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歴史・文化

悠久の時に触れる

新潟県最北の城下町・村上市には、武家文化、町人文化が今も色濃く残り、訪れた人たちを楽しませます。また、縄文時代の土器や石器などが出土する奥三面地域では、有史以前の人々の暮らしが体験できる施設が幅広い年代に人気です。悠久の時に触れることができる、村上のまち。あなたはどの時代にトリップしますか?

村上のシンボル 村上城跡

村上のシンボル 村上城跡

村上市のシンボル・村上城は、臥牛山(がぎゅうさん)に築かれた城で、築城年代は不明ですが、16世紀前期には存在していたものと考えられています。現在も、戦国時代に築かれた竪堀や虎口、江戸時代の石垣の遺構が混在して残り、その姿が貴重であると国史跡に指定されています。また、村上のまちには重文・若林家住宅をはじめ、数軒の武家屋敷が保存されており、往時の武士の生活を垣間見ることができます。さらに、町人町(ちょうにんまち)と呼ばれる地区には伝統的な町屋が残り、公開しているところも多く、散策ポイントの一つとなっています。

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霊験あらたか 村上の寺社

霊験あらたか 村上の寺社

全国の漆関係者が訪れることで知られる漆山神社。この小さな社の後ろにそびえる明神岩は、県北一のパワースポットといわれています。また、仏海上人の即身仏が安置される観音寺、カメを氏神の使いとして大切にまつる鹽竈(しおがま)神社など、村上には霊験あらたかな寺社があります。

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日本初・鮭の博物館 イヨボヤ会館

日本初・鮭の博物館 イヨボヤ会館

三面川ほとりの鮭公園(サーモンパーク)の中心施設「イヨボヤ会館」は、日本初の鮭の博物館。三面川の鮭に関する歴史や文化を分かりやすく紹介しています。「おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)」では、村上大祭の名物・おしゃぎり(山車)や荒馬などを常設展示。二階展示場では、村上藩歴代城主に関する資料や刀剣・甲冑などの歴史資料を展示しています。「縄文の里・朝日」は、体験型の考古・民俗ミュージアム。奥三面ダム建設に伴い水没した、三面集落の民俗資料や考古資料(旧石器~縄文時代)を展示しています。まが玉作りや土器作りなどが体験できるイベントも人気です。

歴史薫る村上の名所いろいろ

歴史・文化情報

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越後村上鮭塩引き街道

≫ご注意ください
「越後村上鮭塩引き街道」は例年12月1~20日に開催されます。

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村上の伝統文化である「塩引き鮭」が、各家の軒下に吊るされます。塩引き鮭は、腹の一部をつないだままにする「止め腹」と呼ばれる独特の切り方、下げる際も頭を下にするという特徴があります。このような点にも注目してご覧ください。

體真山 満福寺[たいしんざん-まんぷくじ]

創立は慶長元(1596)年、開山は耕雲寺14世 剛安寿金禅師[ごうあんじゅきんぜんじ]。宝永2(1705)年での山号は村上山とある。後に慈海山[じかいさん]と改め、さらに體真山[たいしんざん]と改めた。

山号を改めた理由は不明であるが、村上山の山号は地名によることは明らか。文書上の村上の初出は永正6(1509)年9月11日である。

文化2(1805)年に建て替えられた時の費用は、90両3分2朱と銭1035貫730文。全て銭にすると、1651貫862文であった。当時の大工日当は150文、米1俵が1貫650文の時代である。
(「城下町村上 寺社の由来」より)

村上市町屋造観光案内所

大正初期に建てられた町屋を、当時の趣きを残しつつ、どなたでも気軽に立ち寄れる観光案内所として利用しています。通り土間や茶の間といった、村上町屋らしい造りもご見学ください。

≫メナ・カナちゃんストラップ作り
芯のプラバン(メナ・カナ*の2種類)を選び、カラフルな布地をボンドで貼り付けて作る簡単な体験メニューです。
*メナはメス、カナはオス鮭のことをいう村上の方言
[受付時間]9:00~15:30
[所要時間]30分程度
[料金]1個 300円(メナ・カナ2体セット500円)
※お支払いは現金のみ承ります
※詳細はお問い合わせください

≫荷物預かり
[受付時間]9:00~16:00
[料金]1個 500円
※お支払いは現金のみ承ります
※詳細はお問い合わせください

はんにむ小路

現在の北線道路北側、久保多町(くぼたまち)から片町に入る辺りから山辺里川(さべりがわ)(門前川)の堤防に通ずる小路は市道半右ェ門線であるが、小路の入り口に半右ェ門という人の家があったことから、「半右ェ門」が「はんにむ」となり、通称になったと伝えられる。
この山辺里川の河原には、罪人の打ち首を行う首切場があった。現在、この場所には供養塔が建てられている。脇にある地蔵様は「首切り地蔵」とも呼ばれる。刑を言い渡された罪人は、庄内町にあった牢屋から、市中引き回しの上、ここで刑が執行された。


村上ロータリークラブ 2017-2018
村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

一宮 河内神社

仁平元(1151)年に石黒総介正盛がこの地に一ノ宮河内大明神を建てたのが起こりといわれ、後白河天皇の第三皇子・頼威親王(雲上佐市郎)を祭ったものと伝えられています。承久の乱による地方の争いを背景とした歴代譜を持つ社です。

