大音響をたてて崩壊する明治維新の2年前のことである。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年2月号掲載)村上市史異聞 より

 

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