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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2022/04/15

015 村上城の築城(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

元和6(1620)年2月の書状は、土木工事が始まったことを報せていた。それが同年3月28日の書状では、手ぬかりのないようにといい、山辺里口の惣堀(加賀町から庄内町裏にかけての堀)が完成したならば、海府から船で石を運び、瀬波に集めておくように。本丸(山頂)の天守や多門櫓の造作は念を入れて行うように、また、城の壁はすべて板でおおうがよろしい。したがって、多くの板が必要になるので、木挽に精を出させて作業させよと土木工事が終盤となり、大工工事が開始されようとしている様子だ。それが4月16日の書状では、本丸の工事は油断のないようにせよと、大工奉行に命ずること。天守櫓の立柱式は、そのうち帰国するから、それまで待てと述べる。

 

江戸での直竒は多忙で、ようやく帰国できたのは4月下旬のようである。そして城普請の様子を確かめ、立柱式を行い、その年の秋には再び江戸へ登った。

 

翌7年2月の書状には、城普請の留意点を指示するから、その通りに行うようにと命じている。それが同年4月17日では、よほど工事も進み、残り工事は足軽共に任せてもよろしい。役人は領内の水路や河川の堤防普請をぬかりなく監督せよと命じている。

 

こうした様子からうかがうと、築城開始してからおよそ3年間で完成したことになる。おそるべき短期間であるが、軍事的施設ゆえ、緩緩[ゆるゆる]した工事は許されなかったためだ。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年3月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/03/15

014 村上城の築城(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

慶長3(1598)年に村上城主になった村上頼勝は、城を改築したというが、どの程度のものか確[しか]としたことは分からない。史料になり得るのは、元和4(1618)年に村上城主になった堀丹後守直竒[ほりたんごのかみなおより]の手紙と城絵図である。

 

直竒は大坂夏の陣(元和元年 豊臣氏滅亡)で、敗走する真田信繁[のぶしげ]勢を追って、大坂城への2番乗りを果し、徳川家康から激賞されて将軍の脇備[わきぞなえ]となり、越後長岡8万石を賜り、同4年には村上10万石の城主となった。

 

なお、真田信繁とは幸村のことであるが、幸村という名は存在しない。

 

直竒は同五年から城下町建設や城造り、あるいは産業開発などを国家老の堀主膳[しゅぜん]の指揮下にして、自分は江戸へ上る。その直竒が主膳に宛てた手紙が72通ほど残っている。

 

築城に関するはじめは、同5年12月2日の書状で、それには材木を伐採するときは、普請奉行と大工奉行も山へ同行させよといっている。現場は岩ヶ崎山から下渡山と考えられる(村上頼勝藩有林による)。

 

ついで翌6年2月の書状には、本丸の地形図を引くことを忘れた、と述べていることからすると、城郭の設計は直竒が行っていたといえる。

 

工事は坪割普請(一定間隔を何等分かに割り、定人数に分担させる)にする。崩した土を西の麓[ふもと]へ下ろせば、喜兵太という人の屋敷の木が枯れるから羽黒口の方へ下ろすべし。

 

あるいは石垣用の石は、東の腰郭[こしくるわ]の広見(庄内町南裏)へ片付けておくべし、などと見え、城山の土木工事が開始された様子がうかがえる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年2月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/02/15

013 村上城の築城(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

城跡のある臥牛山(がぎゅうさん)は、そもそもは村上山と呼んでいた。村上という地名の史料上の初出は、永正6(1509)年に成立した『霊樹山耕雲禅寺納所方田地之帳』(耕雲寺の領地を記した帳面)である。村上山という呼称が見えるのは、永禄12(1569)年2月5日の土佐林氏慶の書状である。

 

その頃の村上の地は、現在の二之町付近と飯野付近にわずかな集落があるだけで、あとは荒涼たる原野であった。慶長2(1597)年成立の『瀬波郡絵図』によれば、村上町252軒で、その西に隣接する尻引村は20軒、また飯野村は7軒と記されている。

 

むろん、その数は年貢納入者だけの数である。そうした空間の東寄り、村の上に独立した小高い山が突然そびえている。まさに村上山と呼ぶにふさわしい。その山名が土地の俗称となって、やがて正式名称に変った。(古い時代の村上の正式名称は「本庄」)

 

その村上山に城が築かれたのは、明應(1493~1501)頃と考えられる。戦国時代で石垣を築いた城は、畿内の一部は別として、東国以北の城のほとんどは石垣はない。信濃国海津城に立派な石垣があった、と書いた小説家がいるが嘘っぱちだ。

 

村上城はおよそ三段階に削平され、三の郭(くるわ、曲輪とも)、二の郭、そして最頂部を実城(みじょう)とする。各郭の要所には櫓を建てるが、屋根は茅葺か板葺である。それを柵木が囲む。塀はない。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年1月号掲載)村上市史異聞 より

 

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