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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2024/12/15

047 次太郎騒動(1)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

(次太郎騒動とは)「菅田騒動」または「野口騒動」と呼ばれた百姓一揆である。範囲は北蒲原[きたかんばら]郡の一部と岩船[いわふね]郡の一部で、きわめて大きな一揆であった。発生した文化11(1814)年は前年から天候不順であった。11年4月からも日照りが続き、5月以後になると雨ばかりが続く。そして、夏に至っても暑くならず、袷[あわせ]を着なければならない。これで稲の作柄が良いわけはない。村によっては作徳米(小作が地主に納める米)を五分引きとか、三分引きにしていた。こうした現象はなにもこの一地域だけではなく、中越から下越にかけてであった。そのため下田[しただ]・加茂・栃尾・加治[かじ]・五泉[ごせん]・三条などに百姓による騒動が頻発していたのである。

 

いまだ初夏5月23日、天は陰鬱として世情は暗い。その翌朝のことである、各地で落文[おとしぶみ]が見つかった。いわゆる公然と言えないことを匿名で書いて、路上に落しておくことである。

 

それには、「近年不作につき小前百姓困窮にあいなり、当年は米高値、はなはだ暮しは難儀、そのうえ浜方や在方の金持ちは米を買入れ、船で諸国へ積み出すため、さらに高値になった。この上、当秋も不作になったならば、小前百姓、水呑は一命にもかかわる。よって24日に飯出野に於て相談がある。加治川以北、村上まで一軒につき一人、百姓道具を持ち参加いたさるべし。御公儀様には何の恨もなし、浜方、在方の金持ち共の仕業である。早々にまかり出ずべし、もし遅れるようなことがあれば、その村に火をつけて焼き払う、酒が飲みたければ酒屋で飲むべし、代銭は後ほど支払う。5月23日会所飯出野ひとたすけ」とある。

 

飯出野は入出野とも書き、現胎内市黒川の韋駄天[いだてん]山麓にある。一体この地方は幕領・水原代官所支配地・白河藩領・同藩領地・旗本松本小豊治領・黒川藩領・村上藩領が錯綜[さくそう]していた。村数は神納[かんのう]17村・胎内川周辺10村で、その村のすべてに一晩で落されたというから、何人かの共謀であることは間違いない。

 

当然あの村からこの村から「飯出野のひとだすけとは誰だ、その仲間は何人いるのだ」「参加しない村は焼き払うだぁ」「確かに落文のとおりだわ。一儲けを企み、米の買い占めをしている奴らが悪い。そいつらの蔵を解放させれば、よほど生活の助けになる。よしやるべ」「手前さえ儲ければよいという強欲共の面の皮をひっ剥がしてやるべ」「おう、おらだのもその仲間に加わるべし」と気勢を上げて、手に手に斧や掛矢[かけや]や鉈[なた]や鍬[くわ]などを持ち、ぞろぞろと蟻のように黒い行列となって川を渡り、野を踏み、未熟な田圃を越えて、夜の闇を飯出野を目指した。集会場所は村中の杉立木の中だ。すでに騒然とした雰囲気で熱気が渦巻き、息苦しいほどの興奮が宙に立ち昇っている。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年10月号掲載)村上市史異聞 より

2024/11/15

046 本庄繁長から伊達輝宗に贈った塩引き

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

正月らしい歴史上の話題というとなかなか見つからない。何もせずに過すのが正月だからであろうか。食事にしても、餅を食い、作りだめした御節を食っているだけである。が、その御節には、その地方特有の産物を用いることが多い。鮭料理もその一つである。しかし、その一つ一つの名称の由来となると誠に面倒である。よく尋ねられることであるが、鮭の塩引き(塩引き鮭)はいつ頃から作られているのかである。

塩引き鮭について
https://www.sake3.com/iyoboya/116

 

この質問に答えることはまず不可能だし、また、現在のような塩引きの製法がいつから行われるようになったかも知ることができない。そしてまた「塩引き」なる言葉がいつ登場したのかも分からない。この地方における「塩引き」なる言葉の初見となる文書は、伊達左京大夫輝宗から本庄雨順斎にきた書状である。輝宗は伊達政宗の父で、天文13(1544)年生まれ~天正13(1585)年没、居城は陸奥国伊達郡桑折[こおり]西山から米沢西郊の館山に移る。

 

雨順斎は繁長の僧名で、永禄11(1568)年に上杉謙信勢を向うに回して村上城に籠城し翌春まで戦い、3月18日に和睦したとき、謹慎して改名したものである。その前に繁長は、伊達と芦名を頼り和睦の交渉をしていたので、書状の日付けが2月20日とあるのは、その前後を考慮すると、その翌春ものと推察されよう。書状の冒頭には、如来章改年之御吉兆珍重々々[らいしょうのごとくかいねんのごきっちょうちんちょうちんちょう]、更不可有時期候[さらにじきあるべからずそろ]、抑為祝儀[そもそもしゅぎとして]扇子並、塩引共[とも]被指越之候[さしこされそろ]、大慶不斜候[たいけいななめならずそろ]、是[これ]も任折節[おりふしにまかせ]、猪皮[いのししかわ]五筒進之候[これをしんじそうろう]

