イラスト:石田 光和(エム・プリント)
武家の経済悪化は兵農分離を実施したときからだ。それを切り抜けるため、幕府は金貨を改鋳し、藩は領民に高年貢を負担させ、奢侈[しゃし]*を禁止したりした。
*必要な程度や身分を越えたぜいたく
年貢賦課率は普通4割であるが、6割などと高い藩もある。村上・堀藩の場合では、4割で1反300歩制の一般的であるが、田地に等級を付けず、すべて上級として斗代[とだい]*を納入させる「一括斗代納入法」である。その結果、内高は10万石表高を上回り20万石余となった。これでも藩経済は苦しい。
*年貢
軍役負担が膨大なうえに、城郭建築や城下町の拡張工事、江戸と国元の二重生活などが大名家の過剰経費であるが、堀家の場合は将軍の脇備[わきぞなえ]*であるから、さらに多くの侍が必要であった。また、将軍の上洛にも多くの士卒を引き具して供奉し、京では饗応[きょうおう]役も務めねばならなかった。そのうえ将軍を自邸に招き、多大な出費をしている。
*本陣の左右に控える隊
そのツケが寛永10(1633)年頃にきた。矢のような借金の催促である。やむなく藩主・堀直竒[なおより]は、天海僧正(幕府の政策顧問)から銀30貫と幕府から2万5千両を借りて返済する。2万両は5万石の米代に相当する。すなわち5万石の大名の身代ということだから、豪勢な借金額であった。
その返済は、まず米を売ることと自分の所有する茶器などの高価な名品を売却すること。そして、徹底した倹約をすることであったが、米を売ると貯穀米がなくなり、作付けや飯米に差し支え、凶荒時にも危うくなる。そこで窮余の一策、徳政令[とくせいれい]を発することになる。すなわち家中間の借金を免除し、民衆の諸掛りを軽減することであった。また、鉱山開発や産業の奨励、そして奢侈の禁止である。直竒は、それらを侍はじめ民衆にも広く堅く守らせると共に、倅[せがれ]の直次[なおつぐ]にもきつく言い渡す。のみならず自分も率先して行う。
物品の管理は、竹・木炭・薪・縄・ぬか・わらなどに至るまで、役人に余計なものは買うなと命じている。藩で貯蔵する米穀は一切私用に貸さない。購入する物品はすべて藩主の許可を必要とし、金銭の出納は藩主の直判[じきはん]を必要とする。歌舞伎・操[あやつり]人形・猿舞・傀儡師[くぐつし]・ささらすり・虚無僧[こむそう]・鉢叩[はちたたき]などは屋敷内に入れるな。これら遊芸ものはぜいたくだ、というのである。
こうして藩主自ら節倹と金銭管理に取り組んだ結果、寛永20(1643)年までに幕府からの借金は返済することができた。しかし、民衆にかかる租税負担は解消したわけではない。欠落[かけおち]する百姓は各藩の随所にみられた。堀藩の場合も松沢村の百姓が小国(山形県西置賜郡小国町)へ欠落している。その欠落の多く発生したのは、松平大和守直矩[なおのり]が藩主のときであった。そのことは既述した。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年12月号掲載)村上市史異聞 より