
イラスト:石田 光和(エムプリント)
長尾為景[ながお-ためかげ]は、戦を有利に展開するために、上条[じょうじょう]上杉定実[うえすぎ-さだざね]を旗頭にまつり上げた。その定実は、為景と対立を深める上杉房能[ふさよし]の養子である。このことは既述した。
為景の狙いとするところは、上杉家一門を分裂させ、勢力の衰退を謀り、やがては傀儡[かいらい]の国主にすることである。また、上杉一門が互いに反目し合えば、各地に盤踞[ばんきょ]*する国人領主も互いの利害得失から対立する者や去就に迷う者も現れ、房能が国主とはいえ、その旗の下に参じようとする者を躊躇[ちゅうちょ]させる。
*盤踞 …根を張って動かないこと
足利尊氏が興した室町幕府が続いて連綿160余年、ようやくその衰亡の色を表しはじめてきた。為景の謀略は、そのような世情に乗ったものといってもよい。為景に反逆の機を与えることになった房能には、国主としての能力が欠けていたのかもしれない。ともあれここで越後国内は一気に焦げ臭くなり、緊張感が高まった。
越後各地の国人衆の元には両陣営からの誘いの使者が駆け回る。中でも注視されていたのが、阿賀北の中条藤資[なかじょう-ふじすけ]や本庄時長[ほんじょう-ときなが]・色部昌長[いろべ-まさなが]である。彼らの城には、定実からの早馬が到着したと思えば、房能からの早馬が入る。それもひっきりなしに参陣の催促だ。
まず、定実・為景陣営の旗色を鮮明にしたのは、中条の中条藤資・古志[こし]の長尾景長[かげなが]・赤田[あかた]の斎藤三郎左衛門尉・安田[やすだ]の毛利新左衛門・刈羽[かりた]の宇佐美房忠[うさみ-ふさただ]らであった。中条の庶家[しょけ]*で領地が隣接する黒川は、地境問題で中条との争いが絶えなかったから、必ずしも歩調は同じでなかった。また、色部や本庄にすれば勢力の拮抗する中条とは常に対立関係にある。当然、房能の勧誘を受けることになる。
*庶家 …宗家(本家)から分かれた一族
上条と隣接する八条の城主・八条修理亮[しゅりのすけ]は、上条の影響を強く受けていたから上条方となり、色部と同一歩調をとった。こうして越後国内は真二つに割れ、その影響が隣国に現れ、米沢の伊達はの誘いに応じた。また、庄内の武藤[むとう]と会津の芦名[あしな]も定実=為景陣営に参じた。八条と歩調を合わせた桃井は西蒲原[にしかんばら]の黒滝城にこもった。
片や山内上杉房能、片や長尾為景が擁するのは上条上杉定実で、この二派に分裂して争いは苛烈を極めようとする。房能は中条藤資に所領を安堵したり、門前の耕雲寺に土地を寄進したりして国人衆や寺院の歓心を買い、支配に乗り出す。その一方では、京都の足利将軍にもタカやウマを賜り、誼[よしみ]を通じ勢力の伸長を図る。
そうして着々と基盤を固めつつあったものを為景は、これを看過すれば「おのれの政権奪取の機会が失われる恐れが十分にある。よし、されば房能の軍事力はいまだ不十分、大いなる隙がある。その隙につけ入り、攻め滅ぼしてしまえ」と反逆の決意を固め、麾下[きか]*の将兵にげきを飛ばした。房能は房能で、為景打討の機をうかがっていたし、幕府も房能の越後国主を認めていたから、房能の鼻息は荒い。
越後国に暗雲が漂いつつある時に、越中と能登に一揆が蜂起したという情報がもたらされる。その数30万というから極めて大規模な一揆である。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年12月号掲載)村上市史異聞 より