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イベント情報

令和8年 大須戸能 定期能

芸術・文化

2026年4月5日(日)

過去の様子

過去の観覧の様子

村上市大須戸に伝わる「大須戸能」の定期能です

≫令和8年 大須戸能 定期能の番組
・寝覚
・狂言 針立雷
・大瓶猩々

≫大須戸能の由来
嘉永5(1852)年2月の記録に「古来の能装束が切損し役に立たなくなったので奉納を願う」とあることから推して、大須戸能の起源はこれよりなお久しく遡るものと推定される。
伝によれは弘化元(1844)年の冬、庄内の黒川能役者・蛸井甚助が当地(大須戸)に逗留した際、庄屋・神主など村人19人の能社中が、数年にわたり熱心な指導を受け、嘉永4(1851)年3月、鎮守・八坂神社の社殿ではじめて演能したが、当時すでに式三番の外能十五番を習得していたという。
神社の境内には、蛸井甚助が帰郷する際、記念に残したといわれる「黒川や 上に流れて 花の郷」なる句碑がある。
その後、明治・大正・昭和にかけて、さらに庄内黒川より師を招き、新たに十番を習得した。
能が神事として演じられたのは、昭和7(1932)年に八坂神社が村社に昇格してからで、以前は1月11日の山神祭の日と、4月3日の節句に演じられていた。
八坂神社の境内には、古くから能舞台が設けてあったが、雪害で壊れて以来、しばらく再建をみなかった。その後、大正2(1913)年3月の大正天皇即位を記念して建設した能舞台も老朽化し、昭和63(1988)年現在の能舞台が新設された。

≫中山家との関係
集落の旧家・中山与惣右衛門家は、創立当時より代々、能の斯道奨励の衝にあたり、能装束をはじめ幕・組立式能舞台・能面等の寄進、後継者の養成など、伝統系能の維持につとめ今日に及んでいる。
住所 村上市大須戸・八坂神社 能舞台
電話番号 0254-53-7511(村上市役所 生涯学習課 文化行政推進室) 0254-53-7511(村上市役所 生涯学習課 文化行政推進室)
開催期間 2026年4月5日(日)
開催時間 13:00 ~ 16:00(予定)
アクセス(車) 日本海東北自動車道「朝日まほろばIC」から国道7号を経由し、車で約12分
主催者 大須戸能保存会
大きなマップで目的地までのルートチェック

関連スポット

大葉山 普済寺[だいようざん-ふさいじ]

回遊式日本庭園は公開期間(春・秋)あり。また、ご連絡をいただければ随時公開いたします。坐禅会や写経などの仏教を学ぶ勉強会、お茶会、演奏会、精進料理等を楽しんでいただけるイベントも開催しています。

耕雲寺

耕雲寺は、応永元(1394)年に傑堂能勝禅師が開かれた寺で、傑堂の師・梅山聞本禅師を開祖としています。能勝は楠正成の孫に当たるといい、正平10(1355)年に楠正儀の次男に生まれ、名は正能と伝えられています。能勝は応永34(1427)年8月7日に73歳で耕雲寺で亡くなりましたが、その間に寺を離れたことがなく、宗門の学問に打ちこまれ、立派な弟子を育てました。 耕雲寺は末寺が80、孫寺以下を合わせると800にも及ぶという曹洞宗寺院の名刹です。

一宮 河内神社

仁平元(1151)年に石黒総介正盛がこの地に一ノ宮河内大明神を建てたのが起こりといわれ、後白河天皇の第三皇子・頼威親王(雲上佐市郎)を祭ったものと伝えられています。承久の乱による地方の争いを背景とした歴代譜を持つ社です。

多伎神社(多岐神社)

この神社には、義経が奥州へ逃れる途中、御供の弁慶が社の前の岩の上に立ち、日本海を眺めて「さても麗わしき景色かな」と嘆賞したという伝説があります。

飯野門通り

城下絵図には飯野門が描かれているが、長井町・上町(かんまち)境から飯野門に至る路を飯野門通りといった。 江戸時代を通じて、羽黒神社祭礼の屋台や神輿は、朝から飯野門前に集合し、この門から城内を巡って、片町の庚申堂桝形(ますがた)から町人町(ちょうにんまち)に出て巡行を続けた。 沿道の藤基(ふじもと)神社入り口の石積の階段は、市道 飯野門線の道路拡幅の際、いったん撤去されたが、伝説の石工集団「穴太(あのう)衆」によって積み直され、復旧したものである。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

孫惣刃物鍛冶[まごそう-はものかじ]

かつては40を越える鍛冶屋が軒を連ねていた村上市鍛冶町。昔ながらの仕事場を残し、現存する建物が最後の一軒となったため、街角博物館として再生されました。 館内では、かつて使われていた鍛冶道具などを展示公開。また、例年「城下町村上 町屋の人形さま巡り」や「城下町村上 町屋の屏風まつり」などのイベントでは、仕事場奥の茶の間に、かわいらしい土人形や屏風も飾られます。

出羽街道(小俣~大沢)

村上市山北地区の山間を18kmにわたり横断している、かつては松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で越後入りした街道。芭蕉は元禄2(1689)年8月12日に中村(現:北中集落)に宿をとったといわれています。緑豊かな自然の中に、昔あった番所や宿場の集落が現在に息づいています。北中芭蕉公園、大沢峠の石畳、小俣集落のまち並みなどが見どころです。

御蔵屋敷通り

「御蔵」とは、藩の米蔵のことである。この場所には藩の米蔵があったので、米蔵が撤去された以降も御蔵屋敷通りといわれた。 この蔵屋敷の上と下には、吉田門と小石垣門があり、両脇は堀であった。現在、堀は埋められ、土居は崩されて、当時の姿を見ることはできない。しかし、この狭い路を通ると、重要文化財 若林家住宅の裏の生け垣などがあり、武家町の小路としての雰囲気を漂わせている。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

狭の渡正跡[せばのわたしせいせき]

旧貝附村国道筋に建てられた石碑。「越後なる せばの渡しの 朝嵐 昨日も吹いて 今日も吹くなり」という古歌が刻まれています。碑が建てられている付近は景色が良く、古歌に詠まれた景勝地として有名です。

野澤食品工業

事前に連絡をもらいましたら、塩谷の町屋をご案内いたします。 ≫野澤食品工業 店舗兼主屋が国の登録有形文化財(建造物)に登録されました 平成28(2016)年8月1日、旧マルマス醬油蔵・野澤三次郎住宅・瀬賀惣一郎商店兼主屋と倉庫とともに国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。 ≫野澤食品工業 店舗兼主屋の特徴 南北に延びる道沿いに西向きの屋敷は、間口11間(約20メートル)、奥行き47間(約85.5メートル)で、地域では最も大きい屋敷です。建物は木造で、船枻切り妻造り一部2階建て下屋根付きの妻入り型で、この地域の特徴的な造りとなっています。茶の間の明かり取りは、通り土間の明かり取りも兼用された構造となっていて、大変珍しいです。 (『塩谷ガイドブック』より)

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