 

現代文にすると「貴方の書状のとおり、年が改まりめでたいきざしです。さらに時期(機)にはありません。祝儀として扇子と塩引きが到来しました。大きな喜びです。当方よりも折節の猪皮5枚を贈ります。」このようになる。さらに「時機にあるべからず」は、いまだ世に出る機会に至っていない、という慰めの意味であろう。

 

とまれこの書状にある「塩引き」という文言は、本庄繁長から言い送った文言によって書いたもので、鮭を産地としない内陸部の桑折の言葉ではなく、あくまでも本庄(村上地方)の言葉であろう。しかし、その当時の「塩引き」とは、いかような製法のものであったか分からない。文字そのものの意味からすると、引くとは「一面に敷きつめる」ことで、『伊勢集』「前栽[ぜんさい]植えさせたまひて、砂ごひかせけるに」とあるのが初見のようだ。とすると「塩引き」の引きは、敷くであるとすれば、塩を敷いた上に鮭をのせ、その上にまた塩を敷いたもので、平安時代あたりの言葉が残ったものであろう。もっとも上方では、当今も引くことを敷くというとは『日本国語大辞典』にある。

 

ところで、その後の輝宗は安達郡宮森城から二本松城主の畠山義継に拉致されると、それを知った伊達勢が追跡して、義継もろともに銃撃してしまう。銃撃を命じたのは、畠山の滅亡を優先させた政宗であったともいう。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年1月号掲載)村上市史異聞 より

2024/10/15

045 領主の交替と四万石領騒動(9・終)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

辰の口評定所の白洲で奉行らに尋問された庄屋と大庄屋は、顔も上げられず「まったくさようで。仰せの通りで」と言うのみである。このときの奉行は目付の鈴木飛騨守であった。けれど江戸時代の裁判は難しい事件になると、奉行は屏風の後ろで陰聞[かげぎ]きをしていて、尋問は留役[とめやく・書記官]がする。また、本件のような再吟味はめったになかった。ということが『旧事諮問録』[きゅうじしもんろく]に記されている。

 

判決は正徳元(1711)年10月12日、辰の口評定所で言い渡される旨が関係者に告げられる。そこで評定所へ出頭する時間は朝八ツ刻(午前2時)であるが、しばらく待たされ、門内に呼びこまれるのが暁六ツ(6時)であった。まず最初は大庄屋8人であったが、打越組大庄屋弥左衛門は病気につき7人である。次に小庄屋15人、次に百姓代表12人、ついで入牢中の百姓8人。


公儀からの出役は、正面に老中・秋元但馬守が着座。左手に寺社奉行、大目付、目付。右手は勘定奉行、町奉行、その一段下に徒士目付[かちめつけ]が着座している。そこで横田備中守から「大庄屋は公私混同も甚だしい。衆庶の手本となるべき立場にありながらなんたる不正行為、屹度[きっと]叱り置く。小庄屋は、大庄屋の不正を黙認したかどで叱りを申し付ける。百姓12人についてはお構いなし」そう告げたところで、老中以下出役は一旦退座となる。しばらくすると、三五兵衛と市兵衛と新五右衛門の3人が縄をかけられたまま連行されてくる。着座して待っていると、横田備中守と鈴木飛騨守と堀田源右衛門の3奉行の出座となる。そこで横田は「御書き付けをもって仰せ渡され候は、85カ村かりもよおし(諸所の人を促して集める)候の張本たるにより死罪に仰せつけらるべく候えども、百姓ども願い候につき、その罪をなだめ流罪を仰せつける」と言い渡した。

 

これで三五兵衛らの命は助かったわけだが、彼らが願った幕府領編入の件は却下された。しかし、大庄屋8人へは

一、年貢の外、過分の金子は割付けざること。貸金の利足を軽くすべし。
一、みだりに人夫を多く召しつかうべからず。
一、百姓に与えた普請の手当金や役金の余剰分の返金を大庄屋が着服した件については、まったくもって不当である。以後よくよく謹むこと。
一、職務を小庄屋に任せたことは職務放棄である。以後改むべきこと。
一、災害で百姓が困窮したときは領主の役人へ届け出ること。

ときつく申し渡した。三五兵衛らの頬が歓喜に緩み、面皮を剥がれた大庄屋らの肩が震えた。

 

この事件を契機に、幕府は大庄屋制に疑問を抱き、幕領の大庄屋制を廃止した。わが身の危難を顧みず公儀を相手に訴えた三五兵衛ら3人は義民と称えられた。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年9月号掲載)村上市史異聞 より

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