筏場通り[いかだばどおり]

庄内町から泉町に至る路で「筏場[いかだば]通り」といわれていた。筏場とは、三面川上流から筏を組んで流してきた木材の陸揚げ場で、ここから材木屋や木羽[こば]屋に運ばれた。
文政3(1820)年の『塩町軒付帳』には、木挽[こびき]9軒、木宿8軒。文久3(1861)年の『加賀町軒付帳』には、木挽11軒とある。
木挽とは、木材を製材する職人をいい、また木宿とは薪や炭を扱う薪炭[しんたん]屋をいう。
以後、近年まで塩町と加賀町には材木屋や製材所が集中していた。

村上ロータリークラブ 2017-2018
村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

縄文の里・朝日

奥三面ダム建設によって水没した、山間奥地・三面集落で使われていた民俗資料や考古資料(旧石器時代~縄文時代)を展示。まが玉・石器・土器づくりや火おこしの体験ができます。併設の食堂「食事処 やまびこ」(例年4月下旬~11月中旬オープン)では、地元農産物を使った料理と手打ちそばが人気です。

西奈彌神社[せなみ-じんじゃ]

千年以上も前に書かれた『延喜式神名帳』にある磐船郡8座の中にあり、長い歴史があります。福井県敦賀市にある氣比[けひ]神宮と深く関わりがあるといわれ、明治の初めまでは「氣比大明神[けひだいみょうじん]」「氣比大神宮[けひだいじんぐう]」と呼ばれていましたが、その後「西奈彌神社」と呼ばれるようになりました。現在でも、福井県の氣比神宮と同じ9月4日が祭礼です。江戸時代からの社殿は、明治18(1885)年10月の大火で焼失しました。本殿は、平成3(1991)年に再建されています。
『瀬波っていいね』(活気ある町瀬波まちづくり推進協議会)より

越後村上 町屋通り

村上市中央商店街の小町[こまち]~大町[おおまち]~上町[かんまち]の通りには、昔ながらの町屋造りを活かした建物が数多く立ち並んでいます。「越後村上 町屋通り」をぶらり歩いて、城下町・村上の風情をご堪能ください。

村上市指定文化財 旧嵩岡家住宅

直屋・寄棟造りの住宅で、平成8(1996)年に現在地に移築復原されました。この建物は、玄関を入るとすぐに茶の間があり、隣に主人の接客と居室を兼ねた座敷を備え、接客と居住空間の明確な区別がありません。また、上屋の梁間が二間半ということから、隣の旧岩間家住宅と比較すると茅葺き屋根が大きく見えるのが特徴です。

【旧嵩岡家住宅の解体格納と復原の経緯】
旧嵩岡家住宅の屋敷は現在の村上市新町にありましたが、昭和62(1987)年に宅地造成のために解体されることになりました。その解体に際にして、村上市に現存する数少ない武家屋敷の一つであること、比較的保存状態が良かったことなどから、解体されることを前提としながらも、村上市教育委員会はこの旧嵩岡家住宅を市の有形文化財としての指定を行いました。
これによって建築部材の格納保存を目的とした解体調査工事と復原調査が行われ、主要な小屋組部材、軸部材及び天井部材などの内部造作材の保存格納が行われました。
平成5(1993)年、皇太子殿下と小和田雅子様の御成婚を記念しての記念公園整備事業が平成6(1994)年より計画着手されましたが、嵩岡家が小和田家と縁戚関係にあることから、この記念公園整備事業の目玉として旧嵩岡家住宅の復原が行われることとなりました。そして、この御成婚を記念した公園内には、この旧嵩岡家住宅のほか、旧岩間家住宅、さらには旧藤井家住宅の3棟の武家屋敷が復原されることとなりました。
(村上市郷土資料館)

【嵩岡家と旧嵩岡家住宅】
旧嵩岡家住宅が村上市新町にあったことはすでに述べましたが、この新町地内は、江戸時代には主に中下級武士が集住していた地区です。
嵩岡家については、天明7(1787)年の分限帳によると江戸藩邸詰めの武士の中に「平侍百石嵩岡泰蔵」とあります。また、明治初年の村上士族名寄帳によると「給人百石嵩岡小太郎」とあります。そして、明治初年に書き改められた城下絵図には、ちょうどこの場所に「嵩岡五郎左衛門」と記載されています。これらのことから嵩岡家は代々百石を給されていたと考えられ、村上藩では中級に位置する武士でした。

武家屋敷の基本的な性格として、次のことが挙げられます。
①官舎的性格を有していること
②厳しい建築規制があること
③閉鎖的な屋敷構えであること

また、拝領する屋敷の位置や建物の大きさや構造などの基準となるのは、その武士の禄高や身分格式でした。このようなことから復元された旧嵩岡家住宅の構造や間取りなどについては、この復原住宅がそのまま村上藩における百石クラスの武士住宅と即断することはできません。
それまで住んでいた屋敷が火災にあった際、藩は新しい家を調達するだけの余裕がなかったので番所を住宅に充てたという事例があります。この嵩岡家についても、例えば江戸から帰藩した際に、急遽屋敷を賜ったというような特殊な事情があったのではないかと考えられますが、残念ながらその特殊事情を裏付けるようなものは発見されていません。
(村上市郷土資料館)

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