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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りー」を再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2026/10/15

069 阿賀北・動乱の兆し

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イラスト:石田 光和(エムプリント)

 

越後国主・上杉房能[うえすぎ-ふさよし]が臣下の長尾為景[ながお-ためかげ]に攻めたてられて割腹して果て、房能に味方した本庄時長[ほんじょう-ときなが]は、親為景の中条藤資[なかじょう-ふじすけ]と伊達尚宗[だて-ひさむね](居城は後出)の軍勢に攻めたてられて降参し、時長は忰[せがれ]の房長[ふさなが]に村上城を譲り、自身は猿沢[さるさわ]城へ隠居して間もなく病没する。

 

また、色部[いろべ]氏の加護山[かごやま]城も陥落の憂き目に遭ったことは既述した。しかし、一方の長尾為景は敵対する勢力を完膚[かんぷ]なきまでに叩くが、息の根を止めることはしないのだ。相手が旗を巻き、刀槍を伏せてしまえば兵を引く。寛大というか、度量が広いというか。あるいは戦によって憎悪が生じなかったのか。

 

これに一脈通じていると思われるのが、『戦が過ぎると、勝者も敗者もその前後にはまるで自宅で平穏にいるかのようにいとも安全に通行し、……行き会う時には敵同士が互いに礼譲を尽し、ほほ笑みながら、できるだけのお世辞を使って語らった。そして彼らは五歩濠の外に出ると、どこで出合ってもただちに殺し合った。』そう記述しているのは、当時キリスト教を布教するためポルトガルから来日していたルイス・フロイスである。当時の武士にとっては闘争と礼譲は別ものであったのだろう。

 

村上城主は本庄時長の跡を継いだ房長で、平林城は色部勝長[かつなが]が城主になっていた。また、越後国守護代の長尾為景が家督を忰の晴景[はるかげ]に譲ったのは天文5(1536)年8月3日、そして病没したのがその年の12月24日のことである。

 

かねてから上条定兼[じょうじょう-さだかね]に味方して、反為景派であった色部勝長・小川長資[おがわ-ながすけ]・鮎川清長[あゆかわ-きよなが]らは新守護代の晴景に降を乞う。その頃、本庄房長は病床にあったのか、弟の孫五郎が本庄家を代表している。しかしその後、孫五郎は史上から姿を消す。短命だったのか、それとも家臣になったのか。

 

ところで越後国主となった上杉定実[さだざね]には実子がなかった。そこで、桑折[こおり]西山(福島県)の伊達大膳大夫稙宗[だて-だいぜんのだいぶ-たねむね]との養子縁組の話が浮上した。伊達は陸奥国守護の家であり、稙宗の母は上杉定実の娘であるから互いに家格は釣り合うし、両家は重縁となり、さらにその間は近くなる。

 

越後との往来を容易にするため、稙宗が大里峠[おおりとうげ]を開削したのが大永元(1521)年のことで、以来、黒川を攻め乙宝寺[おっぽうじ]の舎利を奪ったり、上杉に応じて三条城を襲ったりの侵略を繰り返してきた。

 

稙宗にとっての越後は魅力ある土地であった。その一つは、雄大な滄海[そうかい]への憧れで、それが心をつかんで離さない。眺望が開けた大里峠の頂上から、茫[ぼう]とかすんだ大海原が見えたときは髪の根が詰まるような感動だった。長大な海岸線と茜に白を溶した色の豊饒[ほうじょう]の海の原[わた-の-はら]が望まれたのだ。

 

越後への進出手段はまず、中条[なかじょう]を抱き込み、教唆して本庄と色部に圧力をかけ、軍事力を剥ぎ取って無力にするという構図だった。中条は中条で自分勝手な算盤を弾く。上杉と伊達の間を取り持つことで、おらが家格は上がり、越後の諸将の頂点に立つことができる、と。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2013年9月号掲載)村上市史異聞 より

 

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