
イラスト:石田 光和(エムプリント)
上杉房能[うえすぎ-ふさよし]敗死の報は、房能を旗頭に擁していた諸将を震駭[しんがい]*させた。竹俣[たけのまた]も色部[いろべ]も本庄[ほんじょう]も、自然おのおのの城に籠もって戦うことを約したものだが、兵力は結集してこそ強力になるが、しかし、彼らは各自の城こそよりどころと思っていた。さればと為景[ためかげ]方の将・中条藤資[なかじょう-ふじすけ]や為景に応じた伊達尚宗[だて-ひさむね]は、阿賀北の盟主たる本庄時長[ときなが]をまずもって降せば、他の城の攻略はそう難しくはあるまいと判断した。
*震駭 …恐れ驚いて震えること
先鋒隊は築地忠基で、その後詰として伊達と芦名[あしな]が出張したのである。芦名の最前線は赤谷[あかたに]で、伊達が足がかりにするのは小国[おぐに]から下関[しもせき]である。けれど、この時どの程度の戦闘が展開されたかは判然としない。おそらくはそう大規模な戦ではなかったものであろう。本庄の記録などから推量すると、形勢不利と踏んだ時長はさっさと為景方の軍門に降り、村上城は忰[せがれ]の房長[ふさなが]に譲り、己は隠居して猿沢城に隠退してしまった。
盟主のごときの本庄がこのありさまだから、竹俣と色部も降伏・開城かと思ったがさにあらず、両者共にどうして「いざや見参、目に物を見せてやるべい」と言って、城門を固く閉じ、逆茂木[さかもぎ]を並べ、塀を高くして抗戦する構えを見せた。およそ籠城戦ほど攻守ともに損害を被る。守備陣は外からの救援軍がなければ勝つことは容易でないし、攻撃方は多大な犠牲を覚悟しなければならない。まず永正5(1508)年5月24日に敢行した為景方の平林城の攻撃は、険阻[けんそ]*な地形に守られた城のため、攻めきることができない。
*険阻 …道や地形が険しいこと
麓に造られた根小屋や築塁は突破できたが、その実城は天険の山頂にあり、路は急で狭く複雑な地形である。「このような小城一つ落とせないでどうする。者共かかれやかかれ」と中条藤資が号令をかければ、猪武者は一番手柄はわれにありと競って登りはじめる。守備側にすれば、これほど格好な標的はない、瞬く間に上から雨のような矢を降り注ぐ。攻め手の毛利新左衛門と中条藤資の手勢はわけもなく射たてられ、数十人も討死してしまった。しかし、衆寡敵[しゅうかてき]せず*、色部衆はついに防御あたわず降参したのである。
*衆寡適せず …少数と多数とでは勝負にならない
一方、竹俣清綱[きよつな]は岩谷[いわや]城にこもると、赤谷の小田切定遠[おだぎり-さだとう]に援軍を頼む。この城もまた険阻な山にある。城攻めが始められたのは同年6月29日、為景自ら部将を引き具しての城攻めだが、この城もまた天険の山に築かれたもので、城攻めに先立ち、為景はまずもって近辺の村々に放火し、兵糧とともに足がかりになる家屋を焼き払ったが、城側は城主の竹俣八之丞が討死するほどの必死の守備であった。攻撃に耐えかねた竹俣与四郎は会津へ逃げた。
しかし、為景は竹俣の主君・清綱と和睦せざるを得なく、調停を結んで三条城へと引き揚げた。この戦にも妻有[つまり]の城将・山吉盛藤は、ひそと沈黙を守り続けていた。為景が竹俣と和睦したのは、鎌倉の上杉氏が為景討伐の軍勢を催しているという情報を得たからである。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年3月号掲載)村上市史異聞 より