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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2022/02/15

013 村上城の築城(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

城跡のある臥牛山(がぎゅうさん)は、そもそもは村上山と呼んでいた。村上という地名の史料上の初出は、永正6(1509)年に成立した『霊樹山耕雲禅寺納所方田地之帳』(耕雲寺の領地を記した帳面)である。村上山という呼称が見えるのは、永禄12(1569)年2月5日の土佐林氏慶の書状である。

 

その頃の村上の地は、現在の二之町付近と飯野付近にわずかな集落があるだけで、あとは荒涼たる原野であった。慶長2(1597)年成立の『瀬波郡絵図』によれば、村上町252軒で、その西に隣接する尻引村は20軒、また飯野村は7軒と記されている。

 

むろん、その数は年貢納入者だけの数である。そうした空間の東寄り、村の上に独立した小高い山が突然そびえている。まさに村上山と呼ぶにふさわしい。その山名が土地の俗称となって、やがて正式名称に変った。(古い時代の村上の正式名称は「本庄」)

 

その村上山に城が築かれたのは、明應(1493~1501)頃と考えられる。戦国時代で石垣を築いた城は、畿内の一部は別として、東国以北の城のほとんどは石垣はない。信濃国海津城に立派な石垣があった、と書いた小説家がいるが嘘っぱちだ。

 

村上城はおよそ三段階に削平され、三の郭(くるわ、曲輪とも)、二の郭、そして最頂部を実城(みじょう)とする。各郭の要所には櫓を建てるが、屋根は茅葺か板葺である。それを柵木が囲む。塀はない。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年1月号掲載)村上市史異聞 より

 

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