むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

村上商工会議所「むらかみ商工会議所ニュース」内
『村上市史異聞』(大場喜代司著)を転載するのが
昔のことせ! ―村上むかし語り―です。

 

 

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現在ご覧のむかしの「昔のことせ!」
昔のことせ!」のかつての原稿を再掲しています。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。
※「むらかみ商工会議所ニュース」掲載は2008~2015年

 

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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2022/12/15

023 村上城下町の発展(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

堀丹後守直竒[ほりたんごのかみなおより]が入封[にゅうほう](領主が初めて領地に入ること)し、建設された村上城下には、羽黒町39軒、長井町42軒、六間町8軒、上町36軒、本加(鍛)冶34軒、大町37軒、小町34軒、下小町13軒、庄内町69軒、片町61軒、新[あら]町41軒、大工町19軒、小国町60軒、本[もと]塩町20軒、寺町28軒、新鍛冶町16軒、肴町42軒、長岡町12軒、馬喰町41軒、合計652軒であった。

 

この内、本鍛冶町は細工町にあり、本塩町は免町とも称し、寺町の東半分の場所にあった。

 

軒数は村上氏時代に比べると急増である。では、この人々はどこから入ってきたのだろうか。半強制的に村を潰して移住させられたと考えてよい。羽黒町の住民は、もと羽黒口あたりに住んでいた人々だし、長岡町は堀直竒が、前任地の長岡から連れてきた住民である。

 

また、堀時代を遡ること21年前、山居山の南側には垣茂村、松山村、とどめき村、ミ[み]なくち村、城下の東に中町村があったが、その後は姿を消すことから、これらの住民もまた新村上の住民となって町内を形成したものと考えてもよい。中貝村はのちに長岡町と馬喰町とともに肴町に入るが、この時点での中貝村は足軽(兵卒)屋敷地であった。防御を重要視した地域は、城下の南口にあたる羽黒町で城主や家老の屋敷を配した。また、東口の片町には10人の鉄砲足軽を置き、庄内町にも4人の鉄砲足軽と1人の槍足軽を配した。北面の小国町にも鉄砲衆を配置、その裏から肴町裏にかけても足軽屋敷で固めた。また、馬喰町の西端にも鉄砲屋敷があった。南面には飯野の侍屋敷がある。このように町人地といえど、兵卒との混成地であった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年11月号掲載)村上市史異聞 より